コピーされて得るもの

個別民間企業のレベルに留まらず、国家政策として先進工業国の技術を盗用してコピーを作り続けている国がある。あたかもその国独特のこととして非難されているが、コピー製品製造は、今に始まったことでもなければ、その国に限ったことでもない。歴史を俯瞰すれば、何時の時代にもキャッチアップを試みる側が、先行する国が辿り着いた地点にできるだけ早く近づこうとして先行する国の真似をしてきたことが分かる。日本も長きに渡って真似る側にいた国で、真似られる側になったのはつい最近のことに過ぎない。工業技術で遅れをとってしまった国やその国の産業が進んでいる国や産業から学ぼうとする。うまく行っているのを見て、そこから学ぶ。人に限らず広く生物の世界に見られることで、人の社会もこの先人から学ぶことによって進歩しきた。
先人から学ぶ。ここまでは当たり前の範疇なのだが、先を急いで、短期間でのキャッチアップを試みれば、学んでいる余裕が失われる。期間を短くしようとすればするほど、学ぶ割合が減って真似る割合が増える。あまりに真似る割合が多くなると、かたちだけの真似になりかねない。先行している企業がああしているのだからということだけで、ああしようということになる。実に単純明快で、そこには試行錯誤による時間とリソースの無駄がない。時間とリソースの無駄を省くことで、最短時間でのキャッチアップが可能になる。そこでは、なぜああするのか、ああではなくてこうしたら。。。などという人間が本来持っている科学的で合理的な思考を余計なこととして停止しなければならない。停止すれば機能(能力)は壊死してゆく。
企業レベルのビジネスの視点でみれば、コピー製品製造の誘惑には抗しがたい。先行企業がある製品でそこに市場があることを証明してくれている。市場に新規参入を許す状況があれば必ず追従者が出てくる。追従者には先行企業が製品の機能や性能、実勢価格帯から市場の地域性などなど追従製品の開発から販売までのデータを用意してくれている。特許や実用新案など障害があっても、回避策を取りながらも上書きの労を惜しまないだろう。
民生製品の製造では世界市場で競合し得ない米国を中心に知的財産の侵害に対するクレームが後を絶たない。クレームのニュースを聞く度に損失の規模に驚く。損失額でみれば遥かに小さいだろうが日本の企業も被害を受けている。散々侵害してきて、今でもし続けているだろうと想像しているが、製造業の世界では、日本もれっきとした被害者に立場にある。日本の企業が長年かけて到達した地点と似たようなところにまで達したかのように見える、その国の製品のニュースを聞くと、よくまあここまで真似たものだと感心することがある。真似られた方が被る損失もかなりの額に登るだろうし、なんとかしなきゃという気持ちになる。自分たちも散々してきて、今でもしていることであっても、いざ真似られる側に回った途端、それもあまりにも大きな規模であけっぴろげにされると、そりゃないだろうと言いたくなる。
言いたくはなるのだが、追従者の多くが追従することで失うもののことを考えると、複雑な気持ちになる。かつての追従者が今の追従者に説教じみたことを言えるのかとも思う。キャッチアップを急ぐあまり、成果としての科学的知見、工業技術、工業製品、企業経営や教育体系から科学技術振興政策などなどを短時間のうちに取り入れることにより得られる豊さを否定し得る人はなかなかいない。キャッチアップの速度が早いこと、それによる急速な経済成長、それがもたらす豊な消費社会。。。
いいことづくめのコピー作りに見えるが、コピー作りは国としての本質的な存在にまで関係する知性を形成する基盤を奇形化する劇薬としての作用がある。あまりに短時間に成果だけを採り入れて、成果から即の豊さを得てきたことが人として社会として修復しがたい欠陥を生み出す。多くの人が、それも社会を背負って立つ社会層の優秀であるはずの人達に精神的欠陥を生み出す。それはまるでレトロウイルスのように彼らの精神構造の基盤の部分に入り込み、基盤そのものを変質する。
変質し、奇形化した基盤が社会として、人として最も重要なひたむきな努力に価値を認めない文化を作り出す。そこでは、豊さをもたらす成果に至るまでの、しばしば成果に至らない試行錯誤や長期に渡る基礎知識の形成から応用面への展開、さらに実用レベルへの具体化。。。出口が見えないことも多い地道な努力の過程を受け入れられない。
成果のコピーはできても、成果を生み出す、生み出し続ける社会や文化や教育、それを生み出してきた社会と歴史はコピーできない。成果のコピーにようには行かない。長い年月をかけて形成された文化の影響は取り込めるが、成果のコピーを急ぐ社会では、取り込みも表層に留まる。
成果のコピーをされる側は今まで以上に成果を生み続ける社会に進化しようとせざるを得ない。ここから次の豊な社会への進化の可能性が開けてくる。こう考えてくると成果のコピーを急ぐ社会は急速な工業化で豊かな社会に脱皮したが、その一方で成果を生み出す基本的な能力の衰退を招いていることに、成果のコピーをされ、損失を被っている被害者の社会はコピー屋に背中を押されて成果を作り続ける進化を継続する社会に進化していることになりはしないか。
どっちが本来あるべき姿かなのか、どっちが被害者で、どっちが得して損をして。。。という議論も批評も的を得てはいるのだが、とんでもなく大事な視点を見落としているような気がする。
コピー屋は萌芽的には持っていたはずのこの最も大事な能力を余計なものとして押しつぶす。そうしなければコピーできない。一方、先行した社会はコピー屋が凄ければ凄いほど、益々進化を継続する能力を強化し続ける。
2013/6/30