県人会でもないだろうに

ひょんなことからWebでシンガポールの日本人社会を調べていた。あちこちのサイトにある県人会の多さにびっくりした。東西の文化やビジネスが交差するシンガポールまで行って県人会でもあるまいしと思いながら、シンガポールまで行ってしまったらこそ県人会を必要としている人たちがいるのかもしれないと大げさに言えばヒトという種、ちょっと引いて考えれば個としての確立を曖昧にしてきた、あるいはそれを求める社会ではなかった日本文化や人の緩やかさを考えさせられた。そしてその緩やかさが安寧を求めて集団になったときに生み出す集団間の対峙を考えると、そこまでしてなぜ県人会という気がする。東京で生まれて育った田舎のない根無し草だから思うことでしかないかもしれないが。
県人会、幸にして参加する権利がなかった。もし権利があったとしても、また参加を求められたとしても参加しなかっただろう。特定の集団の一員となって、他の集団の人たちとの差別(被差別)の加害者(被害者)になりかねない立場にはなりたくないし、そのような集団の場には居たくない。集団の価値観や判断から自由な個人の価値観や判断、それにともなう自己責任、しがらみのない人生を送りたいと思ってきた。
参加どころか垣間見たこともないからxxx県人会というのがある、名前は聞いたことがあるというだけで、どのような人たちがどのような目的で集まって、何をしようとしているのか知らない。その類のことにたいした興味はない。ただ、その存在とその存在を求める人たちの気持ちというのか考えには社会のありようの根本的なところで関係しているように思える。個と集団と組織のなかの組織(派閥)のありようの一つの例として興味がある。派閥というと何らかの共通の経済的利益を求めて集まった人たちの響きがある。それをして県人会は派閥とは違うという人もいるだろうが、ここで県人会を派閥と同列に扱うことにはそれなりの理由があるのでご容赦頂きたい。
秋田県でも島根県でもどの県でもいいのだが、その県に、秋田県に秋田県人会はないだろうし、島根県にも島根県人会もないだろう。県人会はその存在の本質からして少数派の人たちが多数派あるいは他の多くの少数派全体に対峙するかたちで作られ、その限りにおいて存在し得る。その意味では多数派(多くの他)があって始めて存在し得る集団ということになる。
そこにはある特定の、なんからかのかたちで共通項を持った人たちの集団に属して精神的な安定を求め、社会を構成するヒトという生物の本質的な性格がある。個人が一個人として直接社会と対峙するのを恐れ、群れの一員として安泰な立場を求める。地方から東京に出てきて、血縁者もいなければないもない人の視野には圧倒的な量の人のなかで自分だけで、一個人として東京という都市で渡り合うには不安が大きすぎるのだろう。何か都合のいい集団に属そうとする。
ほとんど全ての人たちがこの都合のいい集団の前に既に何らかの集団に属している。それは学校だったり会社だったり、何かの社会団体かもしれない。既に属している集団では得られないものを求める先に県人会がある。県人会の県で生まれていれば誰でも県人会に参加できる。特別な努力や資格はいらない。
東京には県人会があっても都人会なるものがない。東京で生まれ育った人たちは東京にいれば圧倒的な多数派で、東京という出身地を共通項として集団を作り得ない。多数派は多数派であるがゆえに集団になりえない。そこに多数派として存在しているというだけで、自己の存在を主張する必要がない。
多数派や他の少数派との違いの明確化にしなければ少数派としての存在を明確にできない。明確に出来なければ多数派や他の少数派との違いは何なのかというアイデンティティの問題になる。いきおい、他者との違い、特に多数派との違いを必要以上に誇示する誘惑に駆られる。この誘惑のほんの一歩先には多数派や他の少数派に対する差別がある。
多数派に対する弱者の立場にあることを意識すれば、必ず他者に対する差別が生まれる。本来多数派からの差別、弱者の立場を多少なりとも相殺しようとして作られた県人会が差別をするための一機関に堕する。差別を嫌って自己防衛を目的とした集団が差別を強化する。
勝手な東京人の言い草でしかないだろうが、国内でも鬱陶しい県人会をわざわざシンガポールでもないと思うのだが。シンガポールでxxx県人会とyyy県人会。。。、もしzzz県人会とはちょっとなんてのあったら人として小さかないか。そこまで行ったのなら何県なんての超えて国籍も人種も宗教も超えて、人と人との、個人と個人の人間関係、そしてその先に社会があるんじゃないか。
2014/8/10