commonsenseと“常識”

ホームページの名前を“Mycommonsense”にした理由のひとつなので、もっと早く書いておくべきだった。
日本語なら一瞥で分かるものが英語では読むのに一プロセス、理解するのにもう一プロセス余計にかかる。何も英語で書かずにカタカナで“コモンセンス”と書けばいいじゃないかと思う。そうはしたいのだが、カタカナで書くのを躊躇する。カタカナ表記の“コモンセンス”が一般的になっているとも思えない。もし、コモンセンスに違和感のない人がいたとして、commonsenseとコモンセンス、果たしてどこまで同じものとされているのかも気になる。
カタカナ表記に“おやっ”と思うことがある。economistとエコノミストの違い、カタカナを使ったときの意味のズレが怖い。生き様にまで関係したことで無造作にカタカナを使う気にはなれない。巷のカタカナ表記、しばし本来の意味とは違う意味を意図的、あるいは故意に入れ込んでいるとしか思えないものさえある。そのため、敢えて英語のままcommonsenseとしておくことにした。
ほとんどの人がcommonsenseを見れば、カタカナのコモンセンスではなく、日本語の“常識”にゆく。(なかにはトーマス・ペインを思う人もいるかもしれない。) 手持ちの英和辞典を見れば、commonsenseの訳語として“常識的な、良識のある”が載っている。広辞苑でコモンセンスを引くと、“常識”、“良識”になっている。“常識“と”良識“が定訳なのだろう。ただ、”常識“と言われても、不勉強でそれが一体何を意味しているのか分からない。気になって広辞苑で調べてみた。ちょっと長いが引用させて頂く。「普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに理解力・判断力。思慮分別などを含む。」
高名な先生方の明確な説明。ただ、明確な説明から判断する限り、日本語の“常識”にはcommonsenseに包含されている本来の意味というのか、重要なエッセンスが入っていない。commonsenseは、”常識”というよりフツーの人たちの日常生活に根ざした当たり前の、日常の知恵のようなものを意味している。それを思慮分別と言われると、いえ、そんな大層なものでなく、もっと日常のフツーのものなんですがと気がひける。文語と口語の違いというのも変だが、両者が意味していることはちょっと違う。その違いを高名な先生方が知らないはずがない。辞書に載せる都合もあって簡潔の説明されたのが、英和辞典であり国語辞典ではないかと思う。型にはまった勉強の得意な日本人、辞書の記述に収まって、誰もcommonsenseがイコール常識ではないことを言い出さないのかと気になって、Webで調べて見た。
“英語学習雑感ブログ”が見つかった。英語の先生が書かれているブログで、”common senseは「常識」ではありません“と題して、commonsenseが意味しているところを説明してくださっている。説明されているサイトのurlは、http://ameblo.jp/brahmy/entry-11228859202.html。ご覧頂ければと思う。
commonsenseは、日常生活のなかでさまざまな経験を通して培われる。家庭も含めて所属する社会から受け継ぐ社会通念や考え方、それに基づいた人としての生き方のようなもので、かなり包括的な人としてのあり方になる。そこには当然、特別な教育を受けることによって習得した知識も含まれるだろうが、これが主体の響きのある“常識”や“良識”のように狭義のものではない。
日常生活のありようだけに、皮相な直接体験だけに固執すれば、太陽が地球の周りを回っているというとんでもない間違いを犯しかねないが、それでも、自分の日常のフツーの考えから物事を見る習慣を捨てるのは危険過ぎる。どのような説明でも必ず説明する人の都合がある。誰かの、あるいはある社会層のために過ぎないはずのものがあたかも公共の、全ての人たちにとって良いことのように説明される。格好をつけた社会的にスジの通った説明であればあるほど、社会的に強者の立場にいる人たちのための説明ではないかと斜に構えて、自分のcommonsenseに信を置いて疑って見る必要がある。
かつての立派なご説明によれば、原子力発電は国を上げて全ての人たちの生活向上を図るものだった。危険性?リスク?サギ商売の契約書のようにどこか気が付きにくいところに小さな文字で書かれた注意書きのようなものではないか。多く御用学者とその使徒の尽力の賜物で、そのような注意書きなどあったとしてもお墨付きの安全性と経済合理性の御旗の下に隠されて”常識”の視点からは見えない。
富裕層の税率を下げれば、富裕層に金が回って、回った金が投資されて、産業が奨励されて、雇用が増え、税収が増える。もっともらしく聞こえるトリクルダウン理論。commonsenseで考えれば、このロジック、どこか変じゃないか?と気がつく。大層な名前がつけられているが、百歩譲って、そんなもの、よくて仮説ていどの代物であることくらいの想像はつく。トリクルダウン仮説なるものが、何をもたらしたかくらいは分かる。社会的に強者の立場にいる富裕層をより豊にして、一般大衆を貧しくしてゆくものでしかなかったことを歴史的が事実として証明してしまった。
証明されてしまったら、“常識”を売ってきた立派な先生方、証明された事実を事実として認めずに、どこそこかのやり方の失敗だと、責任を押し付けあって自己正当化に奔走している始末。先生方のお墨付きの“常識”が、ある社会層の経済的、政治的立場をより強固にする“常識”という社会基盤を提供してきた。先生方の自己正当化とそれを自分たちの利益のために保証し活用する社会層。その都度、都合よく焼き直しされた“常識”がまた敷衍する。
この“常識”が教育され刷り込まれる。きちんと“常識”内に収まって、“常識”に基づいて、見せたいものを見せたいように見せられて、変なものが変に見えなくなる。“反常識”と言っても意味がない。“常識”の前にある“commonsense”。
“常識”と“commonsense”ではない。順序が違う“commonsense”と”常識“。
2014/1/5