翻訳屋に7

しがらみのない競争社会に
九月一日、漠然とした不安があっても目の前の夢を追いかける足は軽い。西武新宿から丸の内線にでて赤坂見附で銀座線に乗り換えて新橋へ。もう六時前の電車でもなければ常磐線でもない。すさまじい通勤ラッシュにもまれて、初出社で普通の社会人になれた気がした。
総務で社会保険やなんらやの事務処理をしていたら、まだ?という感じで四十半ばの小柄な女性が入ってきた。制作部を仕切っている井上さんだった。井上さんに連れられて営業部から制作部に挨拶に回った。井上さんは、張り切りねーやがそのまま年をとった感じの、人のいい世話焼きおばちゃんだった。営業部にいっても、おおかたは営業にでていて何人もいなかった。営業部長に紹介されて、たまたま事務所にいる営業マン数人に紹介された。かたちながらに名前を言って、よろしくお願いしますと言ったが、もう話は聞いているという挨拶だった。工作機械や似たような産業機械なら安心してまかせられると聞いた話が、どこまでほんとうなのかという気持ちがあるのだろう、どんな仕事をしてきたのか訊かれた。

できる翻訳者がいればいるだけ仕事をとりに行ける。専門領域をどのくらい超えたところまでなら任せられるのか、どれほどの知識をもっていて、それを広げていけるのかが気になる。営業マンが多少無理してでもとってくる仕事をしながら、翻訳者が専門領域の周辺へと力をつけていく。実案件があるから仕事を通して勉強して成長できるという好循環の端緒は営業マンが開く。工作機械メーカでは営業マンは技術屋の使い走りのような仕事に明け暮れていたが、翻訳というサービス業では、営業マンが翻訳者という技術屋を養成しているようなものだった。

制作部のドアを開けたら、充満していたオーデコロンの匂いがもわっと溢れ出てきた。そこはまるでパートのおばちゃんのたまり場のようだった。交じり合った匂いがすさまじい。鼻毛がムズムズしてくしゃみがでてしょうがない。二十人以上のおばちゃんに挨拶をしてまわっていると、交じり合った匂いの発生源が一つまた一つと見つかる。平均年齢はどうみてもゆうに四十は超えている。それでも現役を競うかのように、これでもかと脂粉を漂わせている。
男だけのマシンオイルの臭いよりはいいにしても、まだ三十、おばちゃんの匂いに慣れてムズムズもしなくなるには早すぎる。誰も服装や格好を気にするような職場じゃないといことなのだろうが、しまむらかダイエーのバーゲンで買ってきたかのようなラフな格好であけすけな視線が怖い。それでもスーツにネクタイから開放されて、明日からはカジュアルでと思うと身が軽くなるような気がした。

一通り挨拶して、翻訳室で足立さんに引き継がれた。足立さんは、翻訳の日程管理をしながら、自身も英文和訳をしていた。癖の多い年配の翻訳者を相手にしているだけあって、男勝りのさっぱりした気性の人だった。年齢もちょっと上だし、大姐御という感じの人だった。足立さんには一年前に説教されていた。
話を聞いて、その後一度も顔を見せに来ないから、諭されて仕事を続けていると思っていたのに、一年ぶりにきて、また相談かと思ったらしい。
「まさか、あなた、来ちゃったの」
あれほど言ったのに、なんと救いようのない馬鹿がと呆れ顔だった。
呆れ顔のおかげで平静に言えた。
「足立さんの話を聞いて、一年考えちゃいましたよ。なんどもどうするかって考えたんですけど、日立精機で便利屋やってるより、足立さんのいう「ろくでもない仕事」のほうがいいって……勉強もできるし……」
「勉強って、あなた日立精機にいたほうが勉強でるでしょうに、どうすんの、こんなところに来ちゃって」
足立さんの話を聞きながら、一年前を思い出していた。

社長から「明日からでもいいですよ」と言われて驚いた。たいした時間も経たないうちに驚きがおさまって、そんなうまい話はないと、嬉しさが疑いに変わっていた。本当に明日から翻訳の仕事を?そんな甘い世界でもあるまいし、どうしたものか判断がつかなくなっていた。海千山千の社長にしてみれば、そんな迷いをみるのはいつものことで、なんということでもないのだろう。やわらかい口調で言われた。
「翻訳の仕事がどんなものなのか、いろいろ心配でしょう。翻訳室にコーディネータをしている足立さんがいるから、ちょっとよって話を聞いていたったらいいですよ」
社長が何を思って足立さんの話をと言ったのか、アシッドテストだとは思うが、本当のところは、いまだにわからない。足立さんの話を聞けば、「明日からでもいいですよ」と言われたところで、普通の人なら思いとどまって来やしない。来てもいいと言っていたのか来るなと思っていたのか、やわらかすぎる話の真意はわかりにくい。真意が伝わらなければ、考えていることとは違うことがおきてしまうこともある。話は単刀直入のほうがいい。それは下町の人間だからということでもないと思うのだが、人さまざまでわからない。

翻訳室の戸をたたいて、恐る恐るドアを開けて、小さな声で、すぐ左側に座っていた大柄な女性に訊いた。
「すみませーん、足立さんいらっしゃいますか」
何っという顔をして、「私ですけど」といいながら立ち上がった。
大きい。百七十センチはゆうに超えていて、女性には失礼だろうが、迫力がある。
「あのー、社長に足立さんに翻訳の仕事がどういうものなのか聞いたらといわれて……」
「何?、この若いの」という顔だったのが、すぐにああそうって納得したのか、話は解ったという、なんとも変な感じで椅子を勧められた。

大きな作業机で、右側は簡単なミーティングのスペースに使っているのだろう。小さめな椅子が二つあった。その一つに座って自己紹介とこれまで経緯を話した。
自己紹介まではよかったが、どうも経緯になったとたんに足立さんの表情がどことなくつかみようがなくなった。
「三十かそこらで翻訳屋になんてもったいない。翻訳屋なんて、ろくでもない仕事だし、いつでもなろうと思えばなれるんだから。日立精機でエンジニアなんでしょう。だったら絶対そこで勉強した方がいいって。こんな吹き溜まりのようなところに来ちゃダメよ」
「いえ、もうエンジニアじゃなくて、ただのクレーム処理の便利屋なんで……」
と言っても取り合ってくれない。
「まだ若いんだから、メーカで勉強したほうがいい。メーカにいなけりゃ勉強できないんだから。ここにきたらそれこそあなた、ろくでもない仕事しかないわよ」と繰り返された。
「ろくでもない仕事よ」と言われても、構造不況のなかで油職工になりそこなった者には、翻訳業が文化的な、ある意味、知識階層の憧れの自由業にみえた。足立さんにいくら説明されても、自分がしてきたこととあまりに違いすぎて具体的なイメージが湧かない。何を言われても、要は能力しだいの自由業ということでしかないじゃないか、いくら説得されても、「ろくでもない仕事」には見えない。たとえそうだったとしても、メーカの便利屋より、翻訳会社の翻訳者のほうがましだろうとしか思えなかった。

後日気がついたが、社長の「足立さんに聞いていけば」というのは、社長としては雇ってもという第一次試験のパスのようなものだった。足立さんが二次試験の担当者ということだったが、社長の「聞いていけば」というのを言葉どおりに聞いて、足立さんの説明をと思ってきてみれば、社長になんと言われてきたのか知らないけどいう姿勢で、説明というより「来ちゃダメ」という説得だった。
ここまでのアシッドテストもなかなかないと思う。それも組み上げたものではなく、社長がどう言おうが関係なく足立さんが自分の考えと気持ちをそのままだして、自然に出来上がってしまったもの。面接慣れして多少の免疫でもなければ、予想外の副作用も出ようってもんで、他の要因もあってにしても一年考えてしまった。

学歴が重い旧態依然とした社風のなかで、学卒であれば、余程の事でもなければ十年ちょっとで係長になれる。高専卒では優秀人でも定年間近に係長がせいぜいだろう。入社して十年もたてば、同期の誰が昇進していくのか、誰は昇進の可能性がないのかがはっきりする。そして、話のなかに出てくる役職名に陰湿ないやらしさを感じられるようになる。
真面目で仕事ができればいいが、そうでなくても、うまく学閥のなかでの遊泳術を心得れば、それなりの立場にはなれる。係長にでもなれば、得られる情報も違えば、経験できることも違う。一年も経てば、何でこんな人がと思っていた人でも、それなりの格好がついてくる。立場が人を作るというのが、まんざら間違っていないということを実感する。

そんなところで便利屋をしていたものには、実力だけの自由業である翻訳屋が魅力だった。学歴なんか何の関係もない。片足なくても、片目が見えなくても、国籍も人種も何も関係ない。個人が努力と能力だけで生きてゆく裸の競争の厳しい世界。昔ながらの軛の下で四苦八苦している者には、チャレンジさせてもらえる社会に見えた。
一年前に諭された時に、この子供のような気持ちを伝えたら、そんな夢のような仕事じゃないし、業界じゃないと言い聞かされた。「普通の社会というのか組織のなかでは生きられない、いってみればソシアル・ドロップアウトの集まりよ。どこにも行きようのない人たちの吹き溜まりで、あなたのようにしっかりした会社でエンジニアをやってる人がくるところじゃないのよ。わかる?」足立さんには申し訳ないが、勝手に思い描いた夢が先にたって話をすなおに聞けなくなっていた。

中学校のときから使っていた旺文社のエッセンシャル英和辞典をもってきた。それ以外なんの準備もない。中学生が使う辞書を一冊持って実力の世界に飛び込んだ。
翻訳室の入口近くに座っている足立さんの目の前が席だった。初日にベテランの翻訳者に紹介されたが、誰も苗字とよろしくというようなことを言ってくれただけだった。仕事に集中していて、それ以外には何の興味も示さない。いくら翻訳してなんぼの請負稼業。自分の仕事以外には興味がない。数日のうちに、ベテランの何人かが声をかけてくれるようになったが、それは翻訳に疲れて、ちょっと一休みの気晴らしのためだった。

数日後に親切なベテラン翻訳者に注意された。
「ダメですよ。藤澤さん、そんな辞書じゃ。翻訳者にとって辞書は命のようなもんですから、しっかりしたものにしなきゃ」
「みんなそれぞれ、辞書の流派みたいのがあって、私は三省堂派なんですけど」
といって、もうカバーがいたんでフニャフニャになった辞書を見せられた。

翻訳者をまわって辞書をみせてもらったら、研究社が数人、三省堂が数人、一番多いのは足立さんが使っている小学館のプログレッシブだった。足立さんが小学館に乗り換えた理由を説明してくれた。もうWebの辞書ばかりになってしまったが、それでも印刷された辞書はプログレッシブで変わらない。
見せてもらった辞書はどれもこれもボロボロだった。ちょっと恥ずかしそうに、「書き込みしちゃうから、買換えられないんだ」と一人が言っていた。そのとおりで、使い込んだ辞書は何度修理してでも使い続けることになる。そもそも製本があまいから、新しい辞書を買ってきても、半年もしないうちにカバーが取れてしまう。包帯を使ってなんどでも取れたカバーをつけて、角がまるまってアンパンようになった辞書を使い続ける。

人の出入りや辞書や資料の棚からは遠くて、落ち着いて仕事をできるようにとの配慮から、出来る翻訳者は部屋の奥の方にいた。一週間もしないうちに、能力の限界までの仕事量のある翻訳者もいれば、大した仕事を回してもらえない人もいることが分かった。出来る翻訳者は定年を過ぎた人もいれば、三十代の人もいたが、総じて四十代の半ばは過ぎている人たちだった。知らない世界で、人の仕事の評価をする能力などあろうはずがない。この「出来る」の本当の意味に気がつくまでには数ヶ月かかった。

たまに足立さんから数行の半端仕事をもらって、前後関係が分からないまま、用語を確認しながら翻訳をしていた。後になって分かったのだが、その半端仕事の多くが、レイアウトの工程で見つかった訳抜けの翻訳だった。仕事という仕事もなく、時間があれば書棚にあった専門書と用語辞典をみながら自分の用語集を作っていた。

半月ぐらいして、井上さんから「社長が呼んでいる」と言われた。仕事という仕事もしてないし、プロの目には半月もあれば十分だろう。翻訳者として使い物にならないからと解雇されるのを覚悟した。「明日からでもいいです」という社長の言葉は、裏を返せば、「明日はわからない」ということだというぐらいわかる。
ダメならダメでしょうがないと思いながら、恐る恐る社長室に入った。いつもの営業スマイルに穏やかな口ぶりで、「確か月給は二十七万円でしたね」と言われた。耳を疑った。一年前の話も二ヶ月前の話も給料は二十二万円だった。半月かそこらで給料が五万円上がった。
2018/9/23