割り箸とレシート(改版1)

いつの頃からか割り箸は反エコ、森林破壊の一因と言われ身近な飲食店から姿を消した。そこでは粗末な樹脂製の箸がフツーになった。割り箸がくれた、安心感というのか清潔感(どちらも事実かどうか知らないが)がなくなった。樹脂製の箸に使用されている樹脂材のせいなのか食器洗い機のせいなのか、それとも両者の相性なのか、もしかしたら最初からそうなのかもしれないが、樹脂製の箸の表面のざらつき(滑り止めでもないだろう)が気になる。食器洗い機で洗ったあと、一本一本きれいになっていることをチェックするにはかなりの手間がかかる。きれいになっているはずとして箸入れにだろう。
エコ生活が染み付いて、割り箸に戻してくれたとしても、コストアップ分余計に払う気持ちになれないかもしれないが割り箸がなつかしい。懐かしさもあって割り箸とエコの関係をWebで調べてみた。ちょっと見ただけだし、そこに書かれていることが事実なのかを検証する手立てもない。そこまでする気もなくての発言で恐縮だが、大筋は間違っていないだろう。
もともと割り箸は間伐材や木材加工時の端材から作られていた。割り箸や楊枝などに使わなければ捨てるしかないゴミ。そのゴミ、ただ捨てれば捨てるコストだけマイナスになるが、割り箸や楊枝の素材にすれば林業の収入になり、森林保護の原資の一部として林業に還元されていた。こうみると、割り箸は立派なエコで環境保護のはず。
間伐は森林保全にも事業としての林業にも必須の作業だが、自動車や家電などの製造工程のように自動化できず、どうしても手間暇かかる。日本ではこの手間暇、かなりのコストになる。そこに森林資源の豊富な、あるいは森林資源を一時の利益追求にしかねない途上国から安価な木材が輸入された。日本の森林資源を保全し、育成するために一役買っていた割り箸が途上国の森林資源の破壊に一役買うという単純な資本の原理が働いた。
ここで問題なのはどの一役かを決める単純な資本の原理の方で、割り箸そのものでないことは明らかだろう。アダム・スミス以来の“見えざる手”−関係者がそれぞれ己の経済利益を合理的に追求すれば最適な資本配分が達成されるという論理がそのまま働けば、どのようなことが起きるかという見本のような気がする。
エコを、自然環境保護も合わせて求めるのなら、国産の間伐材から作った割り箸を使う方がいい。誰の目にも明らかだろう。名刺やカタログに再生紙を使用していますとエコを推進していることをこれみよがしに謳っているのを見るが、割り箸もそれにならって、国産の間伐材を使用してます、日本の自然環境保護に一役買ってます、ちょっと支援してくださいくらいの主張をしてもいいだろう。割り箸の問題は間伐材の有効利用からコスト負担、さらに森林保護から環境保全に至る。これは安価な割り箸材料の輸入に対する国産材のありようという経済上の問題に留まらない。資本の自由に任せておけばうまくゆくという脳天気で無責任な政治の問題にほかならない。
こう考えてくると割り箸はやりようによっては立派なエコになる。しかし、いらないレシートはエコにしようがない。コンビニやちょっとした買い物や食事でレシートはもらっても捨てる以外にしようがないことが多い。コンビニなどではレジに必ずといっていいほど、いらないレシート入れが置いてある。客がもらってから、いらないレシート入れに入れるのではなく、客のいらないという言葉や素振りから店員がそのままレシート入れに入れる。見ることも使うこともないレシート。プリントアウトして出てきたら、そのままゴミとしていらないレシート入れに。些細な額だろうが、立派な反エコだ。気になって近くのコンビニで聞いたら客の九割がたはレシートを受け取らないとのことだった。
そのレシート用紙、まさか日本の間伐材から作られているとも思えない。レシート用紙の原材料だけ、他の紙とは別にしているわけでもないだろう。割り箸とは違う。割り箸は使うが、いらないレシートは使わない。使わないものに、大した量ではないにしても資源が純粋に浪費されている。にもかかわらず、使わないレシートが減る、なくなる方向に進む気配はない。なぜ、想像の域をでないが、企業の利益にならないエコはエコにはならないということだろう。そうでないことを期待しているが、想像をしてゆくと多分こんなところだろうとしか思えない。レシート用紙、供給する側からすれば確かな売上げを期待できる。POSシステム導入時にシステム価格を低く抑えられたとしても、一度納入してしまえば、レシート用紙という消耗品で確かな利益が上がる。美味しい商売だ。
レシートを出す店、客はいらないといってゴミ箱へ、この両者がその都度負担する使わないレシートに対するコストは微々たるもので誰も気にしない。これが消耗品として用紙を製造、売る側には美味しいビジネス環境を提供する。印刷する店も客もかなりの数になるが、売る側の数はしれている。買い物客にとっては微々たる、無視できる額であっても、限られた数の企業に集めれば十分な額になる。誰も気にしないところで、競争にさらされることない確実な利益。この利益を犯すようなエコがあるとは思えない。これが巷で喧伝されている資本のロジックによるエコの限界。エコと聞く度に、情けないことに誰にとってのエコなのか、本当にエコなのかと穿った見方が癖になった。
2014/1/20