将来は既成化できない(改版1)

若い人たちと話す機会がほとんどないので、本当のところは分からない。メディアの情報を追いかけている訳でもないので、漏れ聞こえてくる話から想像するしかない。勝手な想像ででしかないのだが、どうも、若い人たちが自分たちの将来が見えてしまっていると思いこんでいるようにみえる。こんなもんだろうと達観(というのも変だが)してしまっているような、あるいはそう勘違いしているような気がしてならない。以下、統計的な一般論に苦言を呈した話が典型的な一般論に堕していること、ご容赦頂きたい。
今がこうだから、来年はこんな感じ。数年後にはこれこれで、老後はこんな。。。自分の若い頃と較べて、今の若い人たちが良く言えば現実的でしっかりしているように見える。将来のことを細かく描く能力というのか努力に感心する。その一方で、一体どのようにしてそこまで具体的なことや状況を予想し得るのか、その手法というのか考えが何に基づいているのかが気になる。気になる程度のうちはよかったが考えれば考えるほど釈然としない。どう考えても、その将来を思う根拠、はっきり言わせて頂ければ、単純な線形モデルというのか世間一般にこう言われているからという程度の裏付けしかないもの、あるいはそれから派生したある意味立派な、しかしそれ以上に“俗”で害のある考え方というのか文化に犯されているとしか思えない。
統計処理を否定する気は毛頭ない。コンピュータシステムの進化のお陰で今まで扱えきれなかった質と量のデータを処理して、将来におきるであろうことを順当に予測できるようになった。科学技術の進化の賜物で、もっと多方面に使用されなければならないし、その応用範囲は加速的に拡大されるだろう。使われれば質も向上して、ちょっと単純に考えると、今更自分たちの希望や夢のようなことから自分たちが何をすべきなのか、した方がいいのかについて自分たちで考える必要がなくなってしまった。あるいは考えたところで何がどうなるわけでもないし、科学技術の進歩から順当に導き出された、自分たちの標準的な今のあり方から将来のありようまで、決まってしまっているような気がするのももっともなことだと思う。
ただ、そう簡単に結論を出す前に、一歩下がって科学技術の現状をフツーの覚めた目で見て欲しい。実に多くのことがデータ化されてきた。宇宙のことでも身の回りのものでも電子データとして表せれば、コンピュータで処理することも可能になる。可能にはなるが、次の二つの点で将来が見えてしまっているという巷の常識が成り立つものなのか、あるいはどこまで成り立つものなのか、成り立ちようのあり得ないものなのかを考える必要がある。
ものごとなんでも数値化できれば、電子データにし得る。では、なんでも数値化できるのか?ことは数学の世界でも物理学の世界でもない。社会全体に渡ることで、人それぞれの経緯や思い入れや好き嫌いから、生き様に関わる。誰一人として同じ人がいない。そのいない人たちを集団の大きなデータとして扱えば統計処理ができるという主張も間違いではないと認めた上で言わせて頂く。現在のあるいは将来の科学技術がいくら進歩したとしても、個々の人の感情や思考や嗜好の類は数値化しようがない。数値化したところで、数値化したものがモデルとして数値化されたものをカバーしきれない。人間社会にはどうしても本質的に掴みきれない“不確定”なものが存在する。一人の人が今はYesだったのに、たかだか数分後にはNoというのもありだし、これが一人の人ではなく、ある社会層や国のレベルでもYes、Noのような二択の判断ですら、どちらとも言いがたいというのもあれば、簡単に反対になるというのもある。
現状から考えて、来年は、三年後は。。。順当な予想はつくが、その三年後の状況のなかで一体自分はどうありえるのかという問いに対して、集団として標準値としてならいざ知らず、個々の人の対して、これですとはっきり断定し得るほど社会も個々人も既定されている訳でもない。人間社会にはごくごく日常的なことでも、あるいは日常的だからこそかもしれないが、常に“不確定”という本質がつきまとう。たとえ、集団として大まかこの程度だろうというのはあっても、その大まかの上と下、右と左ではかなり大きな違いもあるし、たとえ当初は目立たないちょっとした違いでも五年後には十年後には大きな違いとなることもある。いくらデータ処理の精度をあげたところで、そのおおまかですらも範疇からはみだしてしまうことも起きる。
統計処理やら何やから算出された標準値が示されると、多くの人たちが自分たちはその標準値に向かって進んでいると思い込みかねない。そこから大きく外れることにマイナスのイメージというのか疎外感すら抱かされる。標準的な人は統計上にしか存在しない。集団としてのデータはそのまま個々人に適用できない。全ての人がその人しかいない、誰一人として置き換えられない。みんなそれぞれの独自の個人としている。にもかかわらず、人を標準モデルに収束するデータ処理が人それぞれのはずの将来のありようを一義的に示す。自分(たち)の将来が一義的に示されれば、将来を思う人間の人間たる所以の能力を矮小化してしまいかねない。なんのためのデータ処理で、なんのための統計処理なのか考えた方がいい。
自分の将来、いくら何をやってもこの程度と、偉い学者さんが開発したアルゴリズムで予測してくれるのはありがたいが、人間、自分の将来をその程度と思った途端、自分の頭で考えて、自分の意思でものごとを判断しなくなる。その結果、将来に向けた努力をしなくなってしまう可能性すらある。今のように便利な、或いはお節介な標準的な予想をだしてくるコンピュータシステムがなかった時代、人は自分の将来を今よりもっと自由に思い描く自由を持っていた。人間の歴史をみれば、標準から外れた人たちが、自分の思い、夢や野心、社会に対する責任などから次の新しい社会を創ってきた歴史にほかならない。
科学技術が進化して標準モデルが緻密になって精度も上がるだろう。ただ、いくらよくなったとしてもデータとして扱うための数値化のところで本質的な欠陥−本質的に数値化できない−がある。さらにモデル化による標準化が人間社会を創ってきたわけではないことを思えば、ちょっと穿った斜視の目には、施政者や今の状況でうまい立場にいる人たちが現状を固定化するために都合のいい仮説に基づいた数値化と標準モデルで、人々の将来を思う、人としてのありようの本質を退化させ、扱い易い人間にしようとしているのかもしれないとすら思えてくる。巷でよく見聞きする自分たちはこんなもんだろうという緩やかだが、したたかな既成を気にはしても真に受けるほど人々は退化しきってはいないと思っていたい。
2014/12/14