『プロジェクトX』はごめんだ(改版1)

もう十年も前になると思うが初めてNHKの『プロジェクトX』を見た時、たわいもなく感情移入して涙した。何ヶ月か経ってちょっと疲れた一休み、スイッチを入れて何かないかなとチャンネルを回していたらまた『プロジェクトX』が出てきた。テレビを見ることが少ないので、シリーズ物だったとは知らなかった。またしてもたわいなく乗せられた。偶然何度か見ては程度の差はあれその度に乗せられた。
単純で感情移入しやすいのは下町の血のせいだと自分で自分に言い訳してきた。感情移入してしかるべき、できたことに多少なりともまっとうな人間だったという証のようなものを感じるものばかりならいいのだが、なかには後味の悪いものもある。見た時はいいものを見せて頂いたという素直な気持ちでいたのに、時間がたって初味に騙されたのに気付くことがある。簡単に手の内に落ちて乗せられる自分のたあいなさが情けないという気持ちと、その程度のことで乗せ続けられると思うなよという気持ちが最初の感動を否定的なものにする。それだけならまだしも、そんなことを思う人がどれほどいるのか、何の疑問も感じることなく乗せられ続ける人がほとんどではないかという余計なことまで考えだす。考えたところでどうなるわけでもなし、乗せられ続けるのも、それはそれでいいじゃないかという気持ちと、それはないだろうという気持ちが交錯して解けないままいつまでもいやな初味が残ったままになる。
『プロジェクトX』、そのまま正面から見れば美談以外の何ものでもない。ただ、たとえ正面しか見せない作りになっていたとしても脇から舞台裏を覗きこもうとするやぶにらみがいる。ほとんどの美談は美談になる状況があって初めて美談になるのであって、状況が違えばただの普通の頑張っている風景でしかない。美談を美談で終わらせようとすれば美談を美談にした舞台の大道具や背景画、それも美談のプラスを引き立てる圧倒的なマイナス−逆境としての存在にしなければならない。
どうしようもない逆境のなか不屈の精神で寝食を忘れ、私利私欲を超えた人としてのあり方にまでかかわる語り継がれた美談の典型がある。逆境を問題とするのではなく、逆境にもかかわらずこうして功を成した人たちがいるという何時の時代にも共通の道徳教育の主題となんら変らない価値観と言えば聞こえはいいが、それを自分たちの目的や利益のために必要以上に強調する人たちがいる。
一度や二度の番組で終わりにしておけば、美談が美談で終わったよく出来た番組として残るのだろうが、何年にも渡って逆境とその逆境を不屈の精神で乗り越えたというコンテクスト?で語られると、話は違ってもお決まりの筋書きでしかない。一緒にしては失礼(どっちに失礼か?)だろうが筋書き通りということでは『水戸黄門』と同じではないか。もっともその変わらない筋書きに慣れてこのあいだと、その前と同じように今回もとういう人も多いのだろうが、『プロジェクトX』が『水戸黄門』と同じ乗りでと言われるとどちらにしてもおそらく心外だろう。
見方によっては『水戸黄門』の方が毒がない。娯楽が娯楽として終わる。そこには娯楽の世界の単純な勧善懲悪があるだけで、特段社会がどうのというところにはいたらない。一方『プロジェクトX』には昔からの逆境を跳ね返してきた人たちのひたむきな努力が焦点になっている。このひたむきな努力、ちょっと違えば滅私奉公や報国思想、それに賛同し強制した全体主義を支えた思想になりかねない。ましてや経営幹部の誤れる?経営判断によって苦境を強いられ、隠れてまで製品開発を続け、やり遂げたのを美談としてだけ扱えば、戦時中の情報操作や大衆洗脳と同じでないだろうが、なにが違うのか。
歴史上の美談が社会の支配層−企業の経営幹部も含めた人たちに都合のいいように使われてきた。自分たちの至らぬところ−自分たちで気づいていることは希−を配下の人たちの滅私奉公、それも組織化された美談に昇華して補い続けてきた、今もしているし、これからもしてゆくしか日本人は考えられないのか。その考えられなくしてきたのが歴史上の美談で、『プロジェクトX』はテレビ番組として美談を人たちを支配し管理するための使いやすい大衆操作のツールに使われかねない。
美談は美談で結構。誰もが感動する。しかし『プロジェクトX』が持ち上げたような美談が生まれなければならなかった歪んだ社会や組織、人の人としてのありかたまでを考えることもなくただ美談としていたのでは、社会も組織も、文化も何もかもが歪んだままで次の美談を生み出し続けるだろう。
それがあるべき社会でもなければ文化でもないはずで、美談がテレビのシリーズ番組になるような社会や組織から美談が生まれにくい社会にしてゆかなければならない。感情移入して涙する機会も感動することも減ってつまらない社会になってしまうかもしれないが、『プロジェクトX』が取り上げた美談は少ない社会や組織こそがまっとうな社会であり組織ではないのか。
2014/10/19