今度連絡しますから21(改版1)

<烏合の衆>
たかが一週間の出張、これといった課題をもっていったわけでもなければ、実務にかかわったわけでもない。それでもマーケティングとQAについての大まかな話は聞いてきた。聞いたことは、考えてみれば当たりまえのことだった。特別なことでもなんでもないが、実務で活かそうとするか、活かせる環境を手に入れられるかどうかで、ただの知識で終わるのか生きたものになっていくが決まる。先はわからない。それでも生きたものにしようとする気持ちさえ失わなければ、どこかで必ず活きるときがくる。

日曜日に帰国して月曜日、そんなことを思いながらいつものように出社した。たまっていた書類を整理して、雑務の処理をはじめた。一週間で何が変わったわけでもない。それまでと同じ事務所に同じ顔と同じ仕事。いつもと同じ風景なのに、見える景色が違う。事業部で聞いたことが今までとは違う視点をつくりははじめていた。視点が違えば、見ている風景が同じでも見える景色が違う。歴史や文化が大きく違う世界に遭遇するかして、同じ風景の違う景色に戸惑いを感じたことのない人には想像しにくいことかもしれない。同じ風景からも違う景色があるというのは、理屈で説明されてもピンとこない。それは問題意識をもっていなければなかなか気がつかない。たとえ気がついても、違いが意味していることがわからないことも多い。わからなければ、違いから今までとは違う次の一歩にはならない。ほとんどの場合、戸惑いへの対処で終わる。

事業部のマーケティング、市場との対峙のなかから必然として生まれてきたものでしかない。そこには個々の客をではなく、個々の客の総和を見るのでもなく、社会を市場として捉える文化がある。この文化なしには、マーケティングなどという組織を思いつくこともない。かたちながらのマーケティングはどこにでもあるだろうが、市場と対峙するという文化のないとろことでは、ありますというかたちだけのマーケティングしか育たない。

マーケティングが、マーコムが、QAがなんだというのが大まかにわかっただけなのに、リバースカルチャーショックは日立精機で三年ニューヨークに駐在して帰任したときより大きかった。事務所を見渡して歩き回って、親しい同僚と無駄口をたたきながら、どうしたものかと考えこんだ。あらためて会社がどうなっているのかを整理をはじめた。状況を把握しなければ、せっかく得た知識の生かしようもない。

陸軍士官学校を出て、どういう訳か日本にいついてしまった日本通のアメリカ人社長が、全く違う文化で固まった二社をまとめて合弁会社に持ち込んだ。熱意の塊のような人で、だてに士官学校はでていない。手段と目的を分ける術には長けていた。生まれながらの性格なのだろう、年齢や職責の上下にとらわれない姿勢と話し方でみんなを引っ張っていった。このみんなというのが日本人従業員だけでなく、アメリカの本社の社長や役員連中に日本の合弁会社の役員連中までだから、その豪腕さには敬服しかない。

合弁相手は超の上に超のつく優良企業の子会社。それも数ある子会社のなかでも、もっとも重要な役割を担っていた。自動車が走るコンピュータになるのがはっきりしてきた時代に、コンピュータを駆使した制御技術ではグループ内で突出したものをもっていた。多少時間がかかっても、合弁相手を足掛かりに親会社の自動車会社にもビジネスを拡大できる。手始めに合弁相手のいくつかの生産設備に制御装置の標準採用にこぎつければ、それだけでもデトロイト支店に続く、社内で盤石の立場を確立できる。そこにFordの十何年に一度あるかないかという車体工場の設備更新が重なって、実力をはるかに超えた営業実績が転がり込んできた。
こんなことが立て続けに起これば、誰でも気が大きくなって身の丈以上の夢を見る。これを機に日本の車体プレスメーカから始めて、合弁会社の親会社だけでなく、他の自動車関係の主要企業へも切り込めると思った。成長への条件は整った、あとはミッションに必要な人材をあてて、日本支社を一気に立ち上げればいい。

社長が描いた急成長のシナリオにもとづいて、中途採用だけでなく二年続けて新卒を採用した。ゴールデンウィークが明けて、入社したときには新卒が走り回っていた。総勢百五十人ほどの従業員のうち五年以上勤務しているのは五十人もいない。入社二三年の中途採用が五十人以上、そこに去年と今年の新卒がそれぞれ二十五人。入社早々、旧態依然とした老舗の工作機械メーカでは感じることのなかった熱気にあてられた。新しい組織に新しい人たち、どこも熱気が充満していた。ただ、頑張れば、一所懸命やればなんとでもなるという仕事ではない。熱意があったところで、それなりの技術知識と経験がなければどうにもならない。
いくらも経たないうちに、これでは機能しないのではないかと思いだした。三ヶ月を過ぎたころには、このままではどうしようもない、機能させるにはどうしたものかと考えだした。それというのも、転職組の実務部隊の間では、経験や知識の違いを乗り越えて仕事にはなるのだが、部課長連中の多くと新卒とはまともな会話すら成り立たない。

外資メーカが日本市場に参入するときに、決まって犯す間違いをしていた。支社を開設するまで、日本市場を日本の商社やセールスエージェントにまかせっきりにしてきた。そこに支社を設立して、商社や代理店に依拠しながらも、自社で市場開拓を進めることにした。そのためには、営業部隊とそれを支える技術部隊にアフターサービスを提供する組織をつくり上げなければならない。
ここで、経営が実務から距離のある大企業病が顔をだす。販売がなければ、技術支援もアフターサービスもいらない。至急の課題は営業部隊の構築と考えた。そこで、営業活動のマネージメントの経験のある人材を求めた。自然の流れで何の疑問も感じることなく、大手商社や専門商社から部課長を招いた。招くのはいいが、今いるところでいい立場にいる人たちが、アメリカでは大手でも、日本では名前も聞いたことのない会社においそれと転職などしない。窓際族か厄介ものをありがたく頂戴することになる。

商社上がりで技術が深く絡んだ「メーカ」の営業をできる人はほとんどいない。商社の立場では技術的課題を解決する当事者になることはない。問題があればメーカに振ってしまえば事足りる。たとえ技術に興味があって、詳細にまで踏み込んで仕事をと思っても、商社の立場ではできない。よく耳にする「文系ですから……」という逃げ口上のようなものが、立ち位置からくる限界と思考の根底にある。部課長になるまで、そんな仕事をしてきた人たちに、ある日突然、顧客の技術的な課題を解決する、問題提起解決形の営業の指揮をとれといっても無理がある。当人たちに自覚を求めて、たとえ自覚が芽生えたとしても、当事者たりうる知識も能力もない。多くは当事者意識に目覚めることもなく、勉強しようともしない。
六十近くなって大手商社からの転職してきたのと退官間際の元通産官僚が本部長として、その人たちの口利きで転職してきた四十代の元商社マンの部課長連中が技術の実務部隊も管理していた、というか管理することになっていた。

技術の実務部隊は同業他社や客の立場の企業からの転職組で、前職で得た経験と、業務を通して得た知識を持ちこんでいた。それを期待されての採用なのだが、残念ながら、培った個別の知識を汎用の知識に昇華する能力がない。同業各社で、似たような技術基盤の上で似たような製品を扱ってきたのだから、共通の技術基盤で共通の言葉で知識を共有できると誰しも思う。ところが各社各様に歴史もあれば技術開発の経緯も違う。汎用化するには個々の企業の独自知識を体得するのに必要な能力とは違う能力が要求される。個々の知識を融合して共通理解を作る難しさは遭遇した人でないと分からない。企業合併の度に似たようなことが起きていると思うが、企業の内部のことで、なかなか外部には漏れ聞こえてこない。

日本企業同士でも言葉の違いなどから意思の疎通に齟齬をきたす。そこにアメリカの技術用語が横たわっているから性質が悪い。同じことにいくつもの用語が飛び交う。それでも日本語と英語が一対一で対応していればまだしも、日本のメーカのこの機能は自社製品では、この機能とあの機能のこの部分をこういうふうに条件設定して、この部分をこう使えばいいというのもあれば、日本のメーカのこの機能は、あの機能の一部をこう使えば十分というのもある。
歴史なのか文化なのか、それとも、ただ地理的に近いからなのか分からないが、日本企業の製品はどれもこれも似たような、穿った見方をすればお互いに真似でもしあっているのではというほど似ている。それにひきかえ、アメリカの製品もヨーロッパの製品も、しばし匂い立つような個性がある。わが社のこれというコンセプトというのか主張がある。使い方次第では日本の製品より優れた能力があっても、それは使い方を熟知しての話で、似たような製品に慣れ親しんできた日本の技術屋には難しい。

技術の実務部隊の人たちは、それぞれ持ち寄った各社各様の言い方で言っても、その時々の話の流れから、相手が何を言っているのかほぼ間違いなく見当がつく。言葉がいい加減であっても、勘違いすることはまずないが、そばで聞いている人たち――部課長連中や新卒には分からない。
CNC(Computerized Numerical Controller)の原点復帰は、用語の不統一が招く混乱のいい例だろう。電源投入後、一般的には工作機械の全ての制御軸を「機械原点」に移動する。電源を入れただけでは、制御装置は制御軸がどこにあろうが、あったところを機械原点と判断する。判断するのはいいが、それでは、それぞれの制御軸が機械的にどこにあるのか分からない。
いい比喩が見つからないのだが、次のように考えれば分かりやすいかもしれない。朝起きて、東京駅を起点として作成された新幹線の運行システムの電源を入れたとしよう。品川駅の車庫に入っている新幹線を一度東京駅まで戻して、ここが運行の起点(機械原点)であることを運行システムに教えないと、新幹線は品川駅を東京駅と判断して動きだす。東京駅から品川駅に向かっているつもりで、品川駅から新横浜駅に向かうことになる。

この機械原点に戻す作業を、日本では次の言葉で表している。1)原点復帰(機械屋の言葉)、2)ゼロリターン(機械屋の言葉)、3)リファレンス点復帰(制御屋の言葉)。アメリカでは一般に「機械原点」をHomeと呼んでいる。そこから機械原点への移動がHomingになる。なかにはHomeをOriginと呼ぶメーカもある。
これだけでも知らない人が混乱するには十分なのに、原点には少なくとも二種類あるから性質が悪い。「機械原点」と加工プログラムを作成する際に設定する「プログラム原点」がある。加工プログラムによっては、その「プログラム原点」をいくつも設定することすらある。一つのことがいくつもの言葉で言い表され、それもどれもが、話の視点や使い方で違う。技術に興味のない、あるいは技術的なことに対して当事者意識のない人たちは、言葉として聞いたことがあるというまでで終わる。言葉として知っているだけで、それが何を意味しているのか説明できるまでの理解には至らない。

新卒には乗り越えなければならない高い敷居になるが、誰もが乗り越えなければならないと思っている。中途採用の実務部隊は、新卒に一日も早く戦力なってもらいたいと思っているから、その手助けの労をいとわない。問題は当事者意識に欠け、プライドだけはある部課長連中にある。格好をつけることに腐心はしても、業界に関しても、基礎技術についても、知識レベルがどうのというまでの知識がない。当然のこととして、率いる部隊をどちらの方に進めなければならないかというマネージメントとして必須のことが分からない。
熱意の空回りであるうちはまだいいが、日々無能であることが証明されかねない状況で、それでも人としてのありようで(人徳とでも呼ぶのか)実務部隊を引っ張ってゆける人はなかなかいない。

社長が熱意と気さくな人柄で、寄せ集めの烏合の衆の陣頭指揮をとってはいたが、実務部隊を率いて日常業務を遂行するマネージメントに人材がいない。烏合の衆が組織として熟成して機能するまでにはどうしても時間がかかる。ただ時間をかければ勝手に熟成するわけではない。どのように熟成させるのかの定見もないマネージメントが雑菌のような悪さする。幸いことに、実務部隊にも新卒にも、ことを始める熱意はある。熱意があるだけに下手にマネージメントに馴化すると熟成せずに腐敗する。無能な部課長に率いられた腐った組織の保身といがみ合い。起きるべきして起きることが起きていた。
2019/3/31