ノーベル賞でも貰ったしにゃ

社会的地位なのかただ歳がいってるということでなのか理由は様々だろうがそこそこの立場になってくると面と向かって意見してくれる人がいなくなる。 独立自尊だとか個の尊重だとか人としてのあるべき姿についていろいろ聞くが、人間社会なんだかんだと言ったところで、所詮リーダを頂点として群れをなす犬などの動物の社会と根っこのところではたいした違いがないのかもしれない。
面と向かって意見を言うというのは生半可なことじゃできない。誰しも耳にここちよい話は聞きたいが、イヤなことは聞きたくない。良好なとはゆかなくてもフツーの人間関係を保とうと思えば、誰も相手が聞きたくないことをあえて言いたくない。たとえ言わんとしていることが厳然たる事実で、それなりの対処をしないと取り返しのつかないことになるにしても相手が聞きたくない、しばし聞く耳をもたない状態だったら、面と向かって意見を言う人はまずいない。
阿るとはゆかなくとも相手が聞いて嬉しくなることを言っていれば相手との人間関係に齟齬をきたす可能性を低く保てる。人間関係を上下関係でしかみれない人たちであれば、さらのこと上に対してはいいことだけしか言わない。その反動でもないだろうが下には率直なというより剥き出しの強圧的な言い方にさえなる。
人の意見の通りを邪魔する精神的なファイアウォールのようなものを想像すれば分かりやすいかもしれない。相手より自分の方が地位かなにかが上だと思っている人はファイアウォールを土足で乗り越えて人の精神活動領域に押し入ってくる。下と思っている人がなにかの拍子に上の人のファイアウォールを乗り越えてしまうと、たとえ乗り越えた理由が上の人にとって有意義なものであっても許容でできない人が多い。そういう人はファイアウォールのありようが人間関係そのものだと信じている。
巷のサラリーマン社会では所属する企業の社会的ステータスと企業のなかでの肩書がファイアウォールのあり方を決めるだろうが、所詮ある企業体に所属することによって、所属している間だけ存在するファイアウォールに過ぎない。これが何らかのかたちで先生と呼ばれる職業というのか社会的地位になるとファイアウォールが高く厚く、そして恒久的なものに近くなる。高く厚いことが己の社会的地位を証明していると勘違いするフツーの人たちが多いなかで、この高く厚くなるファイアウォールの危険をどう回避したものかと思案する真っ当な人たちもいる。
どれほど優れていても人間の能力は限られている。全てのことに長けている人はいない。長けるに足る潜在的能力をもっていたとしても、全ての事柄に能力を開花しえない。何かの領域で能力を高めれば、それ以外の分野での能力開発には妥協せざるを得ない。この類の話になるとダ・ビンチを思い浮かべる人がいるだろう。彼が重量挙げや水泳で、料理の世界で。。。何を残したのかを想像してみるのも無駄ではないだろう。「一芸に秀でたる者は多芸に通じる」を持ちだす人もいるだろう。残念ながら、“芸”もさまざまだろうが、ここでは“芸”という領域に限った話でもなければ、多芸というささやかな広がりに限定した話でもない。
限られた潜在能力と限られた時間という制約のもと何かに秀でるということは何かに欠けることに他ならない。にもかかわらず何かに秀でた人たちが秀でた領域ではない領域−まるで小ダ・ビンチのように全てに秀でた人と巷はちやほやするし、本人もその気になって、本来責任を持ちきれない領域−におけることにまで恐れを知らずというのか恥知らずとでもいうべきか、専門家としての発言する。
そのような人たちのファイアウォールは恐ろしく高く厚いものになっているだろう。そのような人たちは、そのような人たちが認める自分たちより上にいる人たちからの意見しか聞かなくなってしまう。
ここに既にして人智のおよぶ限界まで突き詰めた当代一の学者がいたら、既に彼に面と向かって意見を言ってくる人はいたとしても非常に希だろう。ほとんどの人が彼の専門領域での彼の立場が、それ以外の領域、さらには卑近な巷のことにおいても彼が誰にもまして優れているという−社会において一般的と思われている評価をそのまま受け入れ、全ての領域において彼に意見をするようなことは控えるだろう。
既にして聞きたくないかもしれないことを具申してくる勇気ある人が希になってしまったろことに、もしその学者がノーベル賞でもとってしまったらどうなるか。ちまたの一私人が考えてもしかたのないことなのだが、もし、その学者が真に人としても優れた人だったら、ノーベルを貰ってしまう危険性に気がついてなんらかの対処をしようと試みるだろう。ただそんなことをしたところで、ダ・ビンチ・シンドロームに感染した巷の人たちにはたいした効果があるとも思えない。突き詰めて到達したところがまるで裸の王様とたいした違いのないところ−そこに至った経路も突き詰めたところは違うのだが−という、もうこれは悲喜劇なのかもしれない。
2014/7/20