専門家には任せられない

科学技術の進歩が地球規模で社会のありようを変え、距離を超えて人と人とのつながりを緊密にした。地球が小さくなっただけでなく、あらゆる点で便利になった。科学技術の進歩とそれを基にした産業発展の賜物だとつくづく思う。その進歩も発展も領域の細分化と専門化なしにはなし得なかった。ただ、あまりに細分化してしまって、その弊害が言われるようになって久しい。弊害をどうするという策もないまま、新たな進歩を求めて細分化も専門化も加速している。
細分化した狭い領域の専門家なしには社会がなりたたなくなってしまった。ある領域とその周辺の領域全体を見渡す専門家ではなく、個々の限られた領域の専門家が組織化され集団として機能しなければ、全体どころか全体の一部であるサブシステムですら把握できなくなってしまった。自分の専門領域のことは分かるが、その近傍領域になると領域の接点までしかお互いに踏み込めない専門家集団。たとえ踏み込もうとしても近傍領域は専門外で手がでない。必然的に専門家同士の住み分けが出来上がる。
専門家でも自身が専門とする狭い領域しか分からないのだらが、市井のフツーの人が専門家のように理解できるはずがない。人間社会が分業化し専門化し始めたとたん、専門家でなければ理解し得ないという問題が生じたが、それでも二十世紀の科学技術の進歩の前までは、巷の素人でも勉強すれば理解しえないことでもない程度の専門化だった。それが、今や巷のフツーの人たちではなく、専門家集団のなかでもさらなる専門化が進み、領域がちょっとズレれば専門家ですら理解し得ないレベルにまで細分化してしまった。
原子力の専門家ではなく、原子力発電の専門家。それでも専門家集団のなかでは専門家ではない。原子力発電のxxxの専門家、yyyの専門家。。。特殊な領域に細分化された専門家集団が組織化され共同で作業してはじめて、原子力発電なるものが開発、設計され、建設され、稼働され、それぞれの周辺の作業も遂行できる。
原子力発電の安全性という重要な問題について一人で答えられる人は専門家といえども誰もいない。原子力発電を一つのシステムとして、またその稼働に欠かせない周辺まで含めてシステム全体を鳥瞰するかたちで把握している人はいるかもしれない。ただ、個々の領域の専門家の視点でみれば原子力発電に関する素人専門家の域に留まる。全体像を鷲掴みにできたとしても、個々の詳細までは踏み込めない総論の専門家ででしかない。
では、特化した領域の専門家の方々は、原子力発電がシステム全体として安全なのか、どの程度安全なのかという巷の人たちの、ある意味漠然とした質問に対して答えられるのか。それぞれの領域の専門家はご自身が専門とされる特化した領域についてのみ、これこれと考えられるという回答だろう。その領域が成り立つための前提条件である関連領域で必須条件が満たされるのか、どのようなときにその条件が崩れる可能性があるの検証には個々の領域の専門家たちとの膨大な共同作業が必要となる。近傍だけでなく、遠く離れたと思っていた領域の変動がおよぼす影響まで、どこまで何を検証範囲とするかという問題すらでてくる。
原発の安全性に対する疑問も、金融不安が起きた原因も、再発を防ぐにはどのような法律なり規制なりが必要なのか。法律なり規制なりの社会全体に対する影響は?どの社会層にどのようなマイナスが、あるいはプラスがあるのか。専門家でも難しい広範囲の情報収集から分析まで、巷のフツーの人たちにはできない。専門家にお願いしてご意見をお伺いする以外にどのような手立てがあるのか。
狭い領域に特化した専門家でなければ情報収集の段階から分析に至る作業をし得ない。特化した専門家でなければ現代の高度化した産業社会では手に負えない。ところが、専門家であればあるほど、その専門領域を超えたところでは専門家ではなく専門家の周囲の人たちに過ぎない。原子力発電や金融政策など大きなシステムではどうしても情報収集から分析まで広範な領域のそれぞれの専門家集団の協力体制が必須となる。
専門家のご意見を拝聴するしかないし、拝聴するのだが、そこに専門家が専門家集団としてしか機能しえないことからもう一つ別の本質的な問題がでてくる。かなりの数のこっちのあっちの。。。狭い領域の専門家が集団で自分たちが専門家として生きている、禄を喰んでいる業界の存在に疑問符を発しかねない分析をし得るか?限られた領域の専門家であれば、専門家の中の専門家であればあるほど、その領域を活用する産業なり事業なりが衰退すれば専門家として活きる場と生きる術を失う。
専門家が自らの専門領域の社会的存在を否定しかねない考えを公言すれば、専門家集団からはじき出され職を失う可能性がある。集団で分析をする組織に一専門家として参加すれば、専門家集団としての経済的、社会的利益を毀損しかねない意見は出し難いだろう。
専門家は専門家であるがゆえに自分が専門とする領域で活きるために専門家集団にとって都合のよいことを主張する可能性が高い。さらにその専門家集団のお墨付きを必要とする公共団体から営利団体までが専門家の意見を自らの利益に向けて誘導する。専門家と社会の既得権益層の間に持ちつ持たれつの関係ができあがる。たとえ間接的にせよマイナスの意見を言い出しかねない専門家は学術団体や業界団体の会合には招待されないし、情報も提供されないだろう。昔の言葉で言えば“村八分”にされ、時間の経過とともに専門家ではなく、かつて専門家だったという立場に追い込まれる。
原発の安全性、さまざまな環境アセスメント、金融行政、税制、関税、福祉、教育。。。あらゆることが専門家集団のご意見を基に立案され施行されているが、果たして専門家集団は誰の利益のためにご意見を出しているのか。一部の社会層や組織が必要とするご意見を出すために呼ばれた専門家集団ではないという保証があるのか?どのような専門家から出てきた意見だとしても、それが専門家の大勢の意見であれば、専門家集団の利益のための意見ではなく社会のための意見であるという保証がはたしてあり得るのか。
原発の専門家は原発廃棄を主張しないし、金融関係の専門家が金融機関に不利な−社会による規制を主張することもないだろう。当たり前の話だ。専門家の意見を日常生活の当たり前の考えで検証し得る知識と能力−安易に鵜呑みにしない知恵が市井の人々に求められる。
市井のフツーの人たちがフツーに理解できる、よく言われる高校卒業程度の知識で理解できる説明をさけ、専門家ですらどちらとも読めるような提案、専門家でも理解し得ないような理論を振り回す専門家はいらない。どのような理論も提案も市井の人たちが理解し得て初めてその存在の意味がある。
変な比喩になるが、平和な社会を望むのであれば、戦争の専門家である職業軍人に軍事のことは任せられない。職業軍人とは戦争をすることに存在意義のある戦争をしたい人たちだ。戦争をしたい人たちが平和の専門家であり得ようがない。文民統制でなければならない。おなじことが原子力発電にも、金融政策にも、環境政策にも、税制改革にも、教育改革にも。。。すべてのことがらに言える。社会は市井のフツーの人たちのためにあるのであって、専門家のためにでも、公共団体や民間団体のためにもで、ましてや一部の利権集団にためにあるわけではない。
市井のフツーの人達による統制。それが民主主義の根幹だろう。専門家の話は聞くが専門家には任せられない。
2014/1/19