今度連絡しますから7(改版1)

<何?会いたいって>
クリスマス前にはCNCの翻訳も終わって、今年も残すところ二十六、七の二日だけになった。抱えた仕事は年が明けてからかたづければいい。ここまでくれば、へんなのが入ってくる心配もなし、気持ちのうえではもう休みに入ったようなものだった。去年のようなことは、もう勘弁してほしい。最後の最後になって、正月明けでいいからって百ページ以上の書類を渡されて、正月どころじゃなかった。

もう半分正月気分のところに、とんでもないのが転がってきた。重なるときは重なるもので、今度はファナックのCNCのプログラミングマニュアルだという。英文のマニュアルは正式書類としてある。CNCを買えばついてくる。いったい誰が何のために英訳しようというのか。どこから出てきた仕事か知らないが胡散臭い。それに厚さ二センチはあろうかという代物を正月明けに納品。よしてくれっての、そんなもの誰ができるのかと思っていたら、営業マンとコーディネータが二人で、きりのいいところで四、五十から百ページぐらいの束に分けようと話していた。

分けてどうするのかと思っていたら、束を翻訳者に配布しはじめた。何人もで平行して翻訳するのはいいが、みんながやりたいようにやった一束一束の翻訳を整合性のある一つの書類にまとめるなんてことができるとは思えない。そんな仕事には絡みたくないし、下手に絡んだら、整合性をつける最後の力仕事をなんてことになりかねない。

一仕事終えて、正月休みはどうしたものかと思っているところに、聞こえてきたのは冬休みの宿題みたいな話。独り者で何があるわけでもないが、それでも正月休みはただの連休とは違う。お茶を入れにいって隠れるようにしていたが、逃げ切れない。机に戻ってきたら、コーディネータが薄笑い浮かべながら待っていた。束を押し付けるかのように、
「はい、これ藤澤さんの分」
そんなもの出されたって、受け取る気はない。
去年も正月返上の仕事を押し付けたことを忘れちゃいない。薄ら笑いがそういってる。
「今年もごめんね」という気持ちは見える。でも、そんなもん見せられたからって、「はい、じゃあ今年も」という気にはなれない。
「よしてよ。去年だって正月返上だったじゃない。今年はゴールデンウィークだってなかったし、せめて人並みに、独り者だって正月気分って、わかるでしょう、ね」
って、束を押し返した。
そんなもんで、そうですよねって引き下がる相手じゃない。

「わかってるわよ。この束、厚く見えるけど、図と表の多いページを選んだから、藤澤さんなら年内に終わっちゃうから。松沢さんも、CNCの仕様書のこともあったしで、ここは藤澤さんにもう一肌脱いでもらわなきゃって言ってるし……」
松沢さんをださせると弱い。日立精機を辞めなければならなくなって、翻訳屋で拾ってもらったようなものだったが、そのきっかけをつくってくれた営業マンで、何かのときには相談にのってもらっていた。
働きづめで、もうよしてくれっていいたいが、口笛吹き吹きのおいしい仕事。翻訳屋には人並みの生活なんてないのかと、うんざりしながらも、金にもなるし松沢さんもいるしで断りきれない。

年は明けたが、いつものように翻訳しているだけで、正月明けという雰囲気はない。年越しでもっていた仕事をしていたら、予想していた通り、CNCの仕様書の追加の翻訳が入ってきた。クリスマスまでの書類にはミーリング系の工具補正がすっぽり抜けていた。大きい塊はそれだけだったが、よくもまあ、こんなに抜けがあったものだと驚いた。細かな追加がごちゃごちゃあって、もとの翻訳のどこに関係するのか、いちいちチェックしないと木に竹をつないだようになりかねない。まったく手の焼ける客で、割増料金もらわなきゃ割りに合わない。

コーディネータが翻訳室に入ってくるなりニヤニヤしながら、
「藤澤さん、言ってた通りきたよ」
なんだそのニヤニヤは、薄気味悪い。冬休みの宿題のこともあって、もうとうぶん絡みたくない。いい顔してると、次から次へと仕事を押し込んでくる。放っといてくれという気持ちもあって、ちょっとつっけんどんに、
「何が?」
「ほら、去年のCNCの仕様書、抜けがあるから、年が明けたら、追加がくるって言ってたじゃない」
「おお、あれね、来たか。でも今抱えているのが今月いっぱいかかるし、二月に入ったらCTスキャナーと製パンライン、三月にはディーゼルエンジンでもういっぱいだよ。もうこれ以上いれなでよ。製パンライン終わったら、一週間くらい自主休業のつもりだから」
「でも、できる人藤澤さんしかいないじゃない。多少遅れたって、文句なんか来っこないし。こいつ今月中は無理にしても、来月早々には、やっつけちゃおうよ。四月にはまた製パンライン一つ来そうだし、自主休業はゴールデンウィークまで待ってでいいじゃない」
「ゴールデンウィーク? よしてよ、冗談じゃない。暖かくなったら絶対に一週間休むから……」

くる物くる物、はいはいと請けていたら、それこそ休みどころか寝る時間すらなくなってしまう。どこかで思い切って自分で休みにしないとまいっちゃう。でも休めば収入が減る。減るのを覚悟でまでならいいのだが、自主休業も、まあそのくらいはと思ってもらえるまでにしておかなければならない。度が過ぎれば干される。休みを終えて復帰しても、仕事を回してもらえないかもしれない。要は実力次第で、仕事を探し続けなければならない翻訳者から仕事が待っている翻訳者にならなければならないということでしかないのだが、たかが巷の翻訳者、クライアントからの指名でもなければ、翻訳会社としては、誰でもいいから、空いている翻訳者にまかせればことが済む。傍目には時間の都合のつく自由業にみえるだろうが、世間並みの収入をと思えば、自由といえる自由なんかありそうでない。

土日もなく根をつめて、一月末にはCNCの追加の翻訳も終えた。もう三ヶ月や半年はリピートオーダーも来ないだろうと思っていた。そこにクライアントから電話がかかってきた。
原稿の内容を確認するために翻訳者からクライアントに電話をすることはあっても、クライアントからの電話が直接翻訳室には入ってくることはない。外からの電話は営業がブロックしていた。翻訳という仕事の性格上、直に電話なんか受けていたら、仕事にならない。なかにはしぶとくねばってだろうが、営業から電話が回ってくることがある。そんな電話の多くは、一、二行、しばし一語を電話で英語でなんというかという話で、いい人ではいたいが、金にもならないし、誰も受けたくない。

キャリアウーマンでございますとでもいうのか、話し方に剣のある人で、年末の仕事では見下されているような感じがして嫌だった。できれば電話ででも話したくない。でも、もしかして先月納めた翻訳にミスでもあったのかと心配になって電話をとった。
「この間の翻訳、何か問題ありました?」
何か言われるまで黙ってればいいのに、電話をとるなり、つい訊いてしまった。
「いえ、問題なんて何もないです。翻訳では本当にお世話になってます」
「年明け早々、京橋に引っ越しました。オフィスも広くて、明るくなりました」
なんなの、引っ越したからなんだっての。まさか引越祝いがまだなんてことで、電話してきたわけじゃないだろうと思って聞いていた。

「山本が大阪支店に転勤になりまして、後任のマーケティング部長として荒川が入社しました。マーケティングも山本時代とはかわってもっと積極的にと、荒川もいろいろ考えているところで、一度藤澤さんとお会いできないかと思っているのですが」
会いたいってのはいいけど、会ってどうすんの? この類の話は、翻訳会社を経由しないで、直に翻訳を頼んで安く上げようというのが多い。翻訳者は売り上げの半分ぐらいしかもらえない。残りの半分は営業やプルーフリーダーやタイピストなどの経費と会社の利益になる。

「あのー、仕事のことでしたら、営業と話して頂けませんでしょうか」
といって、電話を切ってしまいたかった。
「いえ、今すぐ翻訳の仕事というわけではないのですが、将来的なことも含めて、一度いらして頂いて、荒川と話を……」
翻訳は翻訳してなんぼの仕事で、翻訳者は誰も机にむかって翻訳をしていたい。客に行けば、その間仕事にならないから実入りが減る。なんの用事というわけでもないのに時間を割きたくない。

ただ、せっかく営業がとってきたリピートオーダーを期待できるクライアント、ゴタゴタしたら営業に申し訳がたたない。どう断ったものか、なんと返事したものか、と言葉を探していた。
「新年度からの仕事の仕方について、荒川が是非一度……、忙しいところ恐縮ですが、お願いできませんでしょうか」
角を立てずに断る言葉が見つからない。どうにも断りきれない。
「新しい事務所は京橋から徒歩五分ほどですから、新橋からの便もいいですし……」
京橋って話は前にも聞いたような気がするが、事務所の場所がどこかって話じゃないんだよねと思いながら、
「京橋ですか、池袋だと新幹線での出張は面倒ですもんね。京橋なら東京駅まで歩いていけるし、便利なところでいいですね」
いらぬ世辞まで、つい話をつないだ格好になって、ますます切りにくい。

「今週でも来週でも、藤澤さんの日程に荒川の日程を合わせますから、お願いできませんでしょうか」
ちょっと待ってよ、日程の話じゃないだろうが。だれが行くって言った。
「できれば早い方がいいんでけすど……」
なんなんだ、いったい。いつのまに、行くの行かないのじゃなくて、いつになってる。
もう断りの言葉を捜しているところを通り過ぎていた。まったく人をなんだと思ってるんだ。会いたいならそっちがこっちにくればいいじゃないかと思いながら、
「そうですね、じゃあ、今月の二十一日か二十八日の金曜日はどうでしょう」
言ってしまった自分にあきれた。

「ちょっと待ってください。今荒川の日程を確認しますから」
遠くの方で男の人と話しているのが聞こえる。話の内容までは聞き取れないが、たぶん荒川さんという新任の部長と日程のことを話しているのだろう。結局行く羽目になってしまった。しゃくにさわるがしょうがない。金曜日の分は土曜に家でやればすむことで、たいしたことではない。ただ、こうして自分の時間を切り刻んでが増えていって、自由業が自由業でなくなる。

「ああ、すみません、今荒川と日程を確認しました。どちらでも結構なのですが、できれば早い方がいいだろうということで、二十一日にしていただけませんでしょうか」
「はい、午後三時ころにお伺いですることでよろしいでしょうか」
もうなんでもいい。行くから。早く電話を終わらせたいの一心で時間を言ってしまった。
「ちょっと待ってください。荒川に確認しますので」
いちいち確認なんかしてないで、電話を荒川に回せっての、何を偉そうに部下に電話させてんだこの野郎、何様だと思ってんだ、と腹が立ってきた。
「はい、午後三時で結構です」
「じゃあ、二十一日、午後三時に京橋の事務所でということで。ああ、ところで京橋のどの辺りですか」
「すみません、まだ場所をお話してなかったですね。京橋と言っても最寄り駅は宝町で、宝町の駅の真上の感じです。京橋駅で明治屋の出口ではなく新橋寄りの出口を出て、そのままちょっと歩いて頂くと広い道にでます。その広い道を、東京駅を背にして真っ直ぐ歩いて五分もいけば、右前方に秋田銀行の看板が見えます。それが有楽ビルで弊社はその八階です」
「ああ、あの辺りですね、確かアサヒビールがありましたよね。大体わかります」
「それでは、三月二十一日、午後三時にお待ちしております」

金をもらっての仕事でしかないし、むこうがどう思っているかも知らないが、先のCNCの翻訳では貸しがあると思っていた。まったく何様だと思ってんだ。何だか分からないが、もし会社をとばして直の翻訳の話だったら、はっきり断ればいい。しがない巷の翻訳者、ヤクザ家業の翻訳業界だが、それでも仁義ってもんがある。ましてや拾ってもらった身、社長にも松沢さんにも義理がある。

行くと話が決まってしまってからも、気持ちが収まらない。なんで行かなきゃならないのか? 実務を人にまかせて、話をしてりゃ仕事という身分じゃない。オレの半日、どうしてくれるって思っているうちに思い直した。
英文のマニュアルでももらえれば、本屋じゃ買えない実の資料、半日つぶしてもお釣りもきようってもんじゃないか。何があるとも思えないが、マニュアルだけは間違いなくある。まあ、行くだけ行ってみるか。
それにしても翻訳者の立場は弱い。仕事にあぶれれば、翻訳者でなくなるだけなのだが、一度自由業になってしまうと、普通のサラリーマンには気持ちの上でも、雇う方でも二の足を踏む。
2019/2/10