時の経過と人の成長(改版1)

ここに二つの会社があり、二十代半ばの二人の青年がいる。一つは“東社”、もう一つは”西社“。一人は”A“さん、もう一人は”B“さん。この二人、それぞれが“東社”、”西社“に入社するまでは、持って生まれた能力から嗜好も志向も、何もかも全てが完璧に同じだったと仮定する。ただの偶然で、”A“さんが”東社“に、”B”さんが“西社”に就職した。
“A”さんが就職した”東社“には良き時代のアメリカの企業文化がしっかり残っている。誰が言うわけでもなく歴史に培われた企業文化として「社員は”コスト“ではなく”資産“。”資産価値“を高めるのは社の責任。」があった。入社して、即新入社員トレーニングに放り込まれた。社の歴史から始まってその現在的価値や会社組織とワークフロー、パートナーとの関係から各事業部の相互関係、技術開発の歴史と現在に至るまでの製品、製品のハンズ・オン・トレーニングもあれば、理解度を確認する小テストから、論文提出。。。これでもかという質と量の新人トレーニング。基礎トレーニングから徐々に社内インターンに移行していって、適正判断と事業部の人的資源の求めとの兼ね合いで所属が決まる。実業務に入ってからも、体系化したトレーニングが組まれていた。
一方、“B”さんが就職した“西社”は一言で言えば会社の体をなしていない。「事実は小説より奇なり」を地でゆくところで、どのような映画でもドラマでもこんな脚本を書いたら、あまりの荒唐無稽なシナリオで没になる。
歴代の社長と経営陣が会社を私物化し背任横領のし放題、権力の乱用の色見本のように、あってはならないことの全てがある。社史とは取りも直さず歴代経営陣のスキャンダルの歴史に他ならない。社員として陽の目にあたれるか、それとも社長の独裁と経営陣の専横による日常的な不条理に苦しむかは偏(ひとえ)に上に取り入れるかどうかにかかっている。そこでは組織は業務を遂行するためより、社長と経営陣の私利私欲を満足するために作られていた。人材も業務遂行の視点ではなく、彼らの卑近な利益にどれだけ合致するかによって専任され、解任され、人によっては精神的に病んで辞めてゆく。彼らにとって都合が悪ければ、簡単に懲戒免職になる。懲戒免職という言葉が朝夕の挨拶と似たようなレベルの日常語になっている。ちょっとズレた意味での使えるヤツだけが残って、あとは使い捨て。
そこまでズレたところに何かの考えに基いて用意された新入社員教育などあろうはずもない。あるのは、On-the-jobトレーニングという聞こえだけは悪くもない即の業務だけ。業務で実体験しながら学ぶ。そのようなところに居続ける、居続けるしかない人たちからの口頭伝承のようなトレーニング。先輩従業員には何を伝えなければ、教えなければならないかではなく、その時々の感情次第で言いたいことを言うだけのが多い。それは、もうトレーニングと呼べる代物ではなく。しばし、ただのパワーハラスメントに近い。
入社前に外から見た評価では”東社“も”西社“も甲乙つけがたい、どっちもそれなりの会社に見える。“A”さんと“B”さん、それぞれ”東社“と”西社“に入る前は、全ての面で全く同じ人材だった。ただの偶然で入った会社ででしかない。そのただの偶然で入った会社が提供する環境の違いが二人の能力の間に埋めがたい違いを生み出す。”A“さんが三ヶ月で通過する地点に”B“さんは三年かかっても達し得ない。三年も経って”A“さんに会ったら”B”さんは、“西社”でそれこそ取り返しようのない遅れを、人生の無駄をしてきたことに愕然とするだろう。“A”さんとの比較をするまでもなく、フツーの人なら自らを社会一般とフツーに比較すれば、自分がいかに遅れているか、時間の経過の割に能力が向上していないかぐらいの見当はつく。フツーの人なら。
人によっては“東社”のように、走れ走れで向上を目指し続ける生活は性に合わない、疲れるからイヤだという選択肢もあるだろう。”西社“のようにごちゃごちゃしたのもイヤだけど、あくせくした人が三年で通過するところに十年かけて辿り着く、ゆったりした仕事と潤いのある個人生活がいいというのもありだろう。それで民間の一営利企業として成り立つのであれば、それはそれで立派な選択肢。人様々、他人がとやかくいうことじゃない。ただ、残念ながら、私生活は個人の自由だが、仕事の場でゆったりした潤いのある人生を求められても困るというのがフツーだろう。私企業として生き延びてゆくには、どうしてもあくせくせざるを得ない。
そのあくせくするのを”東社“のようなところでした方がいいと思うのか、それともそこまででないにしても”西社“のようなとことがいいのかという話になる。考えようによっては”西社“も悪くもないかもしれない。上に取りいっていれば業務上の能力はたいして問われない。問われないということは仕事ではあくせくすることが少ないということになる。上が横領していているのであれば、下は下で空出張でもなんでもありかもしれない。横領のおこぼれ頂戴もありだろうし、能力なんてのより人間関係、都合のいい人治主義に楽しい毎日があればいいじゃないかという選択肢も一理ある。
ただ、そこそこの年齢になったときに同年代で“東社”のようなところにいた人たちとは歴然とした能力の差があることに気付かされる。その差は企業人としての職業上の能力の差に留まらず、人としてのあり方から社会人としてあり方までにおよぶ。まっとうな経験も努力もしてこなかったがゆえに、吹き溜まりのような“西社”で擦れっ枯らしのような集団の一員となっていしまった自分を発見する。フツーの人なら忸怩たる思いにかられるだろう。フツーの人ならそうだろう。それでも、中には思いにかられるまでの知識というのか能力を得るまでに至れない人たちもいる。寂しかな、そこまでくると、もう「無知の幸せ」。それはそれでいいのだろうとしか言いようがない。
“東社”と“西社”という両極端な企業を想定したが、ほとんどの会社は両社の間でどっちに近いかという程度の差になる。“東社”と“西社”、どちらがより望ましい会社なのかと問いに対して、それは個人の好みだと言い張る人もいるだろう。いるだろうことは認めても、フツーの人たちには個人の好みとは思えないはず、とフツーの人たちの良識にフツーの期待をしている。
どちらにも近い会社を何社も見てきた者として、私見を問われれば、個人の好みとは思わない。ただ、そうだと言いはる人と言い合いをする気もない。どうのこうのと言ったところでどうなる訳でもなし、余計なお節介。人それぞれ、好きにすればいい。ただ、自業自得はついてまわる。
2015/1/25