血も涙もあるレイオフ

事業体が傷んでくるとリソース面での制約から思い切った手を打ちづらくなってゆく。それでも関連市場も含めて豊富な知識と使えるスタッフがいれば何らかの打開策もあるのだが、事業体の傷みは真っ先に人材にでてくる。
米国本社の事業部が迷走していた。新機種を自社開発するには米国市場が小さくなりすぎて七、八年過ぎていた。その間競合しない同業者から相手先ブランドで調達した製品でライナップして崩れた体面を保っていた。出自が全く違う三製品。犬と猫の違いどころでではない。似たところが全くない。同じ会社のシリーズ製品の体などなしようもない。営業やアプリケーションエンジニアは言うに及ばずマーケィングの製品担当者が三機種の違いから仕事にならない。
一社は米国の小さな会社で工作機械的玩具とでも呼んだほうがあっている機械のお友達という製品で話にならない。もう一社はイタリアのコングロマリットの一事業部。制御対象の工作機械に大した興味もなく機械工場の臭いもかいだことのないソフト屋連中が作ったものとしか思えない大きな玩具のような代物。余程変わったところでもそんなことはしないということまで机上ではできるからシミュレーションして遊ぶには最適なCNC。こんな製品ライナップで市場にでれば誰も彼もが疲弊する。
そんななかで日本支社発の新製品開発プロジェクトが三年以上かなりのリソースを投入した挙句に頓挫した。組織図を綺麗に描ければ機能する組織を作れたような気がする程度の経営陣が仕切ったプロジェクト、フツーの経験と知識のあるものにははなから上手く行きっこないのが分る。それでも権力と権限でやりたいようにやってきた。組織図をみれば機能しそうに見えても組織を構成する人的資源の能力という以上に質(たち)が悪すぎて何もまともにできなかった。それでも社としてどうしても自社開発の新製品が欲しい。今開発しなければ自社開発の可能性は永遠になくなる。頓挫したプロジェクトを最新の技術を採用したプロジェクトに書き直して米国の事業部でやり直すことになった。
ドイツと日本の同業が世界市場を二分しているところに新規参入者の立場に立たされていたため、その二社の製品と大きくかけ離れた仕様では市場で受け入れらない。同業二社は一時期協力関係にあった。製品仕様は似ていたから日本の同業の製品を理解すれば事足りた。日本の大手の工作機械屋出身で日本の同業の製品に関する知識を持ち合わせているということでプロダクトマーケティングの開発プロジェクト担当として米国の事業部に派遣された。
事業部には当然七、八年前にリリースした自社開発製品としては最後になっていた製品やその前の世代の製品担当者がいる。工作機械的玩具用製品担当者、イタリアの合弁先から調達している製品の担当者がいる。日本からの製品など何もないから、頓挫したプロジェクトに関係した開発エンジニア以外は日本と関わりあったことのある人はいない。八十年代半ばにしても日本がなんだかよく分からない、変わった国としか思っていない人たちだった。そのような人たちの集団に一人入っての作業が続いた。
個々の市場の違いが関係者の市場理解の違い、製品仕様のどの部分に注視するかの違いを生み出す。それに立場の違いもあって人間関係がギグシャクする。日本の競合が握っている市場を侵食し得る製品にするためにはかなりのレベルの互換性が欠かせない。こっちにとってはあたり前のことが周囲の人たちには奇妙奇天烈にしか見えない。相手から提案される機能や性能はこっちには理解のしようのないものだった。実務担当者の目には一度頓挫したプロジェクト、今回も順当に行けばまた頓挫して製品と市場に出せずに終わると想像していた人たちも多かった。米国の事業部のマーケティングもイタリアの合弁から派遣されたマーケティングもできれば関わりあいになりたくないと思っていた。下手に関わるとキャリアに傷がつくと思っているから何をしようにも後ろに下がってしまって最後は一人でマーケティングの仕事を背負わされる羽目になった。マーケティングがサインしなければエンジニアは開発作業を始めない。詳細仕様をマーケティングに確認しなければならないエンジニアが部屋の前で列を成すのが日常の風景になってしまった。
そんななか既存機種を担当していたエンジニアがたまに遊びにきていた。若いエンジニアでたまにコーヒーをすすりながら無駄話をしていた気のいい人だった。その人が部屋に入ってくるなりレイオフになったと。こっちが担当している製品開発にリソースを振り分けるために他の機種の担当者をレイオフしなければならなくなったのだろう。翌日には米国居住権をもった台湾人の若いエンジニアが同じ話しで部屋にきた。翌週には一階のマーケティング部隊でも三人レイオフになっていた。
マーティングの三人、外すにはもったいなさすぎる人材でもっと先にレイオフした方がいいのが何人もいた。レイオフを言い渡されたとき、あちこちに話しに行ってこっちの部屋にも立ち寄っただけなのだろうが、こっちはついこの間開発プロジェクトで来たばかりの日本人、社内の交友はしれている。しれているのが彼らに安心感を与えたのだろう。こいつと話しても話がとんでもないところに抜ける可能性はない。いつもの調子で話したとして、おおまかには理解してるだろうがどこまで理解しているのか。部屋もみんなからちょっと外れたところにあるし、愚痴をこぼすには格好の相手だったのかもしれない。毎日レイオフになったのが職探しのステータスを話にきた。
レイオフになって当初暗かった人たちが段々明るくなっていった。中には五つのポジションがでてきてどれにするか悩んでいるという贅沢なのがいた。事業部でレイオフになると本社の人事がレイオフされた人の希望を確認した上で全社にこうこうこういう人材がいるとアナウンスする。さらに会社が使っているヘッドハンター全てに紹介が回る。社内の違う事業部からの引きが出てくることも多いし、ヘッドハンターがいい出物が出たと売りに出すから余程でもない限り何かでてくる。
後日マーケティングのマネージャーとそれとなく話をしたとき、言葉を濁しながらもこっちで要らないのをレイオフしたら買い手がつかないかもしれないし、業務を進める上でどうしても外せない人材は出したくないし。。。ということだった。三年も経ってマーケティングをレイオフされて隣の事業部に買われた人が日本に出張できた。久振りの再開。マーケティングのマネージャーがこいつならレイオフしてもどこからでも買い手がつくはずと思ってレイオフした人だった。隣の事業部に行って三年目にはマネージャーになっていた。職階で人を評価する気はないが、何年もしないうちに彼をレイオフしたマネージャーを乗り越えてしまう可能性すらある。事業が衰退していっている事業部でレイオフされて事業が成長している事業部に招かれて人が活きてゆく。
招かれるだろう人材からレイオフして、使い物にならない人材はレイオフしきれずに自分の配下においてなんとか使って行こうとするマネージャー、あの会社ではどう贔屓目に見ても特別な人材ではなかった。彼のような人材がフツーの米国企業がある。
一年ちょっとの事業部の滞在では仕事でも私生活でもヘトヘトになった。隔週くらいの感じで事業部のどこかから声がかかる。理由はなんでもいい。ようは皆で家族ぐるみで集まって飲んで食って話しをしようということでしかない。個人宅に呼ばれることもある。日本以上に従業員がお互いにお互いを気にしてというまるでちょっと前の日本の会社の人間関係がもっとウェットになった小社会があった。
アメリカの会社はドライで、日本の会社は、。。。という話を今だに耳にすることがある。それはおそらく見た景色の違いでしかないだろう。雨の日もあれば風の日もある。そのなかで見られた景色を創った人たちとその景色を見た人たち。どうしようもない状況だとしても、あるいはだからからこそ最後は国でも会社でもなく景色を創る人次第でしかない。
2014/8/31