第三者の評価(改版1)

人はどれほど自らの評価で物事を判断しているのだろう。たとえ自らの評価と思っているものにしても生まれ育った社会とその歴史、言語や教育から完全に切り離されたものではありようがない。そこには全ての人は所属する社会で生まれ育ってきた歴史や環境、現在の状況から立場などさまざまなものから総合的に事象を理解して合理的に判断しているという希望混じりのか思い込みが勝った理論?が出てくる。ところがこの理論、よくて議論を分かりやすくするための仮説に過ぎない。人は往々にして合理的でない判断を下すことがある。
人は何かについて考え判断をし続けているが、妥当な判断をしているのかと考えると少なくとも二つの点で検証が必要になる。まず何に基づいての判断なのかということ、次にその判断どこまで誰にとって合理的なのか。この二つがはっきりしないと、判断がどれほど妥当なのか分からない。
ここでは、合理的な/でない判断をくだすこともあるというのを横に置いて、何に基づいての評価に従って判断しているのかに限定して話を進める。
人は常に誰かの何処かからか得た情報や巷の評判、ときには風説などに基づいて何らかの理解をして、評価して判断する。どのような組織に属していようが、一握りの人たち以外は事象の一次資料、一次データ、誰の手によっても処理されていない生の資料やデータを持っていない。持っていたとしてもある特定の領域に限られる。また、仮に持っているデータが生のデータだったとしても、そのデータがどのような経緯で入手されたものなのか、その入手プロセスが事象に影響をおよぼさない、また全ての事象から一切のバイアスのないデータがありえるのかと考えれば、データはたとえ生であったとしても、必ず何らかのバイアスがかかっている。かかっているバイアスが無視できる程度だったとしても、そのデータをどのように処理して判断の素材とするのか。その処理には必ず処理する人の、あるいは組織の思い入れや都合が影響する。
社会が発達すればするほど、専門領域が細分化され、個人の能力で知り得る、理解し得る領域が狭くなる。自分では分からない、理解し得ないことが増え続ける。その結果、意識してしないにかかわらず、全ての人がなんかのかたちで誰かの評価−第三の評価を基に自分の判断だと思って判断することになる。どのような判断になるかは、しばし一義的に知り得た第三者の評価でしかないにもかかわらず、自分の判断だと思い込んでいる。
ここまで何に基づいてといってきたが、話を先に進めるためにもう一歩踏み込んで、何を分解する。人が何に基づいてという“何”に対する信頼をかたちづくるのは“誰”が“何”を言っているかという二点に拠っている。
“何”の内容が聞いている人の理解の能力を超えてしまったり、しばしば単に面倒と思った途端、人は言われている内容−“何”からではなく言っている人の評判に拠って聞いている“何”の妥当性を判断する。よく言われる“何を言っている”のかではなく、“誰が言っている”かによって“何“を受け入れ、自分の判断の拠り所にする。
さらに科学技術の進歩が加速してグローバル化し続ける社会では、たとえ個人で知り得る、理解できることが絶対量として多くなったとしても相対的には少なくなる。増え続ける情報に人の情報処理能力が追いつかない。“何”の信頼性は“誰”によって保証されているはずとすることが増え続ける。きつい言い方をすれば”考える“をあきらめてか放棄して”信じる“に堕落する。
それではその“誰”の信頼性はどのようにして検証し得るのか?“誰“の信頼性は別の”誰“によってしか保障され得えない。”誰”の信頼性の検証に次の“誰”が、さらにその次の“誰”の信頼性の検証に。。。という“誰”の連鎖に陥る。 連鎖のはじまり−オリジナルの“何”を提供する“誰”は、一握りの専門家(と思われているに過ぎないにしても)や専門家集団、その使徒に限られ、巷の“誰“は、専門家として振る舞い、人々からもそう思われていたとしても、しばしば伝言ゲームの一プレーヤに過ぎない。
実社会では信頼性のおける第三者として、例えば安全性に関する公共機関の認証だったり、歴史によって培われた企業の評判だったり、英語検定などの資格試験を提供している準公的機関のような体裁をまとった社会法人だったり、調査会社や格付機関だったり、ときに大学の場合もあれば行政機関だったりする。
近代経済学が高等数学の導入に偏重したというのか、数学者が経済学をその応用領域として活躍したのか、それとも経済学者が高等数学を一つのツールとして導入したのか知らないし、知ろうとも思わない。知ったところでなになるという気持ちの方が強い。彼らが社会と人のありようを科学の名のものとに簡素化し数学を駆使してモデル化した。 扱える範囲の都合のいいデータに限定し、実社会から乖離した単純なロジックで成り立った社会を仮説として唱え、それがときの政治経済権力層によってもてはやされたに過ぎないのを、金融市場の崩壊で思い知らされた。
リーマンショックに続く金融危機でその基礎が揺らぎ今までの暗黙の信頼性に基いてきた、鵜呑みにしてきた人たちの判断基準−“何”が崩壊するのを見てきた。格付機関や調査会社、半公的な顔をした調査機関や保険機構。。。優秀な専門家集団がそろいもそろって疑ってしかるべき第三者の評価をろくに検証もせずに評価基準として使用して、しばし自らも根拠の疑わしい評価を提供する第三者として振る舞い、恣意的に事象を評価してきたに過ぎないことが露呈した。
巷の人たちが専門家として崇める金融機関のアナリスト、エコノミスト、有象無象の評論家連中から、多少の距離をおいてマスメディア、その後ろ盾となった御用学者、挙句の果てに行政機関まで、このうち“誰”が一次データを自らのロジックで分析し、自らの判断基準で物事を評価してきたのか、あるいはする能力があるのか。多くは単純なロジックで仮説を事実と勘違いしてか騙してか売り歩いた(時流に乗った高名な)学者先生たちだろう。先生方から派生した巷の人々の目には優秀な専門家のはずの人たちは仮説を事実と勘違いした先生方の下流に席を得た伝言ゲームの一プレーヤに過ぎない。根拠を問われても、そう言われているからそうなんでしょうとしか言えない程度の状況把握に過ぎないものが専門家として“何”を公言してきた。
社会の進歩が専門家を極端に狭い領域での専門家にするとともに伝言ゲームの一プレーヤを巷の専門家としてきた。もし市井の人たちが、その専門家からでてくる評価に基づいてしか社会の事象を評価し得ないとしたら、今回のような金融危機を引き起こさないためには、一体何を基にして何を評価し判断してゆけばいいのか。第三者の評価を拠りどころとしなければ、何の評価もし得ず社会そのものが成り立たない現実がある。
どうにもしようがないようにしか見えないなかで、一つだけできる些細な努力があるかもしれない。“誰が言ってる”からと鵜呑みにするのを避け、言っている“何”に対して“なぜ”という説明を試みれば多少の助けにはなるだろう。説明できなければ、辻褄が合わなければ、どこかにロジックの欠陥が、あるいはごまかしがある。
2014/04/13