大学と就職難

以前からぼんやり感じていたのだが、最近、多少状況を聞けるようになって、間接的にではあるが、ぼんやりしていた霧のようなものが少し晴れてきた。社会人たるための一般教養と職業人として求められる専門分野における知識は、一人の個人のなかに融合して総合的にあるべきものであって、あえて切り分けて考えるものでもないはずなのだが教育を提供する側の立場ではそう簡単ではないらしい。
大学生も三年生になって専門過程に進んだ途端、大学教育の大学教育たる専門分野の勉強より就職活動が優先される。着慣れないリクルートスーツの就活学生を見るたびに、しっかり専門分野の勉強も終わらないまま社会にでたとして、学士さまでありえるのか、日本の将来を背負ってたってゆく人材足りえるのかと巷のオヤジが余計な心配をしてしまう。
今更、確認することでもないと思いながらもウィキペディアを見たら、案の定の優等生の説明が載っていた。引用したところで、という気持ちもあるが。その説明、巷から隔絶された立派な方々のお考えを端的に表しているのだろう。「教養課程(きょうようかてい)とは、大学(学部)で専攻にとらわれず、広く深く学術の基礎を学び人間性を涵養する課程であり、専門課程(せんもんかてい)とは、大学(学部または大学院)で特定の専門分野を学ぶ課程である。」
なるほど、実にまっとうな教育体系で感心する。この記述を真に受けて、流石に歴史の変遷を経て確立された立派な教育体系だ。これなら今日の社会、明日の社会に必要な人材を養成し輩出し続けられると言ったら、大学教育から距離のあるところに身を置いている人達からも相手にされないだろう。巷の現実が、それが皮肉か茶化し以外の何ものでもないことを証明している。教育する側、大学の教授や講師にも、これを聞いて、そうだと自信をもって肯定する人も、余程の社会音痴でもない限りいないだろう。
額面通りではないにしても、最高学府において人間性の涵養を学び、その上に専門知識を習得した学士さまが職を見つけられずに困っている。ごく一部の卒業生の話ならともかく、かなりの数の卒業生が学んだことを活かす仕事が見つからないとなると、いったい何を学んできたのかという下世話な疑問の一つや二つ出てくる。
就職が大変という話を聞くたびになんか変じゃないかと思ってきた。精神的にも肉体的にも最も活動的な十代後半から二十代に最短でも四年もの時間をかけて、安くもない授業料を払って大学ででしか勉強出来ないことを勉強して社会に出ようとしているのに学んできたこと、習得してきたことを活かす仕事が見つからない。大学で学ぶことと社会が求めていることの間にかなりのギャップがあるとしか思えない。大学で学ぶことを求めない社会が間違っているという立派過ぎる主張をされる方々もいないわけではないだろうが、同意する人はまずいないだろう。
即戦力でなくていい、数年かけて育ってくれればいい。当面は今いる戦力で一歩々々手堅く成長してゆける。ただ、五年後から十年後を考えると早く次の世代を採用して実務の経験、勉強をして頂かなければならい。業界ではそこそこ知られた会社だったが、学生も含めた一般の人達には馴染みのない会社だったこともあって学卒者の採用では苦しんだ。会社紹介の場に出展して、新卒予定の人達や第二新卒と呼ばれる人達が立ち寄るのを待つようなことまでして、将来を託せる人材を確保しようとした。
あれこれ手をつくして、この人ならと面接したが、いつもがっかりさせられた。何をどう聞いても、なんとなく大学まで行って、卒業なんですという感じで、何を目的として何を勉強してきたという考えが見えない。人事が確認のために会ってくれと言ってくるのにはとくに呆れるのが多かった。専門分野を聞いても聞き取れない。文字で書けば文字は分かる。でも、分かるのは文字までで、いったいその専門がどういうものなのかを理解できない。こっちがあまりに伝統的な製造業に長いから最近の社会の流れから置いてきぼりになっているのかと焦ったこともあった。社内の業務も色々あるから、どこかで学んでこられた専門とやらを生かして頂けないかと思案するが、いくら考えても思い浮かばない。自分の会社が世間一般の会社に比べてそれほど特殊な組織ではないと思っている。若い人について行けない、面接する側が恥ずかしい思いをして面接が終わる。終わった後で、しばし、どのような業界のどのような組織のどのような実務部隊でその学んでこられたことを生かせるのかつらつら考えてきた。いくら視点をずらして考えても、社会認識と見聞の狭さの限界からなのだろうが、未だに思い当たらない。
己の見識の狭さを棚に上げての、己の無知を晒すだけの言い草になりかねないのだが、いったい専門課程で教えていること、学んでいることが社会でどのように生かして行けるのか考えたことあるのだろうか?大学は職業訓練ではないというお叱りを頂くのを覚悟の上で言わせて頂くが、もし高名な先生方がご専門にされ長年ご研究され、教授してこられたことが一般社会では今も近い将来も必要とされず、大学の専門教育過程における教授する側とその周辺でしか活かし得ないものだったらどうなるのだろう?就職口がなかなか見つからない切羽詰まった学生も考えざるを得ない。授業にでるより就活の方が価値がある、意味があると思っている、思わざるを得ない現実が、彼らをして授業に出ずに就活に励ませる。そうでも考えないと起きていることを説明できない。
そもそも、高名な先生のご教授を得たとして、その得たものを活かそうとすれば大学の先生かその周辺しかなかったら、受講している学生の数だけの先生や周辺のポジションがあるのかという疑問がある。なければどうなるだろう。
ここまで穿った見方はしたくないし、そんなはずはないと信じたいが、巷で生かせない知識を売って禄を食んでいる先生方、実はご自身、巷では職もなく、巷で活かせる知識も、能力もないから大学という特殊な閉ざされた小社会で棲息してこられたのではないか?こう考えれば、起きていることの説明がつく。
就職先が見つからずに困っている学生を横で見ながら、ご自身は役に立たない−少なくとも学生の就職には役に立たないことをご研究され、ご教授されることで禄を食んでいらっしゃる。先生方に禄を食んで頂くために学生がいる。その学生が卒業、就職という段階になると、自分の禄を得る手段が見つからない。禄を受けるに値するもの−社会が求めるものをもっていなければ、禄を得る手段−仕事−就職口が見つからないというのも説明がつく。
起きて当然、起きない方がおかしいことが起きているだけで、原因もはっきりしている。若い人達の最も活動的な年齢期の貴重な時間が社会的に浪費されているといったら言い過ぎか?そろそろ変えなければ先がないと思うのだが、変わっちゃ困る既得権益層がいる。ここでの既得権益層とは高名な先生方とその周辺ということになる。
2013/7/28