ジグソーパズルの一ピース

多少なりとも根本的な改革をしようとすれば、抵抗勢力の反発を覚悟しなければならない。権力を行使できる立場であっても面従腹背に往生する。抵抗勢力も面従腹背もなく、ほとんど全ての関係者が心から賛同するようなら、改革と呼ぶほどのものでもなく、やって当たり前、できていて当たり前のことを改革と呼んでいるに過ぎない。改革は本質的に既得権益層や現状肯定、追認派-しばし多数派の賛同を得られない。
根本的な改革などと仰々しいことでもなく、一社会人、一企業人として、社の、組織のより良い明日を求めて責任を果たそうとしているだけだったとしても、関係者から反発を食らうことも、サボタージュに手を焼くことも多い。自らの利益を求めている訳でもなければ、ましてや我を通そうとしている訳でもない。関係者全員の将来を思ってのことででしかないにも関わらず協力を得られない。
どの社会にも時間をかけて作られた相互依存関係がある。それは関係者にとって常識であり、常識の根底には歴史に洗われ、機能してきた、問題があるにせよ今も機能していることが誰の目にも明らという、正しいかどうかは別として、認識がある。誰もが慣れ親しんだ組織や仕事の仕方がそのまま続けばそれに越したことはないと思っている。改革の主旨や目的、お題目がどうであれ、改革は今までとは違うものを生み出す。違うものを生み出のだから厳しいストレスに耐える精神的体力が必須なのは言うまでもないが、生まれてきた違うものに慣れるにもストレスがある。ストレスを乗り越えたところに間違いなく今までよりもいい状況があるという確約があるわけでもない。あるという主張はあるだろうが、今までの方がよかったということすら起きる。
誰もがストレスを避けたい。下手な改革などに関与したくない。しないですめばそれに越したことはないと思う。人情だろう。この人情−思考の慣性が安定した、変りにくい社会をもたらしている。現状肯定や追認にはマイナスのイメージがあるが、それなしには安定した社会は望めない。
改革を進めようとすれば、反発を受けなかったとしても、いくつも疑問を突きつけられる。そのようなもの必要なのかからはじまって、新しいやり方や組織が機能する保証はあるのか、それを実現するに当って誰の責任で、誰の負担が求められるのか。新しやり方や組織になった時に、現在の構成員の立場はどこまで保証されるのか。構成員の負担は最終的に軽減されるはずだが、過渡期の負担や混乱にどう対処するのか。関係者側の調整はつくのか。疑問を呈したら、いくらでも出てきて、キリがない。改革が全ての人たちにとっていいことである保証はない。どこにでも変わってもらっては困る人、昨日までだった人、明日にはいてもいなくてもいいというよりいない方がお互いのためという人たちさえいる。
自分たちの組織内、身内の利害関係でさえ調整も調停もしきれずに、最後は反対意見を押し切るかたちででしか改革は始まらない。それだけではなく、多くの改革が自分たちだけの改革では収まらず、自分たちの外の関係者との調整も必要になる。利害関係で、外の人たちが自分たちと同じ立場にいることはまずない。身内内の調整のレベルを遥かに超えた、ほとんど不可能に近い調整が必要になる。自分たちの改革が相手の負担増にならないにしても、相手にしてみれば自分たちの都合に合わせなければならない理由はない。力関係で表面上は喜んで合わせましょうということがあっても、誰も自分たちの徳にならないことに時間も労力もかけたくない。もし、自分たちが弱い立場にいれば、自分たちの都合(改革)を考える前に相手の都合を確認することになる。自分たちの都合で自分たちだけが変わることが許されない。相手の都合も考慮しなければ現実的な改革になり得ない。
この力に優る相手の都合に合わせたまでの改革という自分たちに課せられた制約、個人対組織のこともあれば、企業対企業のこともある。どこにでもある制約で国家間の関係にもある。米国の意に沿わない、もっとはっきり言えば、米国の国としてだけではなく米国資本の利益に反する改革は中南米の諸国にとって、いやな言い方だが現実的ではなかっただろうし、当分ありそうもない。同じことはソ連と旧東側諸国との間にもあった。強国の利害に沿わなければ、極端に言えばなんでもありでいくつも政権が崩壊した。
個人から国のレベルまで様々な利害関係者がいる。そのなかで誰もが多くの利害関係者のジグソーパズルのなかの一ピースのような立場にいる。一ピースとして大きい小さい、強い弱いはあっても関係者との調整が難しい、つき難い改革は、実現が難しい。自分たちのなかでの調整に加えて外との、それも自分たちより強い立場にいる関係者との軋轢を考えれば、そのような改革を推し進めるより、似たような目標地点に最終的に到達すればよしとした改善という迂回を模索するしかないかもしれない。好き嫌いではない。最後はジグソーパズルの一ピースとして周りのピースと折り合いを付けられなければ、改革し得ないし、もしし得たように見えても長続きしない。
それでも、もし、改革なしには自分たちが存在し得ないところまでいってしまったら?周囲−関係者が何をどう思うおうが自分たちの存在をかけた改革を愚直に推し進めるしかない。ベトナム戦争はその一例だろう。自分たちの都合を関係者に押し付けるも、周囲に自分たちの存在を感じさせない生き方も可能だろうが、誰もジグソーパズルの一ピースとして周囲との折り合いをつけながらしか存在しえない。その制約の中から自分たちの将来のありようを思い描いての改革になる。ウクライナをはじめ世界のあちこちで、ジグソーパズルの一ピースがその生を主張している。当たり前の話で、これさえも失えば、たとえジグソーパズルの一ピースに過ぎないにしても、その存在自体に何の意味や価値があるのかと問うことになる。
2013/12/22