いい人でいられなくなった

戦後の復興から七十年代中頃までは、多少の解釈の変遷があったにしても“企業は社会の公器である”という当時の常識というのか社会的な合意があった。そこにはまず共同体としての社会があって、その社会にそって企業や組合、皆の生活があるという考えが共有されていた。ところが八十年代に入ってその合意が雲散霧消し始めて、今や“公器”の跡形もなくなってしまった。変わって“企業は所有者の利益追求のための組織、極端にいえば道具”という、これ以上の単純さはない考えが主流になった。
“社会の公器“が常識だったころの労使の主張を思い出すと、まるでモノクロ映画を見るような懐かしさがある。(もっとも、渦中にいた時は労使協調の胡散臭さに辟易したものだが。)
当時、ベースアップにしても一時金にしても、何かあるたびに会社と組合がかたちながらにせよお互いに主張した。どちらも演説もどきの話になって、言いたいことはお決まりの言葉が長々と続いた後に出しそびれた証文のようにできた。両者の前置きはどんな言い回しがあったにしても大方次のくだりだった。会社側は、「従業員みなさんの生活を最優先として経営にあたっておりますが、。。。」 組合側は、「厳しい市場における健全経営を目指して今まで以上に頑張らなければならなく。。。」ちょっと聞いた日には、どっちがどっちの話をしているのか分からない。お互いに相手の状況や心情に訴える口上を長々と続けたあとに、自分たちのささやかな希望を恥ずかしながらの感じでだした。そこにはお互いを同じ一つの社会の構成員として認め合い、社会を支えてゆく責任までを分かち合った文化があった。
七十年代前半までは日本にかぎらず米国においてもまだ社会の名士として振る舞う余裕のある経営者がいくらでもいた。企業の所有者である株主から信任され、経営に対する自由裁量権を与えられた経営のプロとしての経営者がいた。己の能力や知識、見識にもとづいて経営し、権威や権力を濫用しない自己規制能力のある人達が経営者の資質として求められる時代だった。長期的な健全経営を目的とした経営をよしとする安定株主と不特定多数の声なき株主が企業の所有者で、経営者は株主に代わってよりよい企業にする責任はあるが、短期の利益提供を求められることはなかった。
ところが八十年代以降、経営陣から似たような−顧客と従業員、外注先から納入業者。。。の生活に配慮した経営などという−発言を聞かなくなった、あるいは非常に稀になった。利害関係者のほとんどが企業経営に対する影響力を失い、一つだけ−金融機関だけが企業の所有者として支配的な影響力を持つ社会になった。
その始まりは、米国経済の疲弊に伴って無節操に市場に出されすぎたドルにある。この溢れたドルはどこかの金庫に眠っているわけではない。実体経済を離れ、金融としての利益、期ごと、月ごと、その日の利益を求めて世界を駆け巡る。それは、経営者に即の上納金を要求する。
企業活動の国際化が進み、経営陣が利害調整しなければならない関係者もかつてのように自国の従業員、顧客、地域社会のような単純なものではなくなった。国も歴史も社会も宗教も人種も社会的価値観も、これほどまでに違うかという利害関係者間の調整が経営者に求められた。あっちを立てればこっちが立たずというのを超えて、いくら調整しようにもあっちもこっちも立たない状態。ことの優先度を極限にまで整理しても、責任を外部に転嫁しても調整がつかない。かつてあった経営に関する自由裁量権などどこにもない。あるのは、国際金融からの上納金の要求と調整のつけようのない多種多様な利害関係者からの圧力。
従業員や下請けや納入業者などのビジネスを遂行する上でのパートナーや地域社会に対する責任を遵法ギリギリの最低限に落としてでも金融機関に最大限の上納金を収めることが要求される。短期の利益を捻出しえなければ企業の所有者である金融機関から解雇される。経営者として残るためには、全ての関係者との関係を無視してでも金融機関に阿らなければならない。
全ての関係者との関係をかつてのように良好に保ちたいという気持ちがあったとしても環境がそれを許さない。人としての良心、社会的良識を強く持っている人であればあるほど、社会の公器であるはずの、あったはずの企業経営と金融機関の下僕としての企業経営のありようとの間での葛藤を避けられない。その葛藤が強ければ強いほど金融機関の目にはリーダーシップに欠ける迷いの多い経営者にしか見えない。
社会的責任の重い立場にいる人たちが社会的責任を気にしてはいられない、金融資本の下僕でなければならない、本質的に良い人であり得る人たちですらいい人ではありえない社会になってしまった。資本主義か社会主義かという従来からの視点から一歩出て、「金融資本主義に奇形化した資本主義」をどのようにしたら、いい人たちがいい人たちとして暮らしてゆける社会にできるのかという難問に対する答えを出さなければならない。
2014/2/16