韓国の海難事故に思う(改版1)

韓国の大型客船の海難事故のニュースを聞いていて、気にしてきたことが決しておかしなことでもなかったのだと思考のしこりがやわらいだ感がある。穿った見方が癖になって社会からのズレているのではないかと気にしてきたが、それは視点のズレより社会の“偏り”が主たる原因だと胸を張って言えそうな気がする。
避難誘導が適切であれば、いや今回の事故に限って言えば避難誘導も何もなしで高校生が自分の判断で勝手に避難していればもっと救われた命があるかもしれない。上からの指示や命令に従順に従う教育(訓練)がなされていなかったら、従順に従う社会としての文化がなかったらどうだっただろうと考えてしまう。自分の生死に関わることですら自分で判断せず上からの指示に従うことを善としてきた社会が被害を大きくしたように思えてならない。
今回の海難事故がきっかけで露呈した社会の“偏り”、なにもお隣の国に限ったことではない。美しい(と主張されている)日本でも全く同じ“偏り“がある。美しいというのが少なからずも整然とした規律正しい集団行動を背景にしているような気がしてならない。同じような事故が日本で起きたら?想像すべきことではないが、似たようなことが起きるのではないかと心配している。
管理・監督する側が権力や権威をたてに管理・監督される側に指示や命令を出し、される側はする側からの指示や命令に“服従”しなければならない社会−社会は上意下達でなければならないと思う人は希だろう。そのような社会、民主的な社会でありようがない。しかし、今回の事故の“待機せよ“という避難指示と高校生の行動は程度の差はあるにせよこのような社会があることを明らかにした。企業内の意思決定とその伝達、学校教育における教師と生徒や学生との関係など社会を見ればどこも似たような社会構造に基づいている。今回の事故が明らかにした行き過ぎた管理・監督と私たちの日常生活の間にどれほどの違いがあるのか。
社会のあり方−何を善としているのかを教育理念が端的に表わしている。学校案内を見る限りではどこも似たような教育理念を掲げている。曰く、自由な校風、個性を尊重した教育、独立自尊、創造性の。。。そうあるべき姿、こうありたいという理想を失ったら終わりだが、果たして掲げられた教育理念、どこまで真摯に追求されているのか。半分反語として受け流す程度が実情だろう。
生産現場や工事現場で「安全第一」という看板を目にする。その現場が本質的に安全だったら、わざわざ「安全第一」という目障りな看板は掲げない。安全ではないから、ちょっとしたミスが事故につながりかねないからこそ「安全第一」という看板がある。「安全第一」というのは安全ではないということに他ならない。
「安全第一」という看板ほど単純ではないが、社会が求めている人材とはどのような人材なのか、そのような人材を育成することが教育現場−学校に求められているはずと考えてゆくと、掲げられた教育理念、残念ながら「安全第一」と似たようなものに見える。ここで社会という一言で全ての人たちを包括しているが、過度な単純化の危険を恐れずに言えば、先に上げたように社会には権力や権威を持って指示や命令を出す管理・監督する人たちとその指示や命令に従う立場の管理・監督される人たちのニ階層の人たちがいる。
果たして管理・監督する人たち、教育をする人たちがどこまで管理・監督される、教育を受ける人たちの“自由”や“個性”、更には“創造性”を求めているのか考えてみると興味深いことに気がつく。管理・監督する人たちは管理・監督されやすい、それも個人個人ではなくひとまとめに集団として管理・監督し易い従順な、規則や指示、命令に極端に言えば盲目的にすら従う人材を善しとするだろう。そこでは管理・監督される人たちから管理・監督する人たちへの、批判、たとえ健全な批判であっても認める文化は生まれようがない。
もし、自由な、創造的な、個性を尊重した教育だったら、指示や命令におとなしく従う、管理・監督しやすい人材が育つだろうか?少数の教師の指示のもとあまりにきれいな整然とした集団行動−入学式でも卒業式でも、修学旅行でも体育祭でもなんでもいい−が成り立つか?整然とした集団行動をプラスに評価する親は多いだろうが、それを自由や個性への過度の規制と反対する親がどれほどいるのか。
管理・監督される側から管理・監督する側への健全な批判が許されない社会では「絶対権力は絶対腐敗する」という歴史が証明した常識が成立している。批判にさらされることのない人たち−管理・監督する人たちは腐敗するだけでなく必ず堕落する。堕落すれば職業倫理などあろうはずもなく職業任務を遂行する能力も育たない。
こうしてみれば今回起きたことが偶然ではなく、社会の偏りの必然として起きたと考えて差し支えないだろう。事故の状況から避難の困難さ、あるいは容易さ。。。全ての情報も知識も持っている船長が、乗務員が避難し、自らのことを自らの知識や能力で考える−人として最も大事な能力を養うことを規制され、受けた指示の無批判に従う“社会が求める、教育理念を反語とした“教育を受けた高校生が、自らの生命にかかわる判断を自らすることなく被害を大きくした。
社会が先進ヨーロッパやアメリカへのチャッチアップに汲々としていたころなら管理・監督し易い粒の揃った人材で事足りたろうが、もうそろそろ自分たちは一体何なんだという自我に目覚めた、個性が強くて管理し難い創造性にあふれた人材を善しとする社会に進化するときだろう。
そういう人たちが増えれば、船長も乗務員ももうちょっとしっかりするだろうし、頼りにならない、しちゃいけない指示や命令におとなしく従って、自らの命を落とす高校生も少なくなる。それが成熟した社会の証明だろう。 その証明、管理・監督する側にいる人たちの腐敗や堕落、無能も明らかにしてしまう。明らかになっては困る人たちが重く立ちはだかる。遅々として進化が進まない。
2014/5/11