今度連絡しますから14(改版1)

マーケティング・コミュニケーションズ
八十年に米国支社駐在を終えて帰国した。たかが三年だったが、毎週のようにニューヨークからネブラスカやミネソタ辺りまで出張して、さまざまなものをみて、いろいろな人たちに出会って、かけがいのない経験をした。ただその経験、社会人としてならいざしらず、日立精機にいては邪魔にはなっても、なんの役にもたたない。技術研究所から輸出子会社に左遷されて技術屋としての将来がなくなっていたところに、フィールドサービスでも使い物にならないことを証明した駐在だった。
まだ当分ニューヨークにいるはずだったのが、入院して手術しなければと、とるものもとりあえず帰国した。帰ってきてみれば、タイムスリップでもしたかのように、三年前と何も変わらない会社と仕事が待っていた。出かける前と同じように便利屋として走り回って、もう二度とアメリカに行くことはないだろうと思っていた。そもそもが煩いからと国外に追放されたような駐在、一抹の寂しさはあったが、まがりなりにも見るものは見たし、海外への憧れのようなものもなくなっていた。

日本支社にはアメリカ本社の三つの事業体からそれぞれ一名づつ駐在員がきていた。肩書きはアプリケーションエンジニアリングのマネージャにすぎないが、それ以上の権力があった。日本支社には社長もいれば本部長もいて、その下に部長だの課長だのと日本的な肩書きの人たちが並んでいた。大層な組織にみえるが、日々のオペレーションを任されているだけで、そんな組織とは別にアメリカ本社が派遣した駐在員がいた。部長や課長どころか日本支社の社長ですら、駐在員を通してでてくる本社の意向には逆らえない。

CNCやモータ制御関係の製品はマーク・ジョンソンが担当していた。まだ三十前の若さだったが、日本に赴任して四年、日本人の女性と結婚して、偏りはあるにせよ日本独特の仕事の仕方も理解していた。CNCとモータ制御系とのかかわりが増えるにしたがって、マーケティングの人間にもかかわらず、荒川部長との係わり合いが減って、ジョンソンと一緒に仕事をすることが多くなっていった。

ある日、コピーをとっていたら、パーティションの後ろのコーヒーサーバー辺りからパーソンズとジョンソンの立ち話が聞こえてきた。
「あいつを、できるだけ早くアメリカに送らなきゃならない」
「早いほうがいいだろ。いつにするつもりだ? もう事業部との話はついてるのか?」
「夏休み入っちゃうと、キーの人間が抜けちゃうから、六月中ごろで日程を確認している。たぶん十六日から二十日で決まりだ」
「マーケティングとマーコムにテクニカルライター、それとQA部隊に面通ししなければならないから、エンジニアリングは顔見せまでで済ますつもりだ。マーケティングに二日、マーコムに一日、テクニカルライターに一日、QAは半日もあればいいだろう。あと営業部隊もはずせないが、まあ今回は挨拶程度で十分だろうし……」

「あいつ」とはオレのことか? 入社してまだ三週目なのに、アメリカ出張? ずいぶん身近にはなったが、まだまだ海外が遠い時代、まさかオレが行く? そりゃないだろう。何年も勤めて実績のある人が次のステップに進むためにという出張が一般的だった時代に、先輩を差し置いては角が立つ。周囲の人たちの目は気にはなるが、それでも、もしかしたらというより、そうあって欲しいと思った。ぬか喜びかもしれないと気持ちを抑えようとしたが、状況からみれば、オレしかない。ただアメリカといっても、行くのはクリーブランド。行ったところで何があるわけでもない。それでも、もう二度と行くことはないと思っていただけにうれしかった。

翌日の夕方、ジョンソンに呼ばれた。もしやと思ったがやっぱりそうだった。カレンダーを見ながら、六月十三日(金曜日)に行って、六月二十一日(土曜日)のフライトで日本に帰ってくる日程だった。
「パスポートと国際免許は持ってるだろう?」
「パスポートはあるけど、国際免許なんか持ってないよ。ニューヨークには住んでたけど、出張じゃないから国際免許なんかいらないじゃないか」
「そりゃそうだ。もうたいして日にちも残ってないし、明日にでも取りに行け。その場で発行してくれるはずだから」
「ちょっと待ってくれ。十三日に発ったら向こうには十三日の夜に着くだろう。土日も働くんか?」
「馬鹿言え、土日はプライベートでいろいろあるだろう。だからフライトも車も別々だ。関係部署への引き回しはするけど、帰ればオレも忙しいから、後は自分でやれ。誰がキーパーソンなのかは教えてやる。そいつから組織がどうなっているのか、仕事の仕方から何から全部聞いてこなきゃならない。いいヤツらだけど、手取り足取りしてくれるヤツばかりじゃないし」
「出張命令書とか申請書とかもあるだろうし、荒川部長に話は通ってんのか?」
「そんなものどうでもいい。荒川にはオレから言っとくから気にするな。もう総務には話してあるから。支度金、旅行カバンやらなんやら買えってのが、確か二万円くらいでるはずだから、明日にでも総務にいって山川さんに訊けばいい。ちょっとしたお小遣いだ」

「ところで、クリーブランドには行ったことあるのか?」
「仕事では何度か行ったけど、客の工場と近くのモーテルしか知らない。ちょっとした田舎町って感じだったような気がするけど」
「そうだ、田舎町だ。東京に比べたらどこも田舎町だ。それでもそこそこあるから、探してみれば面白いものが見つかるかもしれないぞ。やばいところもあるから、向こうに行ったら、教えてやる」
ジョンソンはピッツバーグの出だった。後日クリーブランドに住む羽目なって知ったが、ピッツバーグに比べればましかもしれないというだけで、何がある町でもない。何もないのを知っていて、なにが「なにかあるかもしれないぞ」だ。事業部の口の悪いヤツのジョークがどんなことろかを言い当てている。
懸賞で三等賞はクリーブランドに三週間いること。二等賞は二週間、一等賞は一週間。それほど誰もいたくない町で、多少なりとも冒険心のある若い人には、何もなくて退屈なところだった。

「ああ、そうだ、肝心なことを忘れてた。行きも帰りもフライトは別々だ。オレは、先に行って実家によってからクリーブランドに入る。帰りもまた実家によってくるから、行きも帰りも一人だ。向こうに着いても車も別々、事務所では一緒のこともあるけど、行動は別々だ。その方がお互い気楽でいいだろう」
「おい、泊まるモーテルはとってあるんだろうな? モーテルから事務所まではどのくらいかかるんだ?」
「心配するな、泊まるところは一緒だ。でも朝飯も昼飯も夕飯も一緒になることはほとんどないと思う。誰かが連れて行ってくれることもあるだろうけど、基本的には勝手に好きなところにどこへでもだ」
「モーテルから事務所までは、そうだな、十五分もあれば十分だ。住宅街を抜けていくから、スピードは出せないしな。お巡りが多いから、スピードは出すな。三十五マイルかそこらで、何人も捕まってる」
「そんな速度で捕まるんか?」
「住宅街だからな。制限速度が三十五マイルと二十五マイルで、走ればすぐそこだ。間違ってもスピードはだすな」
何人も捕まってるって、間違いなくジョンソンもそのうちの一人だろう。それも一度や二度ではないかもしれない。走ってみてわかったが、制限速度が三十五マイルから急に二十五マイルになるところがあって、注意しててもついうっかり四十マイル以上で走ってしまうことがある。道沿いに小さな茂みがいくつもあって、パトカーでは隠れようのないところに白バイまでいた。知らない人は必ず捕まるといってもいいスピード違反配給通りだった。
「そうだな、十六日、月曜日の朝、七時にモーテルの横のダイナーで落ち合えばいい。朝飯食って、一緒に事務所に行けば、行き方も帰り方も分かっちゃう。東京とは違って、車は少ないし道も簡単だから」

七年ぶりのクリーブランドだが、数日の出張で何度か来たことがあるというだけで、懐かしいともなんとも感じなかった。これがマンハッタンあたりなら、仕事そっちので、あそこにいってみようというのもあったが、クリーブランドでは客で事故を起こして、救急車で病院に担ぎ込まれたというろくでもない思い出しかなかった。

クリーブランドは地方都市で、成田からの直行便がない。ニューヨークやシカゴ、デトロイトなら乗ってしまえば寝ていてもつくが、クリーブランドとなると、シカゴかデトロイトで国内線に乗り換えなければならない。シカゴのオヘア空港よりはデトロイトでの乗り換えの方が楽なのだが、面倒であることに変わりはない。クリーブランドについて、駐在していたときのようにレンタカー拾ってモーテルに着いて、隣のダイナーで夕飯を食った。特別なことは何もないのに、それでも気もちが高揚していたのだろう、疲れもないし時差を感じることもなかった。

翌朝、また同じダイナーで遅い朝飯を食ったはいいが、これといってすることがない。まめな人なら前もって調べて、クリーブランドの美術館にでもいくのだろうが、そんなものがあることも知らなかった。事業部にいくといっても、いつものように出たとこ勝負、何か準備しなければなんてことも考えない。しょうがないから、モーテルで近間のショッピングモールを聞いて、あっちのショッピングモール、こっちのショッピングセンターへ行ってぶらぶらしていた。ジョンソン、ちゃんと来てるんだろうなと気にはなったが、そんなこと考えたところでどうなるわけでもない。

月曜日の朝、なんでこんなに早い時間にと思いながらダイナーに行ったら、ジョンソンがそんなに食うのかという感じで朝飯を食っていた。東京にいるときは、言葉の壁のせいもあって口数が少ないのに、ホームグランドに戻ってきて元気があふれていた。ジョンソンの車について事務所についた。まだ八時にもなっていないのに、駐車場は従業員の車でいっぱいだった。ジョンソン、受付に入るなり、久しぶりってことなのだろうが、会う人会う人、世間話なのだろうが、どう聞いても無駄口にしか聞こえない、それはもう一騒ぎだった。

事業部の本社のセールスだというのに、七八人しかいない。みんなにざっと自己紹介されて、クリス・セイレスという、ジョンソンと同年輩の女性に預けられた。クリスはよく気がつく頭の回転の速い人で、用件さえ伝えれば、あとは上手にアレンジしてくる。ジョンソンが日本から訪問先のマネージャ一人ひとりに日程を確認したのではなく、クリスに日程を立ててくれと頼んだだけだった。気の利いた人が一人いるかいないかで、どうにでもなることもあれば、どうにもならないこともある。クリスがその見本だった。

「お前の日程はクリスに任せてあるから、後はクリスに引き回してもらえ」
クリスに向かって、
「オレはちょっといかなきゃならないから、あとは予定通りで、いいよね」
と言って、どこかに行ってしまった。クリスに預けられたということなのだが、普通の日本人だったら放り出されたと思うだろう。
クリスのブース(パーティションで区切られている)での立ち話で、会議室に入ってなんて形式ばったこともなかった。身内の人間でしかないということなのだろうが、さっぱりしすぎていて、なんか粗雑に扱われているような気になった。

立ち話もそこそこ、マーケティング・コミュニケーションズに連れて行かれた。
「日本のマーケティングの藤澤さんが来た。予定通り、今日一日かけて、マーケティング・コミュニケーションズの仕事を紹介して」
「終わったら、私のところまで連れてきて。初めてなので、一人ではセールスにまで戻って来れないかもしれないから」
とマネージャに言って、クリスはセールスに戻ってしまった。
マネージャの部屋に置いていかれて、改めて部屋を見渡したら、どこもこもミニカーでいっぱいだった。趣味を仕事の場に持ち込んで、何考えてんだかという気もするが、アメリカの緩さというのか自由というのか、そこから生まれる余裕が羨ましかった。いつレイオフになるか分からないという厳しいところだからこそ、意識して何か気持ちのゆとりをということなのだろう。糸をピンピンに張りすぎれば、ちょっとしたことで切れてしまう。
リラックスさせようという気遣いからなのだろうミニカーから始まった。
「家にはここにある以上にミニカーがあって、仕事で疲れちゃうから、いくつか持ってきているうちに、こんなになっちゃった」

マーケティング・コミュニケーションズ(マーコム)などという言葉を聞いたのはつい一月ほど前で、何をしているところなのか、なんの予備知識もない。マーケティングという言葉ですら聞いたことがあるだけだったのが、マーケティングの新入りとして、アメリカの本社の事業部に来てみれば、最初に連れて行かれたのがマーコムだった。
マーコムのマネージャは背の高いひょろっとした黒人だった。駐在していたときに機械の据付や修理で行った客先の工場にですら黒人労働者は数えるほどしかいなかった。マンハッタンでうろちょろしていたときに黒人相手に減らず口をたたいていたことはあったが、仕事で黒人とは想像したこともなかった。ましてや部隊を率いる人が黒人。人種で云々はないが、それは新鮮な驚きだった。後日マーケティングやQA(クオリティ・アシュアランス、そのまま訳せば品質管理になる)にも行ったが、会った人はすべて白人で、どこにも黒人はいなかった。

八十六年当時、まだビジネスカジュアルなどという言葉は聞くこともなかった。それでも流行は色物のシャツで、田舎町のクリーブランドでも誰も白いシャツを着ていなかった。みんなネクタイはしていても、上着を脱いで、袖をまくって仕事をしていた。それが、その黒人のマネージャは白いワイシャツに礼服のような黒いスーツで、上着も脱がずにボタンまでかけていた。見たところ三十代半ばにしか見えないが、学歴も実力もあるのだろう。そうでなければ、この白人しかいないといっていい保守的な会社で黒人でマネージャにはなれない。
黒人だからこそ、きちんとしなければという気持ちがあってのこととしか思えない。そんなこと想像もしてなかったから、上着はクリスのブースに置いてきてしまっていた。礼服のようなスーツが、なんともいえないちょっとしたプレッシャーだった。黒人にしてもれっきとしたアメリカ人、こっちはたどたどしい英語までの日本人。スーツを着てなきゃいけないのはこっちの方だろうという気持ちが一日中消えなかった。

「へー、入社してまだ一月か、これからだね。ここにはマーケティング・コミュニケーションズのほとんどすべてがあるから、一日かけてゆっくり見ていったらいい」
服装だけでなく、言葉も慇懃に近いくらい丁寧で、パーソンズやジョンソンよりよっぽど上の社会層の人の話に聞こえた。
「みんなにも紹介しなくちゃならないし、いい人ばかりだから、何か分からないことや、気になることがあったら、何でも聞いてくれればいいから」
ここでも立ち話で椅子には座らない。レイオフなどのかしこまった話というときでもなければ、椅子に座ってにはならないのかもしれない。

部屋を出て、最初に行ったのはラボだった。
「ここではカタログや販売資料、その他広告に使う写真や図、表もなにもかも作っている」
大きなラボで、カメラマンもアートデザイナーも製版の人たちもいて、印刷だけを外注にまかせていた。
作業をしている人に声をかけては、今何をしているのか説明してくれと言って、それを補うように、その工程が全工程のなかで、どの部分なのかを説明してくれた。回り終わって、マネージャの部屋に戻ってきた。部屋に入るなり、
「どうする?」
と訊かれて、
「えぇっ、何を」
と訊き返したら、マネージャが壁に掛かっている時計を見た。
時計をみて、もうそんな時間だったんだと気がついた。見るもの見るもの初めてのものばかりで、ここまで揃っているのかと驚きの連続だった。時間が経つのが早い。
「近くにダイナーかなにかあれば、いいんだけど。適当なのある?」
って訊いたら、
「だったら、一緒にいこうか。すぐそこにデニーズがあるんだけど、そんなところでかまわないかな」
「いつもはランチを持ってくるんだけど、今日は東京からくるってんで、できれば一緒にと思って持ってこなかったんだ」
ハンバーガを食べながら、改めて駐在していたときに感じたアメリカの豊かさを噛みしめた。なぜ、そんな気持ちになったのか分からない。相手がスーツを着込んだ黒人だったのかもしれない。この人の祖先の、それこそ命を削った労働があって、はじめてアメリカという社会なり国家が成り立った歴史があることを一緒に食べていて感じた。アメリカは工業国であるとともに農業国でもあって、味はさておき、量だけは間違いなく満足させてくれる。

日本は遠い国なのだろう。何も知らないが興味だけは十分すぎるほどある。
「ちょっと行ったところに『赤い花』という日本レストランがある。そこは寿司屋らしんだけど、生の魚食べるって、ちょっと勇気がいるよ」
「クリーブランド・クリニックという大きな病院があって、日本から医者が研修に来ているらしい。そのせいか、ダウンタウンの方にはShujiroって店もあって、こっちはちょっと高級らしいけど、行ったことないから……」
ニューヨークでは寿司をはじめとして日本レストランが増えていたが、田舎町のクリーブランドでも遅ればせながら、流行が始まっていた。

午後はテクニカルライターのところに行って、マネージャに紹介された。驚いたことに、そこにも「オレはアーティストだ」というオヤジさんが何人もいた。コンピュータシステムを使ってマニュアルに使う製品の投影図やグラフや表を書くことを専門にしていた。
できるだけのことをと思ったのだろう、午後遅くなって外注のテクニカルライターまできた。もともとは社員だった人たちで、レイオフになったのをいい機会にと独立して数名でテクニカルライティングの会社を立ち上げていた。日本ではちょっと想像できないが、アメリカではすでに職業としてのテクニカルライティングが成り立っていた。

ここまできて、一つおかしなことに気がついた。日本でマーケティングと言っているのは実はマーケティング・コミュニケーションズのことで、そこではカタログの作成から広告宣伝、さらに展示会で使用するパネルからなにからなにまで、社内で製作していた。ユーザーズマニュアルの作成は、本来マーケティング・コミュニケーションズの分掌ではないが、それにしても、外から見えるマーケティング・コミュニケーションズの実作業をもってしてマーケティングと思っていたということか?
入社して、マーケティングの一員として仕事をしている気になってたし、周りの人たちも自分たちがしているのがマーケティングの仕事だと思っているが、それはマーケティング・コミュニケーションズの仕事だった。では、マーケティングとはいったいなんなのか?
2019/3/3