なぜオレの脚が短いかって?

全くふざけんなっての、オレの脚が長かろうが短かろうがあんたにゃ関係ないだろう。たとえそう思っても、面と向かって、なんでだって訊いてくるか。いくら素朴な疑問のような顔をしたって、魂胆は決まってるじゃないか。
フィンランドの商社のオヤジ、パーティー会場でこっちの顔をみつけて、ニコニコしながらすたすたよってきた。なにかと思ったら、「お前も知ってるだろう、フィンランド人はハンガリー人と同じようにアジア系って言われている。オレもお前も同じアジア系だ」「ただどう見ても、お前が同じアジア系に見えない」「なんでお前の脚はそんなに短いんだ」

間違いなく百九十センチは超えている。痩せぎすでヒョロっとしていて日陰のモヤシのようなもんで、大きいというだけで格好がいいってわけじゃない。それでも立ち話すると、ベルトが鳩尾の辺りにあって、見上げての話になる。見上げたままの話は疲れるが、それ以上に見下されているというのか、追い込まれているような感じになるのが、なんともしゃくにさわる。
出張で行ったとき、トイレじゃ爪先立ちしなけりゃ届かないし、しゃがんだらしゃがんだで、今度は足が床につかない。まさかトイレであんな思いをするなんて想像したこともなかった。へそより上にあるベルトを見ると、どうしてもあのなんとも格好のつかないバツの悪さを思い出す。
ただ長い短いは比較の問題で、オレの脚が短いってんなら、なんでお前の脚はそんなに長いんだって話になるじゃないか……。そんなに長くちゃズボンの生地がもったいない。資源の浪費じゃないかって悪たれのひとつもつきたくなる。

なんでオレの脚が短いかって、そんなこと訊かれたってわかるわけないだろう。オヤジやお袋に訊いたってわかりゃしない。わかりゃしなんだけど、この違いはあまりに大きすぎて、確かに誰でも素朴に気にはなる。でもだ、オレがあんたの脚はなんでそんなに長いんだって訊くのと、オレの脚がなんでそんなに短いんだって訊かれるのでは意味が違う。なさけないことに美の基準までがヨーロッパ標準になってるから、いくら素朴ないやみも優越感もないように話したところで、長いほうが短いのに訊いちゃいけない。最低限の礼儀ってものがあるだろう。

そんなところにスウェーデンからのまでがきて、「素朴な疑問」の話に入ってきた。鳩尾あたりにベルトしている二人に見下ろされて、なんでこんなことになるかと思ったけど、とっさにこれだという説明を思いついた。
オレたち日本人は何千年も前から採集と農耕にいそしんできた実直な民族で、土に根ざした生活を送ってきた。争いごとのない平和な農村を思い浮かべればいい。そこでは常に土、そう地面との係わり合いがそれこそ日常生活の基本だ。わかるか、手はいつも地面か地面近くにある。突っ立ったままじゃ農作業はできない。そんな平和な生活をしていると、脚は短いほうが地面に手が届きやすい。長い歴史のなかで、脚の短いやつのほうが環境に適していて、だんだん短くなって今日にいたった。

あんたらのように狩猟民族じゃ、背が高いほうが遠くの獲物を見つけるのに好都合だろう。ところが人間の内臓ってのは意味もなく長くはできない。肺にしても肝臓にしても、ましてや腸なんかが二倍も三倍もあったんじゃ、牛やヤギでもあるまいし、生理的にもたないだろう。それで、しょうがないから、長くても生理に支障のない脚が長くなったってことだ。農耕ってのは天候に左右されるし大変な仕事だ。それでも捕れないかもしれない、捕れない確立の高い狩猟よりははるかに安定して食料を手に入れられる。食が安定すれば、社会も安定して争いの少ない社会が出来上がる。

収穫の安定した農耕からみると、狩猟はあるいみギャンブルのようなところがある。うまくいけば収穫は大きいが、まったく収穫がないなんてこともある。狩猟に使う道具は動物を殺傷するために改良を重ねられたものだが、殺傷するということでは対象が動物から、いつでも人間にまで広げられる。収穫が安定しなければ、社会も安定しない。安定しない社会に殺傷力を改善した武器までそろえば、部族間のちょっとした争いが殺戮やそれこそ戦争にエスカレートするのにたいした時間はかからない。

ここまで考えてくると、脚の短い農耕民族のほうが、脚の長い狩猟民族よりは平和を愛する種族といえないこともない。であれば、脚は短いほうがいいってことになりゃしないか。ただ不幸にして、脚の短い民族の美意識も脚の長い民族の美意識に引きずられている。脚が短いことにコンプレックスがないかといえばうそになる。それでも、胸の大きいのが小さいのに、なんであんたの胸はそんなに小さいのって訊いたら、へたすりゃ喧嘩になりかねない。脚の長い短いも似たようなところがある。長いほうが短いほうに何でお前の脚はと訊いちゃいけない。
2017/9/24