地域社会−会社−ネット社会

重厚長大産業が戦後の高度成長を牽引して日本を世界でも最も豊な国の一つに引き上げた。その重厚長大産業は地域的な集約を必要とした。そのため、重厚長大産業が立地した地域とそうでなかった地域の産業格差と経済格差を拡大した。重厚長大産業による新しいかたちの産業化の進展にともない、多くの人達の生活基盤が地域社会に根ざしたものから都市に集積した企業における労働に重心を移していった。
これにともない生活における地域社会の比重が軽くなり続けた。地域社会の前提となった昔ながらの地場産業を継承する、あるいは置き換える地場産業は育たなかった。重厚長大産業の発展と表裏一体をなすかたちで日本の社会全体が変わっていった。
重厚長大産業が立地した地域とその周辺の都市化が進むと同時に、立地から遠く離れた地域の産業空洞化が進んだ。遠く離れた地域から人達が都市に転入し都市の過密化が進んだ。地方の産業空洞化は人口流失につながり、該当地域は過疎化した。産業空洞化と人口流失による過疎が進めば社会そのものが成り立たない。歴史で培われた文化もそれを支えてきた地域経済も衰退し、(ほぼ)消滅した。一方、都市にはさまざまな外来者によって地方文化が持ち込まれたが、時の経過とともに都市の商業化した消費文化に集約されていった。
都市に集積した企業の経済活動がその消費文化を支える経済基盤を提供してきた。産業の集積化が人口の集中をもたらし、集中した人口が産業の経済活動を経済基盤として消費文化を謳歌する時代が生まれた。
それは、企業の経済活動さえあれば成り立つ消費社会で、地域に根ざした人と人が作り上げる伝統的な意味での社会ではない。そればかりか、企業の経済活動から人々にもたらされる消費能力をもってしてはじめて成り立つ社会で、消費能力の供給が低下すれば、即その社会の衰退につながりかねない脆弱な社会だった。
過疎化して社会として成り立ち得なくなった地方には次の時代の社会を形成するエネルギが残っていない。次の社会を形成できるのは都市だけになった。都市の消費社会が果たして次の社会を作り上げてゆく文化的資質と知的体力をもっているのか。人と人との関係が希薄で消費社会として拡大した都市から次の社会が生まれてくるのか。人々はどのような社会を目指そうとしているのか。
都市のありようと将来の可能性についてみてゆくと、そこには居住者としての商業文化の担い手である消費者として顔と経済活動の主体としての顔の両面を持った人々がいる。この人々の存在の基底は消費文化を支える主体としてである以前に企業の経済活動にある。都市における企業の集約した経済活動が過密都市の人々の消費生活を支えている。
都市社会には、まず企業に所属した勤労者として消費する富を生産する人々がいる。その勤労者が企業を一歩離れれば一居住者、一消費者として孤立した存在なる。一消費者として孤立した個人は消費社会の主体をなすが、社会全体のなかで消費いう二次的な部分を占めるに過ぎない。そこではバラバラの個人はあっても社会と呼べるものが生まれない。
圧倒的な存在としての企業の経済活動に組み込まれた勤労者としての都市住民と二次的な消費社会の受益者としての都市住民が生まれる。社会を支えてきた経済活動と地域社会における(消費)活動の両者を有機的に結びつけた社会がない。
重厚長大産業による高度成長が、日本という国家レベルで都市への集約と地方の衰退をもたらしたのと似たような社会の変化が起きている。高度成長期の重厚長大産業と地場産業、都市と地方の二極化が国を超えて国際的規模で起きている。今の日本の重厚長大産業がかつての地場産業に、日本の都市が世界の地方に相当する産業構造の変化が地球規模で起きている。
かつては過疎化によって社会が成り立たなくなった地方を相殺するかたちで、次の社会を背負って立った都市があった。今、その都市が今世界のなかで一地方化しようとしている。日本の多少なりとも独特な消費文化だったと思っていたものですら世界の消費文化に飲み込まれ、押し流されている。
重厚長大産業による工業化で人と人が長い時間をかけて創り上げてきた社会と文化を失った。それを企業の経済活動の成長が生み出した消費文化が置き換えてきた。その消費文化も世界の画一化されたものに取って代われようとしている。
企業の経済活動の成長がもたらした消費文化。国際化のなかで企業の経済活動が滞れば、独自と思ってきた消費文化も自分達独特のものではなくなり、手を離れる。
伝統文化や社会を失い、経済成長がもたらした自慢の独自消費文化も失いつつあるなかで、この先どのような社会を創りあげようとしているのか。若い人達を中心にネット社会が生まれてきたが、このバーチャルな社会が人と人が創りあげてきた社会、実体のある社会を超える社会を創る能力があるのだろうか。
2013/10/22