意訳から咀嚼?へ

もともと技術屋、職業人としての人生を製造業で過ごしてきた。製造業にはいたが直接製造に関係したことはほとんどない。機械設計やフィールドサービスを何年かしたが、その後は市場開拓や製品開発から経営関係になっていった。業界区分でみれば製造業(第二次産業)。そのなかのサービス産業(第三次産業)に身をおいてきた。
渡り歩いた会社、どこも似たような組織体系なのだが、どの会社や組織にもそれぞれ癖というのか独特な文化があった。ときには驚くような違いに遭遇したが、骨格となる業務領域でみれば、はどこでも似たようなことが繰り返されていた。当たり前といえば当たり前、同じか同じような社会的基盤の上で多少の違いがあったにせよ似たような存在としてある限り、会社も組織も人もそんなに大きな違いとしては存在しえない。
どこでも多種多様、雑多な日常業務があるように見えるが、これもちょっと後ろに引いて要素に分解してみればそれほど多くの構成要素から成り立っているわけでないことが分かる。極論すれば、組織も人も、入ってきたものや取り込んだものに組織や自分の知識や労働の付加価値をつけて、次の工程の組織や人に送り出しているに過ぎない。入ってくるものがあって出てゆくものがある。出て行くものから入ってきたものを差し引いた残りが組織なり人の仕事の成果ということになる。この仕事の成果−貢献が評価されて対価として収入につながる。
第三次産業の話なので、 “入ってくるもの”の典型として“情報”とする。“情報”、汎用語の感があるが見積依頼、検討依頼やクレームとそれに対する回答などを想定している。生産ラインでは前工程から次工程に物も情報も流れる。
クレームなどの情報や引合いは担当部署や担当者の意思や予定にかかわりなく入ってくる。入ってきた情報が何なのか、何をすることを求めているのか理解して、求められている情報−たとえば工業製品の障害でれば修理費用の見積を提出する−を付加するために知識や情報を用意する。用意するものには様々なものがあるが、大きな視点で見れば人的なものと非人的なものの二種類に分けられる。後者の例としては営業資料や価格表、技術資料や同業他社との比較情報、工業規格などがある。人的なものが担当者の個人の知識(経験)や能力で、これが非人的なものとして何を引っ張り出すのか、それをどのように使うのかを決める。人的能力が非人的リソースをどのように活かすかを左右し、入ってきた情報にどのような価値を付加するかを決める。これは物(資料や情報など)を使うのは人(能力)という、当たり前のことにすぎない。
入ってきたものに価値を付加する作業は、入ってきたものが何を求めているのか理解することから始まる。当たり前の話で、何を求められているのがはっきりしなければ、たとえ何かを付加したとしてもそれが価値ある付加ではないことも、ときには夾雑物でしかないことも起きる。
情報を発信する側が求めているもの−発信側の情報と、それを受け取る側が求められていることを理解した情報 が一致しないことが起きる。発信する側と受信する側の視点や立場、知識や思い入れ。。。さまざまな要素が絡み合ってよほど単純明瞭な場合を除いて両者の間に齟齬が起きる。
ここに機械屋と制御屋の二人、あるいは二社がいるとしよう。機械屋は機械の立場や理解から制御屋に機械がこういう風に動くように制御を開発してくれと依頼する。いくら制御屋の立場で要望を伝えようとしても機械屋の理解は機械の視点からに縛られる。要望を聞いた制御屋は機械の視点からでは制御を開発できない。機械の視点で出て来た要望から制御の視点での仕様に解きほぐさなければならない。制御屋は機械屋の要望を基づいて制御仕様としてどのような制御を開発するのかを仕様書にまとめて機械屋に伝える。受け取るのは機械屋であって制御屋ではない。制御屋から制御屋に開発要求を伝えるのとは訳が違う。機械屋の視点と知識、それを生み出した背景から経緯までそこそこ想像して、相手の理解のレベルを推し量って仕様書を書き上げなければならない。それでも機械屋は自分の制御に関する知識の不足を、制御屋の仕様書は何をいっているのか分からないと制御屋のせいにする。情報の流れが逆方向であれば、制御屋は自分の機械に関する知識の不足を棚に上げて機械屋が言っていることはよく分からないと言う。
意思疎通の齟齬は必ず起きる。書面でもメールでも何を言っているのかはっきりしないことがある。読みようによっては幾通りもの可能性があるメールや電話の話は日常茶飯事、誰も驚きはしない。メールを送っている人も電話をかけた人も相手は自分と同じ程度の知識があることを前提としている。これは伝言ゲームの言葉がズレてゆくのとは違う。一対一の情報のやりとりで意思が伝わらないことを問題としている。
意思が伝わらない原因はいくつかあるが、もっとも大きな、そしてしばし犯罪的といってもいいのは情報を発する人の能力不足と意思を間違いなく伝えようとする努力の欠如にある。多くの人が自分の知識までしか考えが及ばない。誰もが自分と同じ知識と状況、そこにはしばしば社内用語や現場の俗語までを共有しているかのごとく自分には分かるが人には誤解されてもおかしくない文章を書き、電話で話す。相手が分からないのは自分の問題ではなく、相手の問題としか考えられない人たちがいる。
そこまで一方的ではないにしても、全ての人は意識することもなく、多かれ少なかれ似たように考えている。自分が発した情報を相手がどう理解するか(可能性)、あるいは理解するのに必要な最低限の知識をもっているのか、知識のバイアスから誤解しかねないのではないかなどとは考えない。
誰も全ては分からない。自分が持っている知識と相手が持っている知識が同じであることは在り得ないし、その知識を培ってきた経験も違えば、社会や家庭環境も違う。共通の理解や志向や目的があったとしても人はそれぞれ必ず違う。たとえば標準と言っても、企業や組織内の標準もあれば業界標準もある。暗黙のうちに標準の立場にあるものもあればなんらかのかたちで国家が関与して規定している標準もある。
情報を発信する際、受け取る相手の能力や知識、相手の立場、どのような状況にあるのか、そこに働くバイアスなどを考慮して相手に誤解され難い情報を発信するようにこころがけなければならない。一方入ってくる情報では相手は受け手の状況をろくに考えることもなく、一人称の話しかできない人だろうと想定するしかない。相手のことを想定する能力の低い相手に何を要求したところで要求に使う時間と労力、そこから生まれる期待、得るところのない努力にマイナスの気持ちしか残らない。送ってきた人の状況や能力を考慮して入ってきたものには欠落している、しかし理解には必須の情報を補って、正しく理解するために、どこまで相手の真意を推察し咀嚼できるかが入ってくるものを処理する人に課せられた課題になる。
情報化の時代などには関係なく人は意思の疎通を通じて社会を作ってきた。ヒトから人への歴史とはより高度に発達した意思の疎通の歴史に他ならない。 受けるも出すも、相手の状況や能力、経緯や背景、ときには思い入れに応じた意思疎通をはかる能力が求められる。相手の至らない点を補償した情報交換をし得るかがその人の能力ということになる。
意思疎通の齟齬をきたしたとき、ぽっと意思疎通の能力とは自分には課しても相手には期待し得ないものなのだろうと思う。
2015/1/25