翻訳屋に11

雑多な人たち
たまに取扱説明書の英訳の依頼があるだけの、たいしたビジネスにはならないクライアントの一担当者だった。納品された翻訳をチェックをしていたことから、担当営業マンとは何度か話をしたことがあった。接点はそこまでの、どこにでもいる三十前の工作機械の技術屋崩れ。営業マンが社長になんと紹介したのかは分からないが、なんの能力のチェックもせずに「明日からでもいいですよ」で始まった。
初めて会ってちょっと話しただけで能力など見抜けるわけがない。いくら能天気の自惚れ屋でも、買いかぶられているのではと期待するほど馬鹿じゃない。使い物にならないかもしれないのに雇ってくれた。出社してから、何で雇ってくれたんだろう、ろくな仕事もしていないのに、何で半月で月給を五万円も上げてくれたんだろうと気にしていた。

一ヶ月もしないうちに、そんなあって当たり前の戸惑いなど意味のない社会だと知った。どこでどう探してきたのか、見つけたのか分からないが、翻訳者志望の人たちが次から次へと入ってきた。二十代半ばの若い人もいれば、五十をまわった人もいる。経歴もいきさつもさまざますぎて、もう雑多としかいいようがない。そんな雑多な人たちにも、共通点が二つあった。所属していた社会では生きられないとはいかないまでも、先が見えてしまったか、生きたくないかで、なんとかしたいという気持ちがある。そのなんとかしたいという気持ちから翻訳者になれないかと考えて、翻訳会社に入れば、会社員になるようにほぼ自動的に翻訳者になれると思っている。自分も似たようところから始まって、やっと半人前にしても翻訳者としての仕事をしていた。その人たちの気持ちがわからないわけではない。ただわかってはいても、足立さんのように面と向かって諭す勇気はなかった。

旅行者だった人もいれば、電気工事程度の知識の技術屋や中学校の英語の先生が一念発起してというのもいた。総じて何をしてきた人たちなのか分からない人たちなのだが、そんななかに東大卒が二人もいた。新しい人が入ってくると、何かのときに教えてもらえるかもしれないという気持ちもあって、どんな経験をしてきてどんな知識がある人なのか気になる。
気になるのなら、気楽に声をかければいいじゃないかと思うのだが、ベテラン翻訳者はしようとはしない。ベテランとしてプライドなのか、そんなことを気にしていることに気がつかれるのがいやで、新人の方から何か相談にくるのを待っている。
誰が入ってきても気にしていたのに、東大出の二人には挨拶もこころなしかおざなりだった。どういうわけか、いつものような関心を示さない。何か変だと思っていたら、仕事が回ってこなくて暇している人のいい翻訳者が、おどけた口調で、
「いままで東大出ってのが何人もきたけど、うっとうしいだけで一人として使いものになるのがいなかった。ほらこんど来たのも、一人は精神科に通ってるって話しだし、もう一人はもうなにがなんだかわかんないみたいで、みんな引いちゃってる。なにしろ、社長東大好きなもんだから……。まあ、そんな社長への反発もあるんだろうけど、もうみんな東大出というだけで相手にしなくなっちゃった」

そんな垢抜けないオヤジだらけの仕事場に、アメリカ西海外に遊学して、お遊び程度の英語までしか分からない二十代半ばの女性が三人まとめて入ってきた。翻訳室が華やかになったが、雑多な仕事のあれこれはあっても、これといって任せる翻訳などあるわけもない。ここまで雑多な人たちを受け入れるのはいいが、トレーニングがあるわけでもなし、組織だった活用体制があるわけでもない。

八十年代の初頭、飽和した国内市場の限界から、多くの装置メーカが海外市場に活路を見出そうとしていた。海外進出には技術資料が欠かせない。英語のマニュアル類なしではビジネスにならない。急増する技術翻訳の需要を背景に翻訳業界は順調に成長していた。そこに、翻訳志望者が流れ込んでくる。たとえ翻訳には使えなくても、事務仕事でもなんであるから、よほどのことでもなければ、来るものはひとまず受け入れる。志望者が翻訳をと思っても、翻訳の仕事を回してもらえなければ、翻訳者にはなれない。
ベテランがやりたがらない、ほとんど雑用のような調べごとや半端仕事はいくらでもあった。誰もが嫌がって請けない仕事が、パチンコの一番下の穴のようなところに流れてゆく。穴の後ろには志望者が待っている。待っている人たちを十分に忙しくしておくだけの仕事量があった。

プロ野球でいえば、二軍というより三軍に近い。三軍で雑用から始まって、やっと半端仕事をもらえるようになる。三軍の半端仕事はやっかいなのが多い。一ページもあればいいほうで、数行だけでは前後関係など想像もつかない。これという専門を主張できる立場でもなし、来たものは何でも請けざるを得ない。ちょっとした用語から想像して、こんな書類の一部だろうと前後の文章とのつながりまで考えて翻訳する。半端仕事をこなして二軍になったところで、たまに二、三ページから十ページ程度の小さな仕事しかもらえない。用語をきちんと調べて、ミスのない仕事を重ねていって、数十ページの仕事にチャレンジさせてもらえるようになる。たまにこれならと一軍の仕事をもらいながら、実績を積み上げて、数百ページの書類一冊を任せてもらえるようになれる。
これでやっと翻訳者の社会の新参者としてのスタートラインに立てる。そこはスタートラインであって、プロとして禄を食んでいけるという確約などどこにもない。仕事をまわしてもらえるのを待っている立場から、営業の信頼を勝ち得てか、ご指名案件が抱えている仕事が終わるのを待っているようにならなければ、プロとして食っていけない。

いろいろな人が来て、以前の仕事との違いに戸惑っているうちに、数ヶ月もしないうちにおおかたいなくなった。いなくなる前にどんな経験をしてきたのか聞きたくて、一緒に昼飯に出かけたり居酒屋にまでいった。あっちこっちの翻訳会社に出入りして、こっちでブローカの相手をしてという海千山千の翻訳者くずれのような人もいれば、中学校の英語の先生のようにまじめを絵に描いたような人もいるが、聞けば聞くほど工作機械屋にいては会うことのない人ばかりだった。みんないつの間にかいなくなって、三年経ったときに残っていたのは一人だけだった。残ってはいても、仕事が回ってくるのを待っている状態で、いなくなるのは時間の問題にしかみえなかった。そこは残れる人だけが残る実力だけの世界だった。

二年目くらいだったから、八十三年だと思うが、それまでとは違う感じの人たちが続々と入ってきた。翻訳者志望の人たちにも明るい感じはないのだが、見るからにかび臭いとでもいうのか、大学の研究室から出てきましたという風貌の人たちだった。油と埃のなかで大声あげている機械屋とはまったく違う世界の人たちで、ちょっとした世間話にしても勝手が違う。
会社がもう一フロア借り足して、自動翻訳システムの構築に乗り出していた。まだまだコンピュータが電算室に鎮座していた時代で、成功すれば先見の明があったということなのだろうが、後になってみれば時代に先走りすぎていた。

言語学者やそれもどきの人たちにアシスタントというのか事務的な処理のまかせる女性のアシスタントまで雇って、日本語と英語の構文解析と技術用語の編纂を始めた。日常業務では接点がないし、フロアも違うから交流という交流もない。それでも一人二人と話をするようになった。聞いてみれば、雲をつかむようなというのか、海のものとも山のものともつかないデータベースの構築を進めていた。当たり前なのか驚くことなのか分からないが、そこにも技術系の知識のある人はいなかった。
技術資料の翻訳に技術知識は必須だと思うのだが、そうは思わない人たちが大勢の不思議な世界だった。

そんななかに消防士として何年か働いた後にアメリカの大学に留学した三十をちょっとでたばかりの言語学の専門家がいた。同年輩であることもあって、たまに昼飯にでては喫茶店でコンピュータ翻訳のことを聞いていた。
「そんなもん、本当にできるの」
「ぼくは構文解析しかわからないから、なんとも言えないけど・・・・・・」
「でもさあ、クライアントの日本語からしておかしいから、そんなものコンピュータに入力したって、わかりっこないんじゃないの」
「うん、そうだよな。その視点でみたら、とてつもなくコンピュータが進化して人間の知識に匹敵するデータとそのデータを処理するプログラムができなけりゃだめだろうな」
「だよね、あと何十年かわからないけど、それまでは翻訳で飯くってけるな」
「まず大丈夫だと思うけど」
「じゃあ、なんでこんなことろで……」
訊いてはいけないことかも知れないと思いながらも、気になってしょうがない。
「それが、しょうがないんだな。あっちの大学を卒業しても、日本の大学を出てないと、なかなか仕事がないんですよ。まして言語学だから中学や高校の先生とかってことなるんだけど、それは日本の大学で教職の単位をとってなけりゃだめだし……」
「まあ、ちょっとここで羽休めして仕事探さなきゃ。技術のことは何も知らないから、ここで翻訳ってのもないし。そのうち見つかるよ」
「ないってこともないと思うけどなー。うちの翻訳者で技術的な知識のある人なんか何人もいないから。みんな適当に字面でこなしてるだけだし、その気になればなんとでもなるんじゃないかな」
「うん、たまにその線もありかなって思わないわけじゃないけど……。適当にって、できるようでできないんじゃないかって、できなかったときの喪失感を思うと、ちょっと怖くて、考えちゃいますよ」

ある晩、二人で新橋の中華屋に夕飯にいって軽く飲んだ。ちょっと飲んだだけなのに、二人とも口が軽い。
「アメリカの大学って、入れてもなかなか卒業できないっていうじゃない。勉強大変なんでしょう?」
「そりゃ、日本の大学のようにはいかないよ。なかには優秀で余裕のある人もいると思うけど、もう体力の限界ってところまでいっちゃいますよ。バイトなんてありえない。そんなことしてたら、授業についていけっこない」
「でもさあ、そうだったら、日本の大学で勉強してから留学したほうが間違いないんじゃないの」
「うん、ぼくも、最初はそう思ったんですよ。でもねー、日本の大学での勉強とはぜんぜん違うし、日本で大学の勉強ってこんなもんだと思っちゃうってのか、それが当たり前だと体が学習してしまうと、向こうにいったときにその経験がかえってマイナスになるほうが多いと思うな」
「そんなもんなのかなー」
「三年目に郵政省の東大出のキャリア組みが官費留学できたんですよ。こっちはさあ、名のない田舎の高校出の貧乏私費留学じゃない。なんとも眩しくてさ、とてもじゃなけいど、付き合えないって思ったんだけど・・・・・・」
「すごいんだろうな、そんな人」
「そうなんですよ。すごいんですよ。まったくダメ。暗記すれば、なんとでもなる穴埋め問題は得意なんだろうな。自分でテーマ決めて調べて論文になったとたんに、中学生以下かな。あまりに暗記の能力を鍛えてきたもんだから、それ以外が萎縮しちゃたんだろうな」
「そんなんだから、役人になったんだろうけど。覚えることはできても考えることのできない、もう馬鹿ってことですかね」
「そう、馬鹿なんですよ。子供のころには、夏休みの自由研究なんかもやったと思うんだけど、なにもなくなっちゃてて。見てて可哀想だったんだけど、こいつが生意気でさ。キャリア組みの官費だったのを鼻にかけて偉そうなんだ。でも笑っちゃうんだけど、成績がどうしようもなくて、なんて報告しようかって悩んでんのさ。それみてだんだん腹立ってきてさ、お前の官費留学、俺たちの税金じゃないかって。そんなことで悩んでんだったら、役人辞めろっての。そのほうがみんなのためだって」

そこは、いろんな人がなんらかの夢をもってきて、羽を休めて夢を求めてまた飛んでいく中継地のようなところだった。
2018/10/7