翻訳屋に10

縛りようのない世界
いろいろな人たちが出入りしていて、どこまでが社員なのか外注なのか、何をする人たちなのか分からない。すべてが流動的で、仕事も流れてくるが翻訳志望者もくれば、中途採用の営業マンも入ってくる。営業マンの多くは同業や近隣の業界からの年配の人たちなのだが、どう見ても別世界からきたとしか見えない若い人たちもいた。
翻訳志望者は一目でわかる。どう見ても普通のサラリーマンには見えない。どことなく野暮ったくて、バリっとしているのはいない。そこに、たまにへんに決まっているというのか、いかにもイミテーションでございますって格好の若い人たちがいた。決まって営業マン志望の人たちで、それはもう「いでたち」とでもいうしかない服装だった。
会社でピンクのスーツやほとんど白に近いスーツを見たときには、驚きを超えたものがあった。日立精機ではマイカー通勤の若い職工さんも多かった。なかには、女性もののサンダルをひっかけてに見えるのもいたが、すぐそこは茨城という千葉県のはずれ、地元のやくざでもピンクや白のスーツはない。それも二人そろって、ピンクと白のスーツに白い靴、映画の世界でしかなかったものが目の前にいた。

それとなく前職を訊いて驚いた。想像したこともないだけに、最初何を言っているのか分からなかった。ちょっと前まで、新橋かどこかのキャバクラか「なにか」の呼び込みをしていた。
声を立てるのもはばかる翻訳室で、わけの分からない日本語の原稿との取っ組み合いに明け暮れているところに、その非日常の人たちの「なにか」の話は説明のしようもないほど新鮮で面白い。まじめに仕事の話で始まっても、いつのまにやら風俗と下ネタのなってしまう。一人ならそんなに続かないが二人三人とそろってくると、それはもう業界の裏話で花が咲く。内輪にいた人たちだけに、話が具体的で堂にいっているというか、外のものには想像もつかない描写に想像が広がる。何度か、今度撮影があるから連れてってあげようかと言われたが、話までだった。二度とない機会、惜しいことをした。

めったに事務所にはない。営業に飛び回っているのだろうが、馬鹿話を聞いているだけに、どこで何をしてるんだかとしか思えない。翻訳も営業もいつまで続くのかという人たちが多かったが、そこは日本で二番目の事業規模を誇る翻訳会社、しっかり顧客をつかんでいる営業マンが何人もいた。なかには仕事ができるというのを一歩二歩はみ出てしまって、海千山千のブローカーかのような口ぶりの人までいた。

翻訳業界の成り立ちからくる体質なのだろうが、会社と翻訳者と営業マンの関係がゆるい。客をしっかりつかんでいる営業マンにかぎって、翻訳会社からのしばりが弱い、というよりしばりきれないのだろう。それは運転手に車を提供しているタクシー会社よりはるかに弱い。翻訳会社のほとんどは内勤の翻訳者を抱えていない。会社の看板はあるが、翻訳するのは外注のフリーの翻訳者。フリーの翻訳者にしてみれば、勝って知ったる分野のおいしい仕事をコンスタントに持ってきて、支払いがしっかりしていれば、所属している翻訳会社の仕事でも、翻訳ブローカーからのものでもかまいやしない。

内勤の翻訳者にしても、社内の正式ルートで回ってくる仕事より、翻訳ブローカーが回してくる仕事の方の実入りがよければ、アルバイトに精を出す。
仕事をとってこれない営業マンやできない翻訳者は、所属する会社のシステムに乗らなければ飯を食っていけないが、できるようになればなるほど、会社との距離を自分の裁量で調整しだす。調整しだしたことに薄々気がついても、会社としては打つ手がない。注意しなければならないのは、大口の固定客を握っている営業マンが客をもって競合に鞍替えしたり独立しないことだけになる。巷の多くの翻訳会社が客をもって独立した営業マンが創ったものだろう。

ここで興味深いことがある。翻訳者がいないことには翻訳業はなりたたない。でも翻訳業として成り立つというのと翻訳会社として飯を食ってゆくのはちょっと違う。仕事をもってこれる営業マン――それがブローカーのような一匹狼のような人でも――がいないことには、翻訳者がいても翻訳にもならなれば、翻訳会社にもならない。(おいしい)仕事さえとってこれば、翻訳者の手当てはどうにでもなる。請け負った仕事を、知り合いの、こいつならという翻訳者に任せればいい。社名と住所と電話があって翻訳会社としての体面さえ整えられれば、いっぱしの翻訳会社になる。
モノをつくれるから売れる時代から売れるから作れる時代になって久しいが、翻訳業界はその始まりからして、翻訳の仕事をする翻訳者は裏方で、主体は仕事をとってこれる営業マンだった。

翻訳会社の営業マン、給料の多くは歩合制だから、割の合わない会社への忠誠など期待されても困る。スピンアウトしないまでも、正式に所属している翻訳会社と、その都度仕事を持ち込む別の翻訳会社の二股三股かけてもおかしくない。コストというコストもかからないブローカーのような営業マンが仕事をもってきたら、支払いに心配がないかぎり、翻訳会社は外注として請けるだけで、断る理由はない。クライアントからの支払いをどうするかさえ間違えなければ、翻訳会社のカンバンを背負って歩いている営業マンからの横流の仕事でも翻訳者としてはかまわない。

ある日、原稿を読みきれずに問い合わせしなければと、クライアントの担当者と電話番号を訊きに営業部にいった。ドアを開けようとしたら、内からドアがあいて、木崎さんがでてきた。木崎さんは四十後半のベテラン社員で、席は営業部の奥まったところにあるのに営業部でもなければ、製作部でもないという、どういう立場なのかわからない人だった。木崎さんが抱えていたマシニングセンター(工作機械)の取扱説明書が目に入った。
「あれ、木崎さん、それオレの。ごめん、今ちょっとかかえちゃってて……」
今頼まれても、手をつけられない。抱えている仕事にまだ一ヶ月はかかる。
「申し訳ないです」と言いかけて途中で止めた。どういうわけか、木崎さんの様子がおかしい。
ばつが悪そうに取扱説明書を持っていた手を下げて、どことなく隠すようなそぶりで、
「ああ、これ、うん、これはこっちので、いま製作部で、ほらレイアウトしてもらおうと思って……」
いつも大きな声ではっきりしている木崎さんが、はっきりしない。
「ああ、なんだ、もう翻訳終わってんだ。残念、直球ど真ん中なのに。その会社、まあ中堅どころで悪くないけど、機能と性能はもう一歩ってとこかな」
いつも回してもらっている仕事で手一杯だったから、得意とする分野の仕事でも誰かに回ってしまうのはしょうがない。ただ、それにしても木崎さん、なんなんだろうと気になった。

何日か経って、世間話がてらに足立さんに木崎さんとのことを話した。男勝りの足立さんが、えっという感じで、
「ああ、あれ、あれは木崎さんの仕事なのよ」
そう言われても、なんのことなのかわからない。足立さんも気がついて、
「木崎さんはもともとはというのかな、今もそうなんだけど、翻訳会社やってんのよ。知らなかった」
「知らなかったって、なんのこと?木崎さん営業部で管理かなにかやってんでしょう?」
「まあ、そうね。そうとも言えるけど、それだけじゃないの」
足立さんの口元が右上がりにねじれた。皮肉るときの癖だった。
「一人でブローカーのような仕事していたんだけど、事務所の経費も馬鹿にならないからってんで、社長との付き合いも長いしで、うちに机を置いてもらってるのよ」
「よくわかんないんですけど、うちの社員なんでしょう」
「そうよ、うちの社員なんだけど、ブローカの仕事も続けていて、仕事をとってくると、うちを外注の翻訳屋として使うこともあれば、知り合いの翻訳者にというときもあって、レイアウトだけうちにってもあるから……」
「ええっ、そんなのありなんだ」
何が普通かと訊かれても困るが、工作機械メーカで仕事をしてきたものには、とてもそれが普通とは思えない。

「もしかして、内山さんもそうなの」
広告代理店の営業を長年やってきた人で、仕事をしていた業界が違うからなのか、他の営業マンとは仕事も違えば、世間話も違っていた。話が違うのはかまわないが、技術翻訳だといってるのに変な仕事をもってこられて、何度かえらい目にあっていた。豚の運搬船とかビデオゲームの画面に表示される文言の翻訳もあれば、年賀状に使うイノシシの泣き声を十何カ国語に訳してくれだとか、どこからそんな仕事をとってくるのかと不思議でならなかった。
「そうなのよ。あの人、変でしょう?なにこれって、うちはテクニカルだっていってんのに、おかしな仕事ばかり持ってきて、ここでやるわけにもいかないから、外に振ってんだけど、誰も見つからないこともあって、藤澤さんに何回か頼んだじゃない」
「ああ、あれでしょう。豚の運搬船にはまいったな。なんだかこっちまで臭ってきそうで……」
「イノシシの鳴き声なんわかりっこないじゃない。上野動物園にでも行って訊いたらって突っ返しちゃった」
「内山さん、普通の翻訳、持ってきたことあんの」
「ありっこないじゃない。なにしろ持ってくるたびに、こんなのありなのってのばっかりよ」
「もううんざりして、なんどもうちはテクニカルって、クギをさしたのに、この間はビデオゲームでしょう。あれも出所が普通じゃないじゃない。ほらあなた電話して、慌てて切ったじゃない」
「中古屋なのかな、なんか得体の知れないブローカみたいだった。何を訊いても怒られるだけで何もわからないんだよね。しょうがないから、メーカに電話して訊いたら、あんたなにやってんだって、えらい剣幕で怒鳴られちゃった。版権とか商権とかいろいろあるんだろうけど、そんなこと、そっちでちゃんと話をつけてもらわなきゃ。こっちはただの翻訳屋なんだから」
「でもね、社長は金になればなんでもいいって、内山さんが広告代理店で営業マンしていたときのクライアントというのか商流というのを持って、今まで考えたこともなかったところに入っていけるって喜んでるから……。これからも変なの持ってくると思うけど、どうしましょうかね」
「もうやですよ、あんなの、オレにまわさないで」
「わかってんだけどね。社内であんなものを片付けられるのはあなたしかいないし、外注に振れば、こんなの割り増し料金もらってもお断りって、誰も請けちゃくれないし、ほんとうにどうしようかな」
「社長にこてっと言ってやれば。テクニカルの看板下ろすのかって」
「金にさえなればなんでもいいんだから、言っても無駄だと思うけど……、でも、そろそろうちの仕事じゃないってわかってきてるみたいよ」
「だって、どれもこれも畑違いっていうより、何これ?勘弁してくださいよってのばかりじゃない、訳したって何ページでもないのに調べることばかりで、いくらにもならないし。外注であんなの請けてたら、メシの食い上げになっちゃいますよ」

会社と営業マンと翻訳者が三者三様の立場でときには利益共同体として、ときには浮気をしてという、たいした縛りもない、持ちつ持たれつの自由業。そこにコスト意識はあっても翻訳された書類を評価する能力のないクライアントもからんで、それなりの翻訳業界が成り立っている。
インターネットが普及して地理的な制約がなくなったおかげで、それでなくても怪しい翻訳が地球規模に広がった。舌の肥えた客のいないところにまともな料理人が育つわけもなく、これでも日本食かと驚くものでも日本食で通ってしまうのと同じ理屈で、これでも英語か日本語かという翻訳をアメリカのグローバル化したドキュメント会社が作り続けている。
2018/10/7