今度連絡しますから5(改版1)

<やっぱり相撲かな>
これもトイレの効用なのか、漏れそうになっていたのをすっきりして一息つくと、聞いた話を反芻して、しばし妙な考えが浮かんでくる。「相撲? いや、やっぱりボクシングだろう。相撲は体重を気にすることもなく飲んで食ってできるが、ボクシングはそうはいかない……」
何人もいればいいが、二人きりでトイレに行くと、相方を独りにしてしまう。帰ってくるとき、所在なしげにぼんやりしているのをみると、気が咎めるというのか、申し訳ないと言い訳の一つもしたくなる。そうはいっても、何をしたところで、入れれば出る。ことの道理でこの生理現象だけはどうにもならない。

トイレから帰ったいきおいで言った。
「原田さんさぁ、ボクシングより相撲ってのはわかるけど、どっちがきついかっていったら、ボクシングじゃないかな。日本人にどっちがあってるかって話じゃないですよ。やるとしたら、どっちが大変かって」
座りもしないうちに相撲よりボクシングと言われて、一瞬虚をつかれたようになったのだろう。えっ何に? と思っているところに、
「だって、そうでしょう、相撲は食べたいものを食べたいだけ食べても、たいした問題にならないけど、ボクシングは体重があって、食べられない。食べられないということでは体操もそうだし、乗馬なんかもそうだろうけど」
「食べられないスポーツもいろいろあるけど、ボクシングのようにぶん殴られることはないじゃないですか。体を酷使するスポーツで食べられないってのは辛いですよ。そう考えると相撲よりボクシングの方が大変じゃないかって」

うーんという顔をしながら原田さんが、
「そりゃそうですけどねぇー。体重の問題で食べられないけど、取っ組み合いということではレスリングや柔道なんかもそうなんですよね」
またうーんという感じで、考えを整理しているのか、
「でもですよ。レスリングもボクシングも体重がありますけど、これはいってみれば体重を物差しにして強い弱いの可能性を分けてるってことじゃないですか」
何を言い出したのかと思っていたら、
「だって、そうでしょう、七十キロしかない人と二百キロを超えた大男がレスリングしたら、七十キロしかない人が勝てる可能性はほぼゼロでしょう。ボクシングだって似たようなもんで、ヘビー級のパンチの破壊力って話にはなるけど、フライ級のパンチなんかヘビー級にいったら、そりゃもう、なでてるようなもんでしょ」

話し始めて考えの整理がしっかりしてきたのだろう、原田さんが続けた。
「ボクシングは、体重で階級別にしないとスポーツにならないってことですよ。でもですよ、相撲では、大きい人も小さい人も、重いのも軽いのもみん一緒じゃない」
「そりゃ確かに星の貸し借りや興行ってのもあるけど、でも百キロをちょっと超えた力士が二百キロを超えた力士を相手に、そりゃ不利であるには違いないけど、正々堂々と戦ってしばし勝っちゃうじゃないですか。ここに相撲の醍醐味があるんですよ」
反論しがたい説得力があった。なるほど、そうとしか思えない。

「日本のことなんか何も知らない単純なアメリカ人でも、テレビで相撲を観ると、最初は何だぁ、あの格好と馬鹿にしてんですけど、小兵が化け物のような巨体を土俵に転がすのを観ると、それはもう、ある意味カルチャーショックですよ。柔道までしか知らなかったアメリカ人が、こりゃもう相撲しかないってことになっちゃう。隠れ相撲ファンって、結構いるんですよ」

ふんどしは好きになれないが、言われてみれば、その通りで、あらためて相撲もありかと思いだした。これは社会にも言えることで、階層ごとに分けられたなかでの競争であれば、形ながらの競争どころか馴れ合い(寡占やカルテル)になりかねない。それが階層ごとの敷居がなくなったとたんに、合従連衡でも盟約でも裏切りでもなんでもありの勝ったものの天下ということになる。敷居がなくならない方が有利な人たちが敷居――たとえば関税で国内産業を保護したり、業界団体や業界基準を作って、ほんとうの意味での競争という競争にはならないようにしている。

「そうですよね、言われてみればその通りなんでけど」
相撲はいいにしても、ふんどしってのがひっかかって、
「どうしても、ふんどし締めてって気にはならないな。どっちにしても観るだけで、自分ではにはならないけど。ふんどし一丁かパンツ一丁かって訊かれたら、原田さんだって、パンツ一丁の方がいいんじゃないですか」

原田さんが屈託なく笑いながら、
「パンツかふんどしかって二択かぁ。ここは考えどころかもしれないな。パンツ一丁になったところで、アメリカ人には勝てない。どっちが性的魅力で勝るかって、勝負にならない。女の子が百人いたら、百人ともが間違いなくアメリカ人を選ぶ。でも、ここでふんどし一丁で勝負にでたら……」
と原田さんが妙に真剣に考えている風だった。
「原田さん、もしかして、勝負下着の話してんの」と揶揄したら、
まじめな顔をして、
「うん、そういうこともないけど」といいながら、
「アメリカ人って、変わったものに惹かれる、おかしなところがあるから、百人もいれば、ふんどしの方がセクシーだっていいだす女の子、二人や三人はいると思うな。最初に二、三人もいれば、逆張りの裏ブームのようになって、十人やそこらにはすぐになっちゃう」
たかがパンツかふんどしかという話でそんなことを考えるかと思っていたら、
「うん、やっぱりふんどしだな、柔道着なんかじゃ中途半端で。ふんどし絞めてここに日本男児ありって、ですよ。そう思いません、藤澤さん」

「おお、原田さん、ふんどしで一丁勝負にでますか。確か田所のオヤジ、学生時代には水泳の選手だった言ってたから、田所のオヤジがビキニの海パンで原田さんがふんどしで、二人の写真をとって事業部に送ってどっちがセクシーかって、どうです?」

「冗談じゃないですよ。あのオヤジと一緒に写真、よしてくださいよ。いつもの口癖で、『どうもどうも』って言われて、こっちもつられて『どうもどうも』って、海パンはいて『どうもどうも』、ふんどし締めて『どうもどうも』、パンツとふんどしのチビデカの漫才コンビじゃないですか」
「そうだ、原田さん、海パンとふんどしの脱がせっこ競争でもしたら、小柄の田原さんでも勝てますよ。パンツ脱がすのはかんたんだけど、ふんどしはするのも脱ぐのも大変だから」
共通の話題を探すことから始まったのが、うそのように話があちこちにとんでいった。

翻訳屋になってからは、勉強しなければならない毎日だったこともあって、趣味という趣味はなくなっていた。夜はアメリカの大学の教科書を読んで、英語で技術知識の吸収を急がなければならなかった。そもそも三十を過ぎてからはじめた英語、トラック競技でいえば、周りの人たちに何周も遅れたことろからのスタート。たまに同僚と夕飯というのはあっても、夜は貴重な勉強の時間だった。

これといった趣味もなくなってしまった生活をぽっと思い出して、原田さんに訊いた。
「原田さんもゴルフとかやるんですか?」
なにを唐突にという顔をして、
「スポーツは何もしないですね。背が小さいというのが精神的なハンディキャップになって、手をだせなくなっちゃったままで。そうですね、独りで暇なときには、まあ、たまにだけど、詰め将棋ぐらいかな」
高専の同級生にも一人いた。なにもないときに詰め将棋があれば、それだけでいいという男だった。
「でも、詰め将棋って、疲れるじゃないですか。なんかあれこれ考えているうちに、どれがどの考えだったのか、だんだんこんがらがってきて、始末におえなくなっちゃいません?」
わかっちゃないなって顔をして原田さんが、
「そこがいいんじゃないですか。ああでもないこうでもないって、ごちゃごちゃのなかから一つの答えをみつけだす。見つかったときの、感動ってほどのものじゃないけど、やったぜって気持ちになるでしょう。それがいいんですよ。仕事だって似たようなもんじゃないですか」
「でも、いくら考えても、見つからないであきらめたとき、嫌な感じが残るでしょう。面倒くさがり屋だから、詰め将棋をすると、最後は詰まらなくて、嫌になっちゃう」

原田さんが、そうだったと何か思い出したような口ぶりで言いだした。
「詰め将棋って、もっとも難しい知的な独り遊びようのゲームだと思いますね」
「今は本をみてですけど、そのうちコンピュータにはかなわないって時代がきますよ。まだまだ実行環境が弱いですけど、ハードウェアが強力になれば、複雑な演算でもたいした時間かからなくなるから」
なんか妙にしたり顔で、
「でも将棋の前にまずチェスでしょうね。チェスは相手から取った駒の使いまわしがないから簡単。でも将棋はそうはいかない。チェスなんか比べ物にならないくらい複雑で……。将棋は、日本というのかアジアの歴史的知的水準の高さの証明の一つといえないこともないかなって……」

ここでも日本が出てきた。アメリカで育ったことから生まれた、なんにしても日本人だという気持ちがかちすぎる。それは原田さんにまとわりついて、原田さんを一つの方向に引っ張り続ける重力のようだった。日本にいる限り、あらためて日本人だと思うことはほとんどないか、たとえあったにしても、たいした時間もかからないうちに、すっと流れていってしまう。ところが海外で生活すると、自分とは違うもの、しばしそりゃないだとうということに毎日のように遭遇して、いやがおうでも日本人であることを意識させられる。
同級生の一人に趣味ででしかないが、ジャズのベースを弾いていたのがいた。それが就職してインドネシアの海洋油田の掘削に行って、数年して帰ってきたときにはジャズのジャの字もなくなって、カラオケでしっかり演歌を歌っていた。

酒を飲みすぎて、まじめなアメリカの人種問題というのか社会問題のような話がボクシングか相撲かという話になって、そこからパンツかふんどしかという馬鹿話に転がっていった。そして最後は将棋とチェスにコンピュータの進化になった。
仕事での付き合いでしかないが、こんなところから男同士の仲間意識が生まれてくる。それがまっすぐ仕事に生かせればいいのだが、組織のしがらみに引きずられて、すっとはいかない。組織を抜けた一人の人間としてより、組織の一員としていたほうがと思う人が多すぎる。
2019/2/3