今度連絡しますから6(改版1)

<ことの始まり>
営業がCNC(Computerized Numerical Control)の仕様書の仕事をとってきた。ベテラン営業マンで個人的なネットワークもあるのだろうが、よくもまあ、こんなものをみつけてきたもんだと驚いた。それはマーケティングがエンジニアリング部門に、こういう製品を開発しろと指示する開発要求書だった。CNC市場は成熟しきっていて、日本では二社、世界では五社で寡占。そんなところに、いまさらまっさらからの開発? にわかには信じられなかった。

大手工作機械メーカのバリバリの技術屋だった人を社内に翻訳者として抱えているとアピールしたらしい。CNCは客の立場で散々使ってきたから、翻訳が必要とするレベルなら、十分すぎるほど知っている。それにしても、技術屋になりそこなったのをバリバリといわれると、どうにも誇大広告が恥ずかしい。
営業マンに、「はずかしいから、よしてよ」と言ったが、受注することしか頭にない営業マンは、そんなことなんとも思ってない。もう受注は間違いないという口ぶりで、「任せるから」と言われていた。

技術革新にともなう淘汰と寡占が、ある幅をもったにしても製品の大枠を決めてしまう。乗用車がいい例で、どのメーカのものでも基本構造や機能に大きな違いはない。工作機械もその制御装置にも同じことが言える。大手五社で世界市場を支配しているCNCは、どこも似たり寄ったりで、一社の製品を理解すれば、多少の違和感があったにしても、他社の製品もわかる。

勝手知ったるおいしい仕事、オレに任せろと言ったはいいが、それには勘弁してくれという条件がついていた。クライアントから提供された書類を翻訳会社の事務所で翻訳するのが普通だが、クライアントに出向いて翻訳することが求められていた。時間の余裕がないからというが、出向いて翻訳しても事務所でしても翻訳する手間にかわりはなし、余裕がない? 何を言ってるのかと思いながら、辞書を片手にクライアントの事務所にいって驚いた。

作業環境は用意してあるからと聞いてはいたが、そこまで切羽詰っているとは想像できなかった。がらんとした小部屋の片隅に机とタイプライターが置いてあるだけではなく、クライアントがチェックした訳文をその場できれいにタイプアップする派遣のタイピストまでいた。至れり尽くせりといいたいが、肝心の翻訳する日本語の原稿が数ページしかない。いつものことで、荒れた日本語だったが、書かれなければならないヒントさえあれば、間違いなく趣旨を伝えられる英文を書ける。数ページ訳して次の原稿はと思っていたら、つるつる頭の大男のアメリカ人が部屋に入ってきた。
一瞬たじろいだ。営業から、あそこには「大きな海坊主がいて、怖いんだよ」と聞いていた。見た目で人を判断してはいけないと思うが、頭だけでなく、眉毛もまつ毛もないつるつるの強面、小柄ならかわいいかもしれないが、百九十センチを超えた大男、一見プロレスラーかと見紛う。そばにいられるだけで怖い。営業の言うとおりだった。

海坊主が数ページの訳文を手にとって、その場でささっと赤字で書き直してタイピストに渡した。タイピストにかかれば、タイプアップに時間という時間はかからない。いくら一所懸命翻訳したところで、海坊主のチェックとタイピストの速度にはかなわない。海坊主、たまに翻訳ができているかを見に来て、できていればチェックして仕事に戻るからいいが、タイピストは翻訳とチェックが終わるのを、翻訳している横に黙って座って待っている。話しかけられても困るが、ただ横に座っていられるのもうっとうしい。 マーケティングの担当者は何か緊急の仕事を抱えていたのだろう、たまに部屋に来ては和文原稿を書いていた。推敲する余裕がないから、書きなぐりの原稿しかでてこない。翻訳がボトルネックになるはずの作業だったが、和文原稿が仕事にならない原因で助かった。

和文原稿を一目見て、いったい何をしようとしているのか、真意をはかりかねた。原稿は、使い慣れた日本メーカのCNCのプログラミングマニュアルの該当箇所を書き崩したものだった。そのCNC、製品は一流だが、マニュアルは新機能が追加されるたびに書き足していったもので、読み難いというより、知っている人でも読み間違いしかねないものだった。増改築を繰り返した田舎の老舗旅館のようなもので、懇意の客でも迷子になる。そんなものをネタ本に正式書類の体裁を整えるプレッシャーもあってだろうが、日本語になっていない。CNCを使ったことのない翻訳者では、いくら読んでも、何を言っているか想像もつかない。字面翻訳でも苦しい。

あまりに荒れた日本語で、いい加減にしてもらいたいという気持ちもあって、バタバタしている担当者に基本的な内容の質問をしてみた。そんな質問などしなくても、どんなにだらしのない日本語からでも、書かれなければならない仕様書ぐらい書ける。

しらっと訊いた。
「ここのところにC軸と書いてありますけど、その説明がどこにないですよ。これ、主軸もサーボ軸にしたときの制御軸のことですよね。直交座標の説明はありましたけど、そこにはA、B、Cの回転軸の説明は入ってなかったですよ」
まじめに質問というか確認だと思ったのだろう。
「えぇー、どこかになかった?」
まったく何を考えてんだか、座標系の紹介のところで書かずに、どこに書くってのと思いながら、
「ああ、いいですよ。忙しいでしょうから。この程度の一般的なことであれば、書き足しておきます」
普通の旋盤では主軸は速度制御までで位置は制御しない。ただ、ちょっと凝った旋盤では、位置も制御することがある。X、Y、Zの直行座標軸のそれぞれに垂直に回転するサーボ軸をA軸、B軸、C軸とする。これはJISで決められているし、ISOあたりでも同じように決められている。

工作機械屋なら常識でしかないが、CNC工作機械を使ったことのない人には、二人が何を話しているのかすら分からない。抜けだらけのどうしようもない日本語原稿を、なんと思うことなく、まともな英語の仕様書に書き上げてしまう翻訳者がいたということなのだが、ここまでの仕事をしてしまう翻訳者、東京中探しても、おいそれとはみつからない。

技術翻訳の仕事は、何ページ、しばし何語(なん語=文字数)翻訳していくらという料金設定。和文原稿がでてくるのを待っていてはメシを食えない。それでも朝来て、仕事にならないですからと昼過ぎに帰るわけにもゆかない。クライアントの事務所で翻訳が条件だったから、事務所に持ち帰っての仕事にしたいと申し出るのをためらって、二日目も三日目もクライアントの事務所にいった。和文原稿が間に合わない状況が改善される様子がないことを三日かけて確認して、申し込んだ。
「原稿を待っている時間がもったいない。原稿がまとまったら、取りに来てもいいし、郵送してもらってもいい。自分の事務所での仕事にしてほしい。翻訳仕上がったものを毎日届けろというのであれば、毎晩届けにきてもいい」
なんとしても、無言で座っているタイピストと海坊主のプレッシャーから抜け出したかった。専門とする領域の真ん中にへなちょこの棒球、あくびしていてもホームラン間違いなしの仕事なのだが、原稿はでてこないは、変なプレッシャーはあるはで仕事以外のストレスにまいってしまいそうだった。

後日分かったことだが、担当者はマーケティングの人だとばかり思っていたが、アプリケーションエンジニアリングの人だった。マーケティングにはマーケティング本来の仕事をする意思もなければ能力もなかった。担当者は、アプリケーションエンジニアリングの仕事でバタバタしていて仕様書を書く時間がとれないまま、開発要求仕様書を英訳してアメリカ本社に提出しなければならない期限を過ぎてしまっていた。外資というと個人個人の分掌がしっかり決まっていて、組織で動いていると思う人が多いだろうが、中には日本の会社以上に、よく言えばフレキシブル、ただただルーズなところも多い。

クライアントに行ったり来たりしながら、和文原稿を参考にというかヒントのようにして、これしかないという英文仕様書を書き上げた。それは書き上げたもので、到底翻訳とは呼べない。
一ページ、一文字いくらで請け負う翻訳家業としては、和文原稿を愚直に英語に書き換えたほうが楽だし金になる。ところが、原文に忠実に、意訳を最小限に抑えた、本来の意味での翻訳では、とおりの悪い英文どころか、わけのわからない英文資料にしかならない。訳した英文を読んで、自分でもなにをいっているのかわからないものを、日本語に書いてありましたから、辞書に載ってましたから、という気にはとてもなれない。

もし、字面で翻訳したらどうなるか? 日本語の分からない海坊主は、翻訳だけしかみない。わけの分からない英文をみて、それは日本語の原稿の問題だと思うか? 海坊主はただ翻訳の質が悪すぎて、チェックのしようがないと言うだけだろう。もし、それでもアメリカ本社への納入を優先して、たいしてチェックもせずに送ったら、どうなるか? アメリカ本社も海坊主と同じように、分けがわからないのは翻訳が悪いからで、日本語の原稿の問題だとは思わない。もし本社から日本支社にクレームがきたら、翻訳者の問題である以上に日本語原稿の問題だと、たとえ思う人とがいたとしても、仲間内の批判はしたくない。落としどころを外に求めて、外注の翻訳者がだらしなかったということなる。英語ができないのは英語の知識が足りないということですむが、日本語がおかしいというのは、書いた人の知識ではなく知能がおかしい、分かりやすい言葉でいれば、馬鹿ということになりかねない。

翻訳なのだから字面で英語に置き換えるのが、あるべき姿なのかもしれない。しかし、それでは翻訳が求められている意思の伝達という本来の目的を達成できない。そんな目的はクライアントの分掌であって、翻訳者に責任はないといいきる翻訳者も多いが、それを繰り返していたら、仕事を通して得るのは時々の収入だけの、上っ面の仕事で日々を生きるだけの翻訳者にしかなれない。どう考えても、翻訳者としては割りに合う合わないにかかわらず、翻訳から一歩も二歩ででて資料を書き上げる仕事を心がけるしかない。

すべての作業が完了したとき、世間話に交えてマーケティングの部長に、
「こんな人間いたら重宝すると思うんですけど、いりません?」
と、つとめて軽い明るい声で訊いた。
たかが外注の翻訳屋として見下しているのを肌で感じていたから、断られることを期待してというのも変だが、断られても、自分が傷つかないようにと思っていた。
何を言ってきたかという顔をされて、関西弁の冷たい口調で言われた。
「いらない」
そうだよね、そんな運のいい星の下に生まれちゃいない。訊かなきゃよかったと、悔やんでみても始まらない。今いるところにいるだけで、何を失った訳でもなし。何もせずにいるよりは、ダメ元で可能性をという気持ちがなくなっちゃ終わりじゃないか、と自分に言い聞かせたが、それにしても、もうちょっと言いようってものがあるだろうって、
「そうですよね。でも、ご参考までに履歴書を送っときますから。また翻訳の仕事ありましたら、担当営業に電話してください」 と言って終わった。
履歴書なんか送ったところで、ろくに見もしないでゴミ箱いきだろうと思いながらも、「送っときますから」と言ってしまった手前、送らないわけにもいかない。定型書式を買ってきて書き始めたはいいが、人目を引くような学歴や職歴があるわけでもなし、これといって書くことがない。仕事はしてきたが、技術屋になりそこなった高専出の巷の一翻訳者でしかない。書くことがないのに面倒になって、しらばっくれてしまおうかとも思ったが、リピートオーダーを期待できる客を大事にしなければ、仕事をとってきた営業に申し訳ないという気持ちもあって、空白の目立つ履歴書を送った。

クリスマス前にはアメリカ本社に提出しなければと言っていたが、送ったところで向こうはクリスマス休み。年が明けなければ始まらないのだから、年末年始の休みに入る前に送っとけばなんとでもなるだろう。
ただ、どうみても、仕様書にはいくつもの大事な箇所が欠けていた。日本語の原稿にきれいさっぱり入っていないから、翻訳屋としてはそこまでは踏み込めない、というより本音は、だらしのない日本語に、もうこの辺りでとりあえずにしても、終わりにしたかった。年が明ければ、またバタバタして言ってくる。待ってりゃいい。横田基地への転職もほぼ決まっていたし、何も困っちゃいない。楽しみが一つ増えた。こういう楽しみはいくつあっても困らない。
2019/2/3