ラジオ体操と集団主義

震災前に住んでいた集合住宅は都心から一歩出たところにもかかわらず敷地がゆったりしていて、高層の建物群の中央付近に広場があった。盆踊りやラジオ体操といった催し物があっても広場からちょっと距離があったおかげで騒音は苦にならなかった。
東日本大震災で埋立地からもともと地面のあるところに引っ越した。引越し先の十棟以上ある集合住宅では最寄り駅からの入り口の近くでなにかと便利なのだがしばし騒音に悩まされる。入り口が広場のようになっていてそこが何かある度に会場になる。夕方や夜ならまだしも早朝の騒音は困る。集合住宅にお住まいの年配の方々数名が毎朝六時半のNHKラジオ体操でお互いの元気を確認している。人数が少ないから音量を上げる必要もなく騒音にはならない。ところが夏休みに入った途端、年配のボランティの人が幹事として小学校以下の子どもたちを集めたラジオ体操になる。参加人数が多くなって遠くの人たちにも聞こえるように音量も上がる。おかげで朝六時半に起こされる。
歳いって運動不足になりがちなお年寄りなら朝のラジオ体操もなんらかの効果もあるだろう。それが一日中走り回る子供たち、たとえ昔の子供に比べると運動不足と言われていても、どれほどの効果があるのか。したときとしないときと健康のどれほどの差があるのか。運動としての効果より、朝早く起きなければならない分夜更かしを防げるという副次的な効果しかないのではないかと想像している。
都市化が進み、日が出て働き夕方は早々に切り上げてという生活パターンの人がどれほどいるのか。職種も多彩になってフレックスタイムも珍しくなくなった。長距離通勤か八時にはラインを稼働しなければならない工場勤務の人たちでもない限り六時半には起きない。ましてやラジオ体操はないだろう。
子供の頃の思い出の延長線で早朝のラジオ体操に価値を置く気持ち、分からないではないが一世代以上前の価値観のような気がしてならない。早寝早起きを健康的であるべき生活習慣と思うのは結構だが、それを言われてもと言う人たちも結構いるご時世、個人として思うまでに留めておいて頂きたい。多分そうだろうなと思ってWebを見たら、早寝早起きとその延長線上の謳い文句というのか宣伝文句のようなものが並んでいた。それでも六時半に起きる必要のないものにしてみれば起こされるのは迷惑以外の何ものでもない。
ここで間違っても持ちだして欲しくない、持ちだしてはならない主張がある。早寝早起きが健康の源であるという主張に加えて子供の教育や数十人の健康管理をボランティとして進めているのだから、一人二人、一世帯二世帯の朝寝坊はそちらの生活習慣が間違っているのだし、皆のために我慢すべきだというような話だけはやめて欲しい。
夜何時に寝ようが朝何時まで寝ていようがそれは個人の自由で人にとやかく言われる筋合いのものではない。ラジオ体操をしたければすればいい。誰も止やしない。ただ、一人であっても迷惑をかけてのものだったらよして欲しい。科学的根拠の薄弱な主張のもとの少数派の個人としての生活を否定するのは人権侵害以外の何ものでもない。
よかれと思ってやっているはずのボランティアだろう。夏休みに不規則というより夜更かししがちな子供の日々の生活をと思い、夏休みの思い出の一つにでなってくれればという純粋な気持ちからの活動だろう。誰もそれを疑いはしない。
ただ、ちょっと考えてみれば恐ろしいことで、誰がどこから見てもいいことでしかないはずのボランティア活動が思いもかけないところで他の人たちの迷惑になる。その迷惑を訴える人をあやふやな効果論や多数派の力で押しこむ、あるいは管理事務所には許可を得ているから問題ないだろうという主張、どれもこれもがたとえ些細なレベルであっても自分はいいことをしているという“独善”と何が違うのか。
いい人たちが善意でいいことをして一歩間違えば浅狭な全体主義のはしりになって、それを子供の頃の思い出として次の世代が独善をあたり前のようにして育ってゆく。そこからは個人の個人個人の存在に基礎をおく民主主義の基本概念をあたり前のこととする次の世代は育たない。
素朴ないい人であればあるほど陥りやすい些細な独善、ある意味幸せな、でも傍迷惑な、困ったいい人たち。苦言を言うのも憚れるいい人たちなのだが、今の社会にも、将来の社会を背負って立つ次の世代にもいいことばかりではないいい人たち。
2014/8/17