パンとサーカス(改版1)

ローマ時代の世相を揶揄した名言で、かたちは違えど似たようなものはいつの時代にもあったし、今もあるし、これからもなくなることはないだろう。誤解しているかもしれないと気になって、ウィキペディアを見てみた。そこには次の説明があった。“詩人ユウェナリスが権力者から無償で与えられる「パン(=食料)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。”
“無償で“は当時の略奪国家ローマの富をもってしてはじめた可能だった。広大な属州の搾取から生まれた莫大な富と奴隷によって、多くのローマ市民が完全にではないにしても生産労働から開放されていた。ローマ市民の関心は、生産労働などの社会的負担を負うことなく安穏とした、楽しい生活を送れるかだった。
人間、ろくに働かなくても食うに困らない環境が提供されれば、敢えて働こうとはしない。骨の折れる労働は奴隷に任せればいい。ローマ時代まで遡らなくてもほとんどの国民をローマ市民と似たような状態においている国がある。少ない人口と有り余る天然資源に恵まれ、労働は外国人労働者にお任せ。恨ましい限りだが、この物資的な豊かさが豊かな精神生活を生み出すかと言えば、どうもそうではなさそうだ。寡聞にして実情を知らないが、拙稿『ストレスと成長(改定1)』に書いた状況が国家規模で起きているだろうと想像している。
食うのに困らなくなってローマで起きたことは、娯楽や快楽への欲求だった。一般大衆は食うのに困らなく、娯楽や快楽が適度に与えられれば、現状の社会を変革しようとは思わない。これがいつも変わらぬ施政者の社会観だろう。パンとサーカスが目的としたもので今も昔も変わらない。二千年前のローマと今、人間がこの二千年の間に変わった訳でもない。なんらかの程度の差があったにしても基本的には何も変わっていない。そう思うとちょっと情けなくなるが、なんらかの程度の差が時間の経過とともに大きな差を生み出す可能性に賭けてみるしかないような気がする。人間の本質的な問題に関わるので解決に至ることはないだろうが、賭ける価値もあるし、少なくとも情けないという気持ちを多少なりとも軽減はできる。
ローマ時代には、苦役になる労働を奴隷に押し付けることで市民を労働から開放した。現代社会では生産性の向上と、生産コストの安い=生活コストの安い地域−発展途上国に労働を移転すること、或いは移民労働者を雇い入れることで先進国の一般大衆を苦役の労働から、部分的にせよ開放した。かつてのように過酷な労働に従事しなくても、食うに困ることはほぼなくなった。コストのかからない娯楽や享楽も得られる社会になった。景気循環や政治情勢によって上がり下がりの波はあっても先進国においては安定した生活が得られるようになって久しい。ローマ帝国のように属領の搾取を元にした“無償で”ではないが、安価に最低限を超える生活を大衆に提供できるようになった。
現代版“パンとサーカス”供給するために、ローマ帝国のように属領の搾取を原資にできない現代社会において、施政者は何を原資としているのか。税金以外にあり得ない。税金国家としての収入の主なものは民間企業の法人税や勤労者の所得税だろう。海外資産の金利などもあるだろうが基本は国内の租税。
“パンとサーカス”の向上を求めれば租税が重くなる。租税を軽くしようとすれば、“パンとサーカス”を我慢しなければならない。ローマ時代“パンとサーカス”の原資−負担は属州の住民であって、ローマ市民には負担がなかった。日本の“パンとサーカス”を支えているのは、その“パンとサーカス”を受ける人たち。自分たちで自分たちを支えている。
施政者が身銭をきって善意で“パンとサーカス”を提供してくれる訳ではない。これはローマ時代でも今の日本でも同じだが、原資の出処が違う。方や遠くの属州の人たち、方や何の事はない自分たち。自分たちで自分たちの“パンとサーカス”。これで、詩人ユウェナリス言ったような政治的盲目にいつまでも置かれるほど国民も馬鹿じゃないだろう。
人間の本質、千年や二千年、あるいはもっと長い時間が経ってもたいして変わらない。本質は変わらなくても、この半世紀ほどのうちに持ちえる知識、その知識の質と量は大きく変わった。何が変わるにも時間がかかる。ましてや社会のありようになれば、時間がかかる。社会のありようとは、言い方を変えればそこにいる人たちの常識で、変わるには世代の交代が必要だろう。かつての教育とそれに培われた常識で今を生きている人たち。今の教育と今の社会のありようを常識として生きてゆく人たち。人間の本質は同じでも、常識が違う。自分たちの負担で提供された “パンとサーカス”にいつまでも騙される世代であろうはずがないし、あっちゃ困る。ましてや今のように “パンとサーカス”の分け前の取り合いや原資の負担の押し付け合い−富裕層に都合のいいごまかしをしているようじゃ困る。
困ったところから時間をかけて常識が変わることを思えば困っていることにも多少の意味があるのかと思いながらどうしたものかと困っている。
2015/1/4