上下でしか見れない人たち

後ろから大きな声で呼ばれた。目下の人に対する強圧的な怒鳴るような口調で苗字だけが呼ばれた。ついこの間もそうだったが、何を考えてんだかと思いつつ、その程度の人、何を言う気にもならない。研究所勤務から海外関係が長かったこともあって、工場では一部の人たちにしか知られていなかった。日本を留守にしていた間に入社した若い人たちには部外者−輸出担当子会社の人間にでも見えるのか、あからさまな傲慢な物言いが多かった。
工作機械は使えば必ずどこかが傷む。中には十年以上たってもトラブル一つなしで稼働し続けるものもあるが、未熟な設計や製造に無理な使用が重なればトラブルまでに大した時間はかからない。トラブルを起こした機械が駐在員のいる国や地域であれば、そこそこの保守部品もストックしているし最悪でも現地で一次対応できる。課題は駐在員のいないところにある。発生したトラブルに日本からどれだけ迅速に適切な処置をし得るかでメーカの実力が問われる。納入された機械のほとんどが客の生産ラインの基幹部で使われているため、トラブルは即製造停止あるいは減産を招きかねない。機械の機能や性能もさることながら、トラブルの少なさと万が一のときの復旧の早さがメーカの評価を左右する。
トラブル対策はどこでも緊急を要するので、多くが客からあるいは代理店から国際電話で入ってくる。ファックスがやっと使えるようになった時代でインターネットなどなかった。トラブルの症状と起きる前に何をしていたのかできる限り聞き出すとともに、何のどこのトラブルかを特定すべく現地でして頂くチェック内容を具体的にお伝えする。症状から原因を想定し工場の関係部署に報告するとともに解決に向けた支援を仰ぐ。
工場の窓口は当時“工務課”と呼ばれた部署だった。トラブルによってはいくつもの部署に相談しなければならないが、本来は工務課が全ての調整をとる責任があった。国内営業所や顧客から、販売代理店などからも日々山のような問い合わせや相談が入る。それが直接担当部署に入ったら収拾がつかなくなる。ところが旧態依然としたというか、おそらく戦前から引き継いだ業務体系がそのまま残っていたのだろう、現代生産工場にあるべき組織論がない。あったのは額に汗して働くという精神論で業務体系が機能してなかった。
正式ルートで書類を回して解答なり、次のとらなければならないアクションの指示を待っていたら、いつになるかわからない。しょうがないから工務課に一言断って、関係部署に直接相談に行かざるを得ない。機械設計から電気、品質保証、組立ライン。。。どこに行っても日常の通常業務をかき乱す者として見られる。しばし、問題の原因はそっちにあるんだぞと思いながらも、解答欲しさに自動販売機で飲み物を買ってきては担当者に阿る。どの部署も自分の問題としなくないから、部署間をたらい回しにされる。あっちでこう言ってますけどと、こっちではこう言う見解なのですが、。。。
<余談>
虚礼廃止の掛け声のもと社内での年賀状のやりとりすら禁止していた会社なのに出した酒を断ったヤツはいなかった。電車で一時間ちょっとの実家に帰った時に父親が箱で買い置きしていたスコッチを一本拝借していた。三日で一本の調子だったから一本早く減っても気が付きっこない。横にして置けば一見ティッシュペーパーの箱みたいに見える。いつもはトラブルの話しかもってこないのが一本持ってきたというだけで態度が変わる。たかが酒一本での変わりようが面白くて何かにつけては、お世話になってますと一本だった。

工場の基幹の部署を歩き回って即打つ手はこんなところ。それで解決しなければ次はと考えながら建屋から建屋を歩いていたら、後ろから、「おい、xxx(苗字)、どうだ?」と、歩いた結果を報告しろと。立場が逆なのをなんとも思っていない。喧嘩している暇はないから、ざっと中間報告して、交換部品探しに組立に回って、その足で出荷班によって、輸送用の木箱を作ってしまおうと思っていることを伝えた。あんたの仕事を全部やってやってるんだぞとは口にも出さない。極力ニコニコしながら、余計な邪魔だけはされないように注意して相手した。
よくて木で鼻をくくったような返事しかしてこない設計部隊と電気部、オヤジと呼ばれる一癖も二癖もある現場の班長連中に振り回されて仕事のありようを考えることもなく日々が過ぎていっているのだろう。個人の問題である以上に社として組織としての問題なのだが、“額に汗して“に終始して組織論や新しい時代の職務能力のありようなど考えようもないところだった。
そのようなところでは勢い人間関係が全てになる。学閥やら派閥に県人会(都人会には驚いた)、何かの先輩後輩、挙句の果てが田舎だけあって変な(部外者にとっては)地域共同体のような意識。口の聞き方も当然のように上に対してのものなのか下に対してなのかで極端に違う。話す相手の立場が分からないとどう話していいのかすら分からないという情けない精神構造が生まれる。人と人とのありかた−お互いの人として尊重が分からない。
今まで散々十年選手を苗字で呼び捨てにしていたのが、ある日突然“さん”づけで呼ぶのに驚いた。誰かに言われたのだろう。入社三年目か四年目の若者の話し方の上下がひっくり返った。寂しいことにその若者、育ちうる環境にいたことがなかったのだろう。将来どうなるかご本人次第だろうがおそらく寂しいものにしかならないだろう。
巷を歩いていると似たような風景に出会うことがある。戦前の軍隊組織でもあるまいし、先輩だの後輩だのいったところで似たり寄ったりの歳、何を偉そうにしてか偉そうにされてか“ままごと”みたいなことに精を出すのもいい加減にして、しなければならないことをした方がいいと思うのだが、いくつになっても“ままごと”か“ままごともどき”から抜け出せない人たちがいる。
なぜなのかと考えてきたが、個人個人の問題ではなく、社会が提供する学習の場の歪みがそのような人たちを生み出しているとしか思えない。個人個人の問題に限定されているうちはまだいいのだが、そのような人たちがはたして民主的な社会をつくり得るのか、民主的な社会の構成員たり得るのかと考えると、存在を否定しかねない短絡的な結論が出かねないのが怖い。ことさらに個人の問題ではなく社会の問題だと思うようにしている。してはいるのだが、その社会の問題を作っているのもそのような人たちではないのかとぐるっと回ってきかねないを社会のところで止めるようにしている。
2014/3/23