教育と宗教(改版1)

英Economist 誌October 11th-17th 2014に”Education and religion Falling away”と題した記事があった。サブタイトルなのかタイトルの下に“How education makes people less religious and less superstitious, too”とある。 記事中のデータの出典として”Compulsory schooling laws and formation of beliefs: education, religion and superstition” by …National Bureau of Economic Research, October 2014を上げている。
以下では、Compulsory schoolingを義務教育と訳している。信仰心の厚いところではcompulsory schoolingに直接、間接に信仰に関する教育があるだろうが、Economistの記事でも以下でもcompulsory schoolingは信仰から大きな影響を受けていないものとしている。
書き出しから日本で似たようなことを書こうものなら一騒ぎではすまないだろうことが書いてある。「就学年数を一年長くすると教会やモスクや神社に行くのが10%減り、信仰心が希薄になる。」
義務教育の就学年数と信仰心の関係についてヨーロッパとトルコ、カナダの具体的な数字を上げて、五十年代からの変遷がざっと書かれている。基礎教育の充実がフツーの人たちの日常生活に対する宗教の影響を弱める。具体的なデータで示されなくてもその傾向は日常生活で感じているからたいした違和感はない。ただ、ちょっとひっかかるものがある。
短い記事で日本については触れていないが、日本でも似たような経緯で社会が変わってきたのだろう。もともと科学教育の普及におよぼす宗教の影響が少なかったこと、ほぼ行き渡った義務教育がさらに充実する余地は限られているから、これからの教育の変化が日本人の信仰心に影響をおよぼすことはないのか。
義務教育の普及と信仰心の間に負の相関関係があるのは確かだろうが、それほど単純な話ではないだろうと読み進むと、最終段で、信仰心と宗教的な生活習慣が人々を幸せにするだけではなく時と場合によってはより健康に、より経済的に安定した生活をもたらすこともあると考えている人たちもいると書いてある。負の相関関係についてはデータから多少なりともはっきりしたことが言えるが、幸せや安定という人の心理になると、たとえ数字で示したデータがあっても個人の問題になってはっきり言い切ることができない。それでも大まかには下記になると考えている。
教育が普及すれば社会の産業化が進む。産業化は人々の流動化を伴う。人々が都市に集まり更なる産業化と教育の高度化が進む。人々の流動化は地縁や血縁に基づいた人間関係を希薄にするとともに経済関係を中心とした人間関係を生みだす。故郷を離れ地縁や血縁から切り離された都市生活者とその人たちの次の世代の人たち−生まれながらにして、地縁や血縁による人間関係ではなく経済関係を人と人のつながりの基礎におくことを必然として育った人たちが社会の主要構成員になる。
産業の発展が進むとともに産業構造と社会がますます複雑になる。複雑になりすぎて誰もが社会の一部にしか関与できない。できないだけではなく、些細な一部しか知りえない状態に陥る。そのなかで(見える、限られた、認識し得る)情報からだけでなく、限られた情報を知識で補って様々な事柄に関して抽象的なロジックで考える人たちが生まれてくる。
個人として程度の差はあれ各人が人として孤(独)立し、合理的な判断が当たり前とされる社会で人によっては地縁や血縁に基づいた社会への羨望の念が生まれ、帰属意識の再燃とでもいう精神活動に走る人たちがでてくる。自分のありようを経済関係ではなく人との関わりあいのなかから求めようとする。合理的であらざるを得ない経済関係に基づいた人間関係から逃避するかのように科学一般の通念からは合理的でない、経済関係ではない人と人のつながり合いに対する需要が生まれる。その需要を新興宗教が絡め取る。
教育が宗教離れを促し、教育による社会の変化が宗教への復帰を生む。離れの大きさと復帰の大きさがどこかで均衡状態に至るのだろうが、大学設立などの話が出てくると復帰がどのあたりまでの復帰になるのかが気になる。
ちょっと歴史を俯瞰してみれば何時の時代も誰も彼もが問題だらけなのは変わらない。だらけのなかからなんとか問題を解決しよう、少なくともその影響を軽減しようとしてきた。その人々の営み、たとえどこまでという疑問符がついたとしてもそのときどきの合理的な考えに基づいていたはず。信じれば救われるで解決できた、できるのであれば科学もいらなきゃ合理的など無用の長物、と思うのは巷のやぶにらみだけなのか。 2015/1/4