命令されたい人たち

このまま今まで通りにやっていったら先がない。何人もがレイオフになる。あまりに短時間に人を増やし過ぎた。増えた人が機能する前に景気が落ち込んだ。同業各社では既に人減らしが始まっている。いつレイオフがあってもおかしくないが、起きてみるまで実感はわかない。自分たちは大丈夫だろうという安穏とした気持ちがある反面、あるかもしれないという不安がつきまとう。
国内市場の景気がいいときは、国内営業部隊が事務所を忙しく走り回っていた。景気が落ち込んだ途端、歩く格好まで違って見える。偉そうなことを言っても日々の業務でバタバタしていなければ、存在感のない人たち。日々のバタバタから開放されたときこそ次の体制作りに忙しくなるはずなのだが、その考えがない。高度成長期に描かれた設計図をそのまま使うことしか考えられない。
日本市場が冷え込んだ分のいくらかでも海外市場で補えないかという、日本企業のお決まりのパターン。何の根拠もなく海外営業部隊に妙な期待というのかプレッシャーがかかる。確かにここ数年海外営業の伸びは堅調で全社売上のニ割を超えるところまできた。ただ、今ままでのような代理店任せで数字だけを管理してきた営業体制ではここまでが限界、あとはそれぞれの市場の景気次第で上がり下がりがあるだけで終わる。
国内営業がレイオフの可能性を肌で感じているのに比べ、海外営業とその支援業務に携わっている人たちは危機感があるようなないような。海外市場の比重は小さいから、海外営業がいくら頑張っても国内営業の落ち込みを相殺できない。国内が落ちれば全社が落ちて、生産部隊も営業部隊も間接部隊も全員が影響を免れない。それでも、自分たちは売上を増やしてきているから、レイオフはないと勝手に思い込んでいる、あるいは思い込もうとしている。
営業部隊は、製品を代理店に紹介して、売込み先からの問い合わせ−多くが技術的な問い合わせ−がくれば、営業技術部隊に振って、なにもしないできた。国内も海外も営業といえば、典型的なルートセールスのお手盛り営業で、それ以外のあり得ようなど考えこともない人たちだった。提供している自分たちの製品が顧客でどのようなアプリケーションにどのように使われ高い評価を受けてきたのか、どのようなアプリケーションには不向きなのかなど気にもしない営業に終始してきた。
自称営業のプロが率いた国内営業部隊には手を出せないが、国内の落ち込み、海外への期待を機に営業のあり方を変える算段をしていた。製品紹介の営業からアプリケーションに訴求したソリューション提案型の営業活動に 転換し、営業部隊とその支援部隊のあり方を変えなければ、将来への展望が開けない。コピーメーカの追い上げにあって既に製品単体では価格競合しえないところまで追い込まれていた。製品を製品としてプロモーションするのではなく、顧客の課題を解決するコンサルテーションを先に出して、それに製品が続くかたちにしようとしていた。
当時、米国支社から経営状況の報告も兼ねて毎月帰国していた。報告はいくら時間をかけても半日もかからない。帰国すれば一週間は本社に留まって、瑣末な事務処理を済ませたあとは、海外営業部隊と形式だった会議から雑談も交えた話し合いを繰り返した。国内営業部隊の仕事の仕方に関係なく、海外営業部隊はそれぞれの代理店の市場の状況に応じて注目すべきアプリケーションを選定して、海外営業全体としてどのようなアプリケーションを優先的に注力するのか決める。選択したアプリケーションに最適な製品群の選定、その選定となった技術的根拠、さらに競合との製品仕様や価格面で比較など、営業展開に必要とする資料は決まっている。
関係者に集まってもらって、まず製品紹介の営業からアプリケーションに注力したソリューション営業に転換してゆくことを話した。最後まで話してしまってもいいのだが、月に一週間程度しか日本にいられないこともあって、関係者に自分で納得してもらわなければ仕事にならない。呼び水を投げては関係者の意見をとお願いした。手を変え品を変え何度も同じようなことを話しても、関係者からは反応らしい反応がない。イエスノーすらはっきりしない。何を言っても聞いても、うんでもなければすんでもないのまでいる。話の相手は実の仕事をする関係者、こっちは海外拠点−ボストン、上海、シンガポールとブラッセルを毎月回って、どこにも長くても一週間くらいしかいられないジプシーマネージャ。実の仕事をしてもらうには、なぜこのような策をとるのか、その策を実行するために、なぜこのようなことをしなければならないのか。このようなことをするために、海外や本社の他の部署からどのような合意や支援を取り付けなければならないのか。支援部隊として控えているマーケティング部隊とはどのような共同作業になるのか。ロボットじゃあるまいし、こっちが全てのプログラムを書いて実行という訳には行かない。関係者の目的とプロセス、それに関係する部署や人たちとの協力体制まで理解して実行してもらわなければならない。
ところが何をどう話しても、自分から何かをしようとはしない。そればかりか自分では何も考えようとしないし、何も決めようともしない。そのため、堅苦しい会議ではなく、ざっくばらんな世間話の集まりにした話し合いにしても、飲みに行っても、自分からは仕事のことに関して何も言い出さない。どのようなかたちであれ、でてくるのはよくて訳の分からないボソボソ。
何かのときに、関係者の一人、四十ちょっと前のがボソっと言った。“何にもないんですよ。みんな何も知らないし、多分知ろうとしないでしょう。みんな、これをこうしろと言ってくれるのを、命令されるのを待ってるんですよ。説明や意見は聞かなくていい。なんでもいいから、ただ命令してくれればいいんですよ。”
主体性のない人生、少なくとも仕事の場では主体性のない人生がフツーというか、あるべき姿と信じている。豊な私生活をエンジョイしているかもしれないし、新興宗教の集まりの場では生き生きとしているのかもしれないが、こと仕事になると自分からは何も言わないし、しない。ご本人の個人的考えで仕事の上での余計な負荷は極力さける、ある意味尊敬に値する生き方かもしれないと勘違いしかねない受け身の姿勢が貫かれていた。
この類の人たちが主要構成員として社内組織の要職に収まっていた。自分で考えることを放棄して、教祖でも社長でも上司でもリーダーでも、あるいは彼氏でも女房でもなんでもいい、誰か命令してくれる人の指示を待つ生き方。
一つ一つ指示しなければならないのを面倒と思うか、それとも指示することの背景やら目的などを説明しなければならないのかを面倒と思うか。二通りの考えがあるのは分かるが、説明もなしで、ただ命令するやり方は性に合わないというだけでなく、そんなやり方では本来あるべき組織は作れない。
なかには、なんの説明もなく命令すればいいのだから簡単じゃないかという人もいる。ただ、いつまでもその人たちによって構成された組織を率いる訳でもなし、次の世代に渡していなくなる算段も考えなければならない傭兵には荷が重いし、ことは傭兵に荷が重い軽いでは済まない。組織の、社会の、人のあり方の根本に関わる。説明もなにもいらない、ただ人に命令されればいいという人たちで企業組織は成り立たない。ましてやまともな社会など成り立ち得ようがない。
もし、社会が成り立っていたとしても、それはまともな社会ではあり得ない。命令されてはじめて何かをすることしかできない、あるいはしようとしない人たち、命令され支配されることが習性にまでしてしまっている人たちによって構成される社会、それでも社会には違いない。ただ、その社会、多くの人たちが漠然と思っている民主的な社会ではあり得ようがない。社会は民主的でなければならない、少なくともその方がいいと思っているにもかかわらず、主体的に生きようとしない、身近にある社会的責任からですら距離をおいて安穏を求める。この二律背反に多少なりとも気が付いているのか分からない。
民主的な社会は自ら進んで責任を背負う人たちによってしか構築され得ない。問題は自らの責任を回避する人たちが多ければ、いくら責任を背負って立つ人たちがいでも、民主的な社会は構築できないことにある。
2013/11/24