翻訳屋に9

翻訳仕事の要件
転職先は、社名にもテクニカルと入っていて、技術資料の翻訳に特化していた。製造設備を輸出する日本の産業構造もあって、仕事の多くが装置や設備の取扱説明書や保守説明書の英文への翻訳だった。事業規模は日本で二番目の大きさだったが、翻訳の質はと問われたら、それは翻訳者次第でしょうというとしか言えない。クライアントにきちんとした翻訳を提供するには、仕事を請け負ってくる営業マンの能力から翻訳をきれいにレイアウトして書類に作り上げる制作の人たちとのチームワークが欠かせないが、翻訳の品質は一義的に翻訳者の能力と努力によって決まる。

小説とかエッセーのような人文系の書物の翻訳であれば、感情の機微を表現する文体が求められる。技術書類はその反対で、求められるのは簡単明瞭、誰が読んでも読み間違いが(少)ない文章でなければならない。できるだけ短い、単純な構文と文体しか使わない。たとえ日本語の原文が、直訳すれば仮定法過去完了のような言いまわしになりかねないものであっても、直截な構文にしなければならない。

文学部あたりで英語を勉強してきた人たちの目には、小学校高学年が書いたポキポキ折れた単調な文章が続いているように見えるかもしれない。個々の領域の専門用語や独特の言い回しがあったにせよ、翻訳に必要な英語の能力は平易な文語で簡潔な文章が書けることでしかない。誤解を恐れずに言えば、技術翻訳に求められる英語の能力はその程度ということになる。
その程度の英語の能力でいいのなら、誰でも翻訳できそうな気がするが、問題は日本語の原文に書かれている内容を理解できるかにある。国語教育が小説などの文学系に偏って、事実を事実として端的に書く教育がなされていないからだろう、日本の技術者の日本語は、分かっている人には分かるかもしれないという代物で、分からない人には分かるはずのないものが多い。
技術書類の翻訳現場で遭遇した主だった要件をリストアップしておく。この要件を考慮にいれていない技術翻訳解説書――大学の先生の書いた本に多い――は読まないほうがいい。読んで時間の無駄ですめばいいのだが、そんな本で得た知識は、知っていることが実務の世界ではじゃまになる。

1) 日本語の原文は、英語で書かれなければならないことのヒントに過ぎない
英語に翻訳する前に書かれている日本語の原文をまともな日本語に(頭の中で)書きなおす。書き直しは、日本語の一語が英語の一語に対応しているわけでもなければ、一文が一文どころか句や節、ひどいときには章をまたがることもある。不要なものを削除して、必要な情報を追加しなければならないことすらある。こうしてやっと翻訳になる。日本語への書き直しの良し悪しが翻訳の質を決める。

2) 日本語は読む人が主体で、英語はモノが主体になる
たとえて言うならば、和文英訳では、文体を変換して味噌臭さを抜いて、バター風味を添加する。英文和訳なら風味が逆になる。

3) 日本語は名詞が、英語は動詞のキーになる
日本語には万能動詞の「する」や「ある」がある。例として、「ペンキを塗る」は英語では、一語Paint(動詞)だけでいい。「グリースを塗る」は、Apply greaseあたりでPaint greaseにはならない。ドリルで穴を開けるはDrill(動詞)を使う。

4) 日本語では主語や目的語がなくても、いっぱしの文になる
装置に貼られた注意書き(Caution plate)に「調整のうえ、ご使用ください」とだけ書かれていたのに驚いたことがある。マニュアル中の記述のように前後関係から想像というわけにはいかない。事故の可能性を喚起する注意書きである。
この文章では、何を使う前に何を調整するのか分からない。さらに、手段も含めて、何をどのように、どこに合わせて調整するのかも分からない。あるものの位置を決められたところに移動するのか、圧力や温度や流量を所定の値に設定するのか、何もわからない。

わからないのをわからないと思うこともなく、原文に忠実に「Adjustment should be done before use.」など訳してくるのがいる。そんな翻訳者に遭遇したら、「何を使う前に何を調整するのか」と聞いてみたらいい。「原文にそう書いてありました」という返事が返ってくることを請け負う。
もし翻訳者から「この原文では、何を使う前に何をどのように調整するのかわからない」と問い合わせがきたら、その翻訳者は使える。ここで問い合わせを受けたクライアントが自分たちの日本語の問題を理解できるかが問題になる。つたない経験からだが、半数以上のクライアントは、問い合わせの意味がわからないで、問い合わせしてきた翻訳者を生意気だと、あるいは仕事のできない翻訳者だと思う。

5) 助詞には悩まされる
助詞のなかでも「で」は特に要注意で、書かれている文章の意味が分からないと、翻訳のしようがない。
たとえば、「AAAでXXX……」という文章があったとしよう。ここでAAAは手段のことも、あれば、理由のこともある。ときには期限のこともある。AAAセンサーでXXXの位置を確認するというものあれば、AAAスパナでXXX部品を締め付けることもある。AAAが十二月三十一日で、XXXが終わり、バーゲンの最終日のこともある。なかには、なぜ、ここで「で」を使うのか、日本語になっていない文章すらある。

「レマンで、彼女とグレートネックを回って」という文章があったとしよう。このときレマンがシボレーの車種であること、そしてグレートネックがニューヨークのロングアイランドの地名であることを知らなかったら、レマンがスイスのレマン湖になって、グレートネックはレマン湖畔のレストランにでもなるのか?

6) カタカナは日本語と考えた方がいい
そのまま訳すのは危険。BBBユニットと書かれていれば、BBBが一つの単体として機械装置から取り外せることを意味している。機械部品のように単体として取り外せなければBBB unitとは訳せない。
スリットに25mmピッチで直径5mmの穴が開いているという文章があった。スリットとは細長い空間のことで、そこには何もない。何もないところに穴がある?電話で問い合わせても何を言っているのか分からない。客まで出かけて物を見てみれば、細長い鉄板をスリットと呼んでいた。細長い鉄板をカタカナで書きたいのなら、スリットではなくストリップになる。

7) 不注意な文章が生み出す両義性には特に注意が必要
「グラウンドを取ってください」というのは、何を目的として作業しているのか分からないと、全く逆の意味になりかねない。
制御システムの信号レベルのふらつきをチェックするのなら、グラウンド端子からグラウンド線を「取り外」してくださいになる。制御システムを組み上げる作業なら、グラウンド線をグラウンド端子に「接続」してくださいになる。方や取り外し、方や取り付けで全く反対の意味になる。最低限の技術的な知識なしで機械的に翻訳したら、事故につながりかねないとんでもない英語のマニュアルが出来上がる。

8) 保守説明書のトラブルシューティング表
文章でだらだら書くのとは違って、表にすっきりまとめるのは難しい。保守説明書には必ずといっていいほど、トラブルシューティング表が載っている。表題には「現象」「考えられる原因」「対策」などと書かれているが、日本人の技術屋で、この表題に従って整然とかける人は少ない。五、六行目になると現象と考えられる原因がごちゃ混ぜになる。その下に行けば、対策も含めて何が何だか分からない記述になる。日本語で書き直したうえでしか英語に翻訳できない。

9) 翻訳の品質はクライアントの姿勢から
先に、「翻訳の品質は一義的に翻訳者の能力と努力によって決まる」と書いたが、クライアントにもそれなりの責任がある。それは、舌の肥えた客が料理人を育てるのと似ている。第一に、字面で翻訳する翻訳者を使ってはならない。次に、できる翻訳者がいい仕事をできる条件を提供しなければならない。条件には大きく三つある。第一、翻訳を依頼するときに、どのような製品なのか半日程度でもいいから、製品のデモを見せて説明したほうがいい。翻訳者にとっては半日分の仕事――収入を得られないが、それでも新しい知識を得られると思えば、時間を調整する。

第二、クライアントは、用語集と参考資料を提供しなければならない。新規の翻訳といっても既存製品か類似製品の取扱説明書などとの整合性を保たなければならない。保つためには、翻訳作業にかかる前に既存の取扱説明書に目を通して、用語や文体など確認する必要がある。製品はシリーズ化しているのに、取扱説明書の用語や説明が統一されてなかったら、客だけでなく社内でも混乱する。製品やその製品を作り上げている技術は一流であっても、総合的には三流メーカとしかみられない。

ここで一つ問題がある。四、五ページの翻訳に三百ページの既存の取扱書を読むことを翻訳者に要求するのは現実的ではない。翻訳者は翻訳した四、五ページに対する料金からの収入しか得られない。目を通さなければならない資料の大きさは、翻訳するページ数から制限される。翻訳者によっては、用語集はみても、せっかく提供してもらった取扱説明などの資料に目を通すのを億劫がるのがいる。そんなも見ている時間がもったいないという翻訳者は使ってはならない。

用語集がなければ、別途料金を払ってでも翻訳過程で作成してもらったほうがいい。用語集も既存の取扱説明書も、しばし参考にしようのない品質の場合がある。不適切な用語を整理して、取扱説明書も今回からは、新しい用語を使ってというクライアントとしてドキュメントの基礎作りをしなければならない。その余裕のないときもあるだろうが、いつかは手をかけなければならない。
いい仕事をしようとしている翻訳者に、不適切な用語の集大成のような用語集と既存資料を参考にするようにと要求はしてはならない。翻訳しながら用語集の改版を進めてもらったほうがいい。

10) 資格が仕事をしているわけではない
実務の世界では、翻訳学校や通信教育などの教材のような、字面で翻訳できる意味の通った日本語の原文はないと思ったほういい。書かれていることからでは何を言っているのか分からない日本語を読みきる技術的な知識なしでは翻訳できない。当たり前の話で、日本語で何を言っているのか分からないのに、まともな英語に翻訳などできるわけがない。これができると思って、しているのが巷の翻訳者のほとんどだと思っていい。

科学技術翻訳士などという資格をもった翻訳者の多くが言語から入ってきた人たちで、技術的なことには興味がない、あるいは知識が足りない。資格が仕事をしている訳ではないと言ってしまえば身も蓋もないのだが、資格をもっている人たちの仕事のほうが怪しい。
できる翻訳者で資格を持っている人はまずいない。個人的な経験からだが、資格をもっていないから、できる翻訳者とは限らないが、資格を持っている翻訳者は、まずできない翻訳者と思って間違いない。

11) ときには字面翻訳者も必要
散々字面で翻訳する翻訳者を使ってはならないと言ってきたのに、何を言い出すのかと思われるだろうが、ときには必要なことがある。実体験を例にあげればわかりやすいだろう。アメリカの制御システム屋にいたとき、イタリアの産業用コンピュータメーカのCNC(Computerized Numerical Controller)の英文マニュアルを日本語に翻訳しなければならなくなった。英文マニュアルは、みたところ、イタリア語の原文から英語に字面で直訳したものだった。日本製のCNCもアメリカ製のCNCも散々使ってきたにもかかわらず、実機を前にしていくら英文マニュアルを読んでも、表面的な操作までしかかわからなかった。

お世話になっていた信頼できる外注翻訳会社に頼んで、CNCをよく知っている、信頼できる翻訳者を紹介してもらった。会ったことはなかったが、業界では知られた翻訳者だった。アプリケーションエンジニアに頼んで、半日かけてデモをして、説明してもらった。
一週間後に翻訳者から相談したいと電話を頂戴した。翌日マニュアルと翻訳をもって事務所まで来てくれた。
「五十ページまで翻訳をすすめたが、英語で何をいっているのかわからない。普通なら、五十ページにもなれば、大まかにしても製品がなんなのかわかってくる。ところが、このマニュアルはいくら読み進めても何を言っているのか想像もつかない。このまま翻訳を続けられない。五十ページ分の料金はいらない。この仕事はキャンセルさせていただきたい」
「えっ、園山さんでも無理ですか?」
「テクニカルにいらしたときの藤澤さんの評判はお聞きしてます。このマニュアル、藤澤さん、訳せますか?」
恥ずかしかった。
「申し訳ないです。愚生の手にあまって、園山さんならと思ってお願いさしあげたしだいです。ご迷惑をおかけして・・・・・・」

名古屋にCNCに詳しい翻訳者がいることは知っていた。ただ翻訳の質は期待できないため、園山さんに頼んだ。わかってみれば当たり前のことなのだが、いい勉強をした。「できる翻訳者はやっつけ仕事ができない」ときにはやっつけ仕事をしなければならないこともある。
名古屋の翻訳者に電話して頼んだ。
ちょっと面倒な仕事なんだがと正直に経緯を伝えて、
「質はできるまででかまわないから、やっつけてくれないかな?」
「へー、藤澤さんも園山さんも、そりゃやっかいだなー。でも、なんとかしますから、原稿を郵送して・・・・・・」
一ヶ月もしないうちに、実に見事にやっつけてきた。読んでわかったような気になる日本語だった。
2016/9/30