アメリカではないアメリカンドリーム

ニューヨークから車で二時間ちょっと北に行ったところにAMBEL Precisionという客があった。面倒見のいい副社長とちょっと荒っぽい先輩が懇意にしていた(ように見えた)。副社長は先輩の削り屋(機械加工)としての知識と経験を高く評価していた。新米サービスマンのトレーニングにはうってつけの客だった。
重切削を特徴とした旋盤の刃物台がインデックスしなくなってしまったという障害ででかけた。昼ちょっと前に客に着いて、まず症状を見てから近間で昼飯をと思っていた。事務所に入ったら工場から副社長が人懐っこい笑顔で入ってきた。一介のサービスマンがいちいち自己紹介などしない。即工場に行って機械を見たいと。。。結局、副社長に昼飯に連れてゆかれた。
ポルシェに初めて乗せられた。一度は乗ってみたいと思っていたがバネが硬くて乗り心地が悪い。乗ってって疲れる。要はスポーツカー、乗り心地がどうのというような人には向かない車だと知った。副社長、速度制限など気にすることなく走りを楽しむ運転だった。スピードは大丈夫かと言ったら、町のお巡りはダチから心配するなと。
かなり高かそうなステーキハウス。ちょっと昼飯というようなところではない。何にするか重いメニューを見始めたら、副社長と店長が世間話を始めた。いつになったら注文をと思っていたら、二人から“ハンバーガー、ここの昼飯はこれと決まっている。”と、それでも焼き方からサイドディッシュ。。。注文が決まるまでにはいくつかのステップがあった。出てきたハンバーガー、同じハンバーガーでもこうも違うものかと驚いた。
高い店になるとなかなか頼んだものが出てこない。先輩から副社長に会ったら、AMBELの由来を聞くように言われていた。ドライマティニを飲みながら聞き様によっては自慢話にしかならない話を始めた。AMは、AmericaのAM、BELはBelgiumのBEL。アメリカとベルギーで社長と副社長の歴史というのか思いをこめた社名だった。生まれはシシリーだが親父がベルギーに出稼ぎに行ったのでベルギーで育った。そこで機械工として働いたときに社長のベルギー人と親しくなった。二十歳そこそこのときにポケットに二十ドル札一枚いれて二人でアメリカに出稼ぎにきた。アメリカに移民しようなどという考えもなく、若さに任せて何とでもなるって。何年か働いて金を貯めてベルギーに戻るつもりだった。貧しかったら十年以上肉(meet-ステーキ)は食べられなかった。でも一所懸命働いたらこうなっちゃった。ここは頑張れば誰でも豊な生活ができる。それがアメリカだ。お前も早々に移民しちゃえばいい。うちはいつでも大歓迎だ。
重い昼飯を時間をかけて食べて工場に戻った。旋盤のオペレータに何時ごろから刃物台がおかしくなったのか聞いた。ここまで詳細に覚えてるかいうほど機械の症状を覚えていた。自分が使っている旋盤を自分のものだと思っている。米国のブルーカラーワーカは出来高制や時間制賃金が多く生産設備には関心がない。 聞いた症状から障害の原因はすぐ分かった。油圧バブルの動きが悪くなっただけでバルブを交換すればいいだけだった。
午後遅い時間になって、その旋盤のオペレータが今晩飯を一緒にどうだと言ってきた。まずは二人で彼のアパートに行って。。。四十過ぎで独身、聞きもしないのに自らオレはハンガリアンジュー(ユダヤ系ハンガリー人)だ。ハンガリーじゃこんな生活はできないといいながら写真アルバムを見せられた。シェボレーのフルサイズにハーレーが自慢なのだろう、それらをバックにした写真、トラぶっている旋盤をバックにした写真がハーレーの隣にはってある。オレのマシンだという。そこまで自分が使っている機械に思い入れがある。写真はハンガリーの知り合いに自分の成功を知らすための証拠写真なのだろう。ただそれにしても旋盤をバックにはちょっと考えられない。
修理自体はたいした作業ではなかったがAMBELの文化というのか人たちの生きようが気になってちょっと残った。残った時間をオペレータへの説明に使った。組立図を見ながら機械構造、電気図面を見ながら制御の全体を説明した。何時までも旋盤工をしているつもりはないという自負に背中を押された気持ちが溢れた人だった。
二日目の午後は仕事より副社長に家に連れてかれ家族に紹介された。奥さんはベルギー人。南部の出身なのだろう、夫婦間はフランス語で、二人の子供とは英語での生活。言葉だけでも大変だろうといったら、先月はシシリーからお袋が来ていてイタリア語でしかられたと。会社でも社長とはフランス語で従業員とは英語。複数の言語が飛び交う日常生活、フツーの日本人には想像もつかいない。英語だけで四苦八苦している新米駐在員の目には別の世界だった。(もっとも今になって振り返れば、日常生活に支障のないレベルをちょっと超えた程度だったとしか思えないが。)
AMBELに行ったら金曜まで残ってろと先輩駐在員から言われていた。なぜか知らずに残った。昼飯が終わったとたんに工場中の掃除が始まった。機械のオペレータが使っている機械が自分の所有物であるかのように丁寧に掃除して、周辺の床から雑多な工具類や棚やキャビネット何から何まで掃除していた。日本でもそこまで舐めるようには掃除しない。ちょっと異様な光景だった。
掃除が終わると事務所に入ってゆく。帰るときは事務所などには寄らない。何だと思って旋盤のオペレータについて事務所に行ったら、社長と副社長、何名かの事務の人たちと工場の作業者がビールを飲んであっちで、こっちで話し込んでいる。ビールを飲んで帰る人は帰ってゆく。社長や副社長。。。と話をしたい人は残って話をしてゆく。どんなことを話すのかとハンガリアンジューに聞いたら、なんでもありだと。給料を上げてくれというもあれば、こういう工具を買ってくれもあるし、。。。なんでもありでこの会社、この工場をみんながよくしてゆこうと、もっと働き易いところにしてゆこうという気持ちの人たちが残る。そうでない人たち、時間から時間で金もらってという人は辞めてゆく。自分たちの会社だから。。。
従業員二十人くらいのささやかな、アメリカではないアメリカンドリームがあった。
2014/11/16