今度連絡しますから15

<マーケティングとは>
二日目の朝、六時過ぎに起きて六時半には隣のダイナーに行ったのに、ジョンソンはいなかった。ジョンソンよりも早く出社しなければ思ったが、アメリカ人にはかなわない。なんでこんなにと思うほど朝が早い。まったく鶏のような連中で、夏季限定にしても、日の出とともに動き始める。もっともその分帰りも早くて、人によっては四時前に切り上げて帰ってしまうのもいる。とてもではないが、宵っ張りの日本人にはちょっと真似できない。いくら朝が早いからといっても、四時では日が高すぎて、帰るにしても、なんかうしろめたい。

七時をちょっと過ぎにクリスのブースに着いたら、ジョンソンがクリスと世間話をしていた。言語の壁ということなのだろうが、日本では無口なのに本当のところはおしゃべりなヤツだった。今日はマーケティングへということでクリスに任せるのは問題だと思ったのだろう、ジョンソンに連れられて、マーケティングに行った。マーコムは建物の東のはずれ、マーケティングはその反対で西のはずれだった。細長い建物で、どのくらい離れてるのか分からないが、頻繁に行き来する距離ではない。そのせいもあってだろうが、昨日ジョンソンはマーコムに一度も戻ってこなかった。

一つひとつブースを回ってマーケティングの主要メンバーに一通り紹介されたが、事業部長とディレクターの部屋には行かなかった。たかが日本支社の平社員、いちいち挨拶する立場でもないということなのだろう。ジョンソンと同期入社だというマネージャのワイズウィッツの部屋に落ち着いた。窓を背にしたワイズウィッツに向かって座ったはいいが、二人で事業部の問題や世間話が始まった。横で聞いていても単語単語が聞き取れるだけで、自分に関係した話以外にはついていけない。アメリカ人と話しができても、アメリカ人同士の話には入っていけない。そこまでの英語の能力もなければ、知識も持ち合わせていない。

よくぞそんなに話すことがあるなとあきれるほど二人の話が続いていた。話が終わらないのは、ジョンソンが世間話にからめながら、ああだのこうだと屁理屈をつけて、なんとかワイズウィッツをアルファプロジェクトに引きずり込もうとしていたからだった。ワイズウィッツに限らず、誰も頓挫るすに決まっているプロジェクトなんかには絡みたくない。ジョンソンが何をどう言おうが、ワイズウィッツは事業部の方針次第を盾に、オレの判断じゃどうにもできないと逃げ回っていた。

九時もずいぶん回って、やっとジョンソンが立ち上がった。これで、マーケティングの話になるとかと思いきや、ワイズウィッツも一緒に立ち上がって、「まずはコーヒーだ」で、ついて来いという感じで歩いていった。コーヒーサーバーぐらいあるだろうと思っていたが、ベンディングマシンだった。東京の事務所でもあっちにもこっちにもコーヒーサーバーがあったし、冷蔵庫にはコーラやジュースまであるのに、なんでアメリカまで来て、こんなまずいコーヒーしかないんだと思いながら、紙コップ片手に部屋に戻った。

時間はあるということなのだろう。のんびりコーヒーをすすってから始まった。ジョンソンと話しているときもそうだったが、ワイズウィッツは貧乏ゆすりがひどい。なんでそんなにという視線が気になったのだろう、オレはハイパーでなんとかかんとかと言い訳がましい。ハイパーということなら、こっちはハイパーサイロイ(甲状腺機能亢進)で手術までしているぞって、うっとうしからその貧乏ゆすりを止めろといいたかった。まったく落ち着かないヤツだが、ハイパーだからといって仕事が速いわけじゃない。見ている限りでは、仕事の手際がいいとは思えない。

「昨日、マーコムで製品リリースに向けた準備をみてきたろう。今日はマーケティング全般ということだけど、ここにはもうプロダクトマーケティングはほとんど残っていない。いるのはコマーシャルマーケティングだけだ」
「ちょっと待ってくれ、そのプロダクトマーケティングとコマーシャルマーケティングいく前に、マーケティングの全体とマーコムとの関係なんだけど」
「そうか、マーク(ジョンソン) も言ってたけど、日本にはマーコムはあるけど、マーケティングと呼べるものはないらしいな」
「マーケティングは、ここのモーションコントロール(事業体)においてはという話だけど、二つの部署からなっている。一つはプロダクトマーケティングで、もう一つがコマーシャルマーケティングだ。コマーシャルマーケティングの下というか実作業部隊としてマーコムがいる。昨日見てきたろう。ここまではいいよな」

「それでだ、まずプロダクトマーティングからにするか。コマーシャルマーケティングに比べれば簡単だ」
「プロダクトマーケティングは製品開発に責任をおっている。新規に開発する製品の機能と性能を決定して、こういう製品を開発しろとエンジニアリング部隊、ハードウェアとソフトウェアのエンジニアリング部隊に要求する」
「仕様を決めるったって、自分たちで勝手にどうこうってわけじゃない。コマーシャルマーケティングを通して調べた市場ニーズをまとめて、当然自分たちでも調べはするけど、どういう製品をどういう価格帯で、どういう販売チャンネルで販売する製品にするかを決める責任がある。開発によっては社内のエンジニアリングで間に合わないこともある。そういうときは、エンジニアリングパートーナーを探さなければならないこともあるし、時には企業や事業の買収なんてこともある」
「いずれにしても、エンジニアリングは、それはハードウェアもソフトウェアもだけど、プロダクトマーケティングの要求に従って製品を開発するだけで、出来上がった製品については何の責任も持たない。すべての責任はプロダクトマーケティングが背負っている」

「プロダクトマーケティングの責務は簡単だ。開発する製品が市場でポールポジションをとれることだ。それは機能や性能だけじゃない。価格もあるし、自社の製品ラインアップとの関係もあれば、競合との相対的な位置もある」
「お前たちのせいで、おっとフジサワさん、あんたということじゃない。日本の工作機械メーカのせいでアメリカの工作機械メーカが消えていって、オレたちの事業部では、新製品を開発する意味がなくなってしまった。それでも既存機種の改良や追加機能の開発もあるから、プロダクトマーケティングが残ってはいるけど、二人プラス一だ。このプラス一って変な話なんだけど、イタリアのCNCの改善というか、あっちとのインタフェースに一人いる。こいつはどういうわけかマーケティングじゃなくて、エンジニアリングにいる。明後日にはそっちへ回るってマーク(ジョンソン)が言ってた。会ってみりゃわかるけど、おかしなイタリア人のオヤジで、ジョークはいいが、仕事になると元気がなくなる。まあ、特別なにをするってことでもなし、その程度でいいってことだ」

「マークの話じゃ、アルファプロジェクトで、日本でプロダクトマーケティングのようなことをやってるらしいけど、ことはそう簡単じゃない。プロダクトマーケティングは簡単だっていったけど、市場でいい位置を占められる製品を開発できるかどうかはプロダクトマーケティングにかかってるから、責任は重い。結果は一担当者のという話じゃ済まない。ミスれば事業部全体に影響がでるし、レイオフにもなりやすい。給料がいいってんならわかるけど、仕事は面白いけどリスクが大きすぎる。コマーシャルマーケティングの方がまだいい」
「まあ、マークが日本でやってるっていうし、おいおい分かってくるだろうけど、やばいポジションだ」
「フジサワさんも大変なところに来たな。あわててもしょうがないし、まあ、コーヒーでも、どうだ」
健康診断の検尿カップのような小さな紙コップに七分目しかはいっていないから、すぐに飲みきってしまう。また連れ立ってベンディングマシンまで行って、まずい三十セントのコーヒーを買ってきた。

「ここまでがプロダクトマーケティングなんだが、おっと、大事なことを忘れてた」
「プロダクトマーケティングが決めた仕様をエンジニアリング部隊に書類として発行する。その書類がPDR(Product Development Requests)だ。それをエンジニアリングが開発の目でみて、こういうものを開発するんだよねって仕様確認書をだしてくる。それがFunctional Specsと呼ばれる書類だ。そのPDRとFunctional Specsを、製品を使うユーザーの目でみてテクニカルライターがUsers’ Manualを書き上げる。Users’ Manualを愚直に読んで、製品を使って、PDR通りの製品が出来上がっているか、そしてその製品を市場に出しても事故になるような欠陥がないことをQA(Quality Assurance)が確認する。QA部隊は社長直結で事業部の都合なんかお構いなしに固いことを言ってくる石頭連中だ。こいつらには経営という視点もなければ損益なんてのも関係ない。お気楽といえばお気楽に見えるけど、もし万が一何かあったら、客先で人身事故にでもなったら、QAが責任の矢面に立たされるから、これはこれで大変な仕事だ」
「これがプロダクトマーケティングの仕事と製品が開発されて市場にでるまでの大まかなステップだ」
「プロダクトマーケティングが製品仕様をミスれば、エンジニアリングがどんなにいいものを開発したとしても、事業としては成り立たないから、大変な仕事なんだけど、コマーシャルマーケティングの煩雑さに比べれば、楽なもんだ」
話があっちにとんで、こっちに転がったとどうでもいいところを省けば話はこんなところだった。いくら詳しくといっても概略までだし、社内の政治的なことには入りこまない。無難な表面的なところまでしか話していない。アルファプロジェクトはリスクが大きすぎて、係わり合いたくないというのがはっきり見える。ジョンソンの立場を気にはしても、同期のよしみでにはならない。はっきり線を引いていた。
終始貧乏ゆすりの話好きに疲れた。プロダクトマーケティングの話だけで午前中が終わってしまった。

「昼飯に行くか、イタリアンでいいか」と言いながら、ついて来いって感じで部屋をでた。
まったくルーズというのか、昼休みは何時から何時までという規定があるはずなのに、誰も気にしているようには見えない。時間から時間のラインワーカではないということなのだろうが、ちょっとイタリアンに行ってといっても、帰ってきたのは二時過ぎだった。

また貧乏ゆすりで話が始まった。
「さあ、ここからが本題のコマーシャルマーティングだ」
「一言で言ってしまえば、今ある製品、これからリリースされる製品を間違いなく売ってサービスする体制をつくりあげるのがコマーシャルマーケティングの仕事だ。ときには相手先ブランドでなんてしかけもつくる。まあこんなのは、めったにない特殊なケースだから忘れちゃっていい」
「体制って言ったって、ピンとこないだろうけど、カタログから販売資料、代理店やSI政策も、価格体系も、展示会も、プレスリリースも雑誌の広告なんかも、昨日マーコムでいろいろ見てきたろう。あそこで作っているもの、すべてがコマーシャルマーケティングからの指示で作られていると思えばいい。まあデザインや体裁はマーコムの担当者にまかせるけど、何をどういう内容にするかはコマーシャルマーティングが決める」

「ここまではいいよな。昨日見たんだし」
「ところがだ、あれだけのマーコムがいても、マーコムには任せられない、オレたちがやらなきゃならないことも多い。営業拠点のセールスやアプリケーションエンジニア、代理店やSIのセールスやエンジニアに対するトレーニングやセミナーもオレたちの仕事だ。当然そこで使う教材や資料もオレたちが作る」
「競合や市場動向の調査もあるし、営業拠点からの要望や意見をまとめて、プロダクトマーケティングにフィードバックするのも大事な仕事で、次の開発仕様を決めるのはプロダクトマーケティングだが、そこにはコマーシャルマーケティングからのインプットがきいている」
「さっき、QAが製品をリリースしていいかどうかの最終チェックをするって言ったろう。実はこの作業と平行してベータサイトがある」
「懇意にしている工作機械メーカに頼んで、製品を客の機械に搭載して客先に使ってもらって、製品を評価してもらう作業、ベータサイトテストだ。QAはPDRとおりに製品が開発されていることと、事故につながりかねない欠陥がないことを確認するという、いってみれば後ろ向きの仕事だが、ベータサイトは、顧客の目で新製品のいいところも改善しなければならないところも、できるだけあらいざらし把握しようって作業だ。
この作業のためにコマーシャルマーケティングのなかにアプリケーションエンジニアが三人いる。アプリケーションエンジニアなら支店にいくらでもいるじゃないかと思ってるだろう。ところがあいつらとは財布が違うから、事業部としては使えない。もし、ベータサイトやカスタム機能も必要になるかもしれない案件に営業拠点のアプリケーションエンジニアを使ったら、営業支店から費用を請求されちゃうし、事業部としての市場開拓の自由度というのか能力がなくなっちゃう。任せられることなら任せちゃうけど、任せられることはめったにない。QAにしたってQA部隊にまかせっきりにはできない。主導権はコマーシャルマーケティングが握ってる。製品を安全という視点で判断するのがQA部隊ということだ」

午後もアメフトや野球の話にとんだり、日本の工作機械メーカやCNCメーカの話に飛んで、何の話をしているか分からなくなって、また戻ってで、コマーシャルマーケティングの概要が終わったとときには四時を回っていた。
四時を回ったら、ワイズウィッツがとたんに落ちつかない。
「今日はここまでで、明日は、ベンヤとアーティムにコマーシャルマーケティングの実作業の説明をしてもらうつもりだけど、それでいいよな」
出て行ったきり顔も見せなかったジョンソンが帰ってきた。どこでなにをしていたのか分からないが、時間を示し合わせて、早々にスポーツバーかどこかだろう。

話からだけでも実際の作業がどのように行われているのか、おおよその見当はつく。ただ、実作業の話になれば、ここまで組織立った事業部のことだから、聞けば感心することばかりじゃないだろう。わからないうちは、はいそうですかって聞いているしかないが、わかってくれば、じゃああれは、これはどうするんだという疑問が出てくる。

今日はここまではいいが、四時を回ったところで夕飯には早すぎる。日が高すぎて、帰る時間とは思えないが、事務所にいてもしょうがない。モーテルに帰ってシャワーでも浴びて夕飯に昨日聞いた赤い花にでもいった。毎日隣のダイナーってのも能がない。
郷に入っては郷に従えということなのだが、日があけて働き始めて、日が傾いて帰路につく。日本人どころか鶏より労働時間が短い。
2019/3/10