今度連絡しますから30(改版1)

<悪しきを学ぶ>
パーソンズも馬鹿でもなし、このまま続けてもアルファが開発できるとは思っていなかった思う。ただ事業部の反対を押し切って始めただけに、自分から開発を断念するとも言い出せない。最低限のプラットフォームだけでもと、一縷の望みに託してだったろう。遅れに遅れても続けられるうちはいい。もし親会社が開発を断念する決断をくだせば、パーソンズの責任問題になって解任される。明日解任はないにしても、半年後はわからない。瀬戸際まで追い込まれれば普通の人なら、どこかで態度にでてしまう。パーソンズは違った。役員も含めて誰にも気づかれるようなことはなかった。そこは陸軍士官学校出ということなのかもしれない。

社長としてブレーンに相談したところで決断は自分一人でするものだし、何があっても全ての責任は自分一人で負わなければならない。その孤独感は、社長という立場になった人にしかわからない。パーソンズは率いた部隊の能力としようとしていることの重さを評価しきれなかったが、間違いなく社長だった。熱血漢を絵に描いたような人で、苦しくなればなるほど、陣頭指揮をとって状況を打開しようとしていた。

後日起きたことからわかったことだが、そのころパーソンズは新アルファプロジェクトとして開発を継続するため親会社と折衝をくりかえしていた。苦しい話し合いだったと思うが、それをおくびにも出さずに、熱血社長の姿勢のままプロジェクトを推進しようとしていた。ある日、いつものように廊下で、
「フジサワさん、もうそろそろユーザーズマニュアルを作らなければなりません。仕事量と必要なライターを決めてください」

既存機種のユーザーズマニュアルとページ数が大きく違うことは考えられないから、大まかなページ数は四、五千ページとみればいい。書かなければならない内容はおおよそわかっているが、何人で何ヶ月かかるのか、はじめてのことで見当がつかない。根拠もなしではパーソンズにプロポーザルのしようがない。ジョンソンとも相談して事業部のテクニカルライターに経験値を訊いた。
ワイズマンからの返事は、「経験のない人が、白紙の状態から図や表の作成もとなると、三人から四人で最短でも九ヶ月、余裕をみて一年は見たほうがいい」だった。ワイズマンのアドバイスが妥当なものなのか評価する知識がない。裏づけとしてワイズマンのアドバイスも添付しなければならなのだし、三人九ヶ月でプロポーザルをだした。どのみち、いつ物ができてくるかわからないのだから、少な目の工数でもかまいやしないと思っていた。
パーソンズから、なにもそこまで熱くならなくてもという指示が出てきた。
「しっかりしたマニュアルを作ってもらわなければ困ります。日本語がオリジナルで英語に訳すのですから、英語に翻訳することを前提として書いてください。未経験の人たちなのだから、四人で一年のつもりで、即プロジェクトチームを作ってください」
即チームといわれても、誰もかかわりあいたくないと思っているプロジェクトにおいそれとでくるのはいない。

候補はと考えることもない。村田を除けば、CNCの知識があるのは三人しかいなかった。名古屋から単身助っ人にきたはいいが、帰るきっかけをつかみ損ねていた片岡と、入社後の研修という名目で東京でいいように使われて、大阪支店に赴任できずにいた蔦谷に東京の宮本しかいない。
片岡と蔦谷は現状では支店の工数に入っていないから、抵抗は少ないだろう。宮本は福田部長が出し渋るだろうが、なんとか説得するしかない。最後の一人の候補が思いつかない。

最後の一人をどうしたものかと思いながら、まず片岡を口説き落とした。片岡がくれば蔦谷はついてくる。
「片岡さん、ちょっと相談にのってくれないかな」
「なんですか、また改まって、またろくでもないことなんでしょう。やですよ、藤澤さんの相談なんか」
「えっ、そりゃないだろう。いつも面白い話ばかりじゃないか。どう、今晩、原田さんも一緒に」
「まったく、何たくらんででんですか。オレじゃなくて、ツタやん(蔦谷)にいったらどうです。研修たって何してるわけでもないんだし、毎日暇してるらしいですよ」
「そうかツタやん、退屈してんだ」
ニタリ顔だったのだろう、
「えっ、ちょっと、オレが言ったなんて言わないでくださいよ」
「うん、わかってるって。片岡さんがツタやんを推薦してたからって」
「もう、これだから……」
「相談たって、ろくなことじゃないんでしょう。面倒なのはやですよ」
「いや、いっぱいやりながらでもいいんだけど、今聞きたい?」
「後で聞いたって、今聞いたって同じことでしょう」
「そうだよな。善は急げって、いいことは早く手をつけたほうがいいから」
ちょっと言いにくそうな素振りをして、
「もう半年以上になるけど、もう一年くらいでもいいし、いっそのこと東京に引越しちゃわない」
「そんなに長く、何なんですか。今だって何ってあるときもあるけど、何もないときも多いし」
「うん、そうだろう。そこでだ、アルファのユーザーズマニュアル書かなきゃなんないんだけど、手を貸してくれないかな」
アルファは避けたい。マニュアルなんか書いたこともない。乗らないのが二つ重なって乗るのが一つもない。
「なっ、なんでオレなんすか。マニュアルなんか書いたことないですよ」
「そうなんだよ。誰も書いたことがない。オレも翻訳はしたことあるけど書いたことない」
日立精機でタレット旋盤の取扱説明書を書かされたが、機械を使ったこともない新卒が雑用のように押し付けられて、機能説明書を書いたことがある。日立精機では設計が取扱説明書を書くもんだから、読んだところでどう機械を操作するのかわからない機能説明書になってしまっていた。そんなものユーザーズマニュアルとは呼べないから、書いたことがないというのは本当だった。

「それだったら、ツタやんの方が適任じゃないですか」
「うん、そうだよな。あいつは旋盤屋でマシニングセンターはちょっとだけど、でもツタやんはもうチームメンバーに入れてあるから、一緒にやろうや」
「なんですか、そのチームメンバーって」
「パーソンズに言われて、アルファのユーザーズマニュアルを書くプロジェクトチームを作れって、でチームなんだけど……」
「なんで、そんなに何人もいるんですか」
「そうなんだよ。うちのユーザーズマニュアルのページ数を数えたら、大体四、五千ページあるんだ。とてもじゃいけど、二人や三人で書ける量じゃない。それで四人のチームをつくらなきゃって……」
「どれも厚いのは知ってますけど、四、五千ページもあるんですか。そりゃたいへんだ。ところで、四人のチームって誰なんですか」
「なんだ、さっき言ったじゃん、片岡さんとツタやんと宮本さんにもう一人」
「ここでCNCを知ってるの、村田さんを除いたら三人しかいないから」
「頼んだよ。宮本さんと福田部長に話しにいくから、ツタやんに話してといてくんないかな」
こっちが行くより片岡から蔦谷に話してもらったほうが話が早い。
えぇって顔をしても、やらないと言うきっかけを失って、もうツタやんになんと切り出そうかと考え始めていた。
「こんな、ろくでもないプロジェクトに狩り出して申し訳ないけど、ツタやん引っ張ってきて」
と言って、福田さんの部屋に歩き始めてしまった。

こういうことは細かなこと抜きで決めて、みんなでできるようにやっていく工夫をしたほうがいい。すべてお膳立てしてもらって、お客さんのようにでは、端から主体性をそぐことになる。
作業場がどこかということも、いつからということも話していない。やるとなればそんなものどうにでもなる。徒競走でもあるまいし、みんなが揃って、じゃあ始めましょうということでもない。みんな仕事を抱えているから、抱えている仕事のめどが立ったところで、チームに合流してくれればいい。ただ、さあはじめましょうかといって誰もいないのも困る。最初は片岡と蔦谷と三人で始めて、そこに、遅れて宮本が、そして四人目がでいいじゃないかと思っていた。

福田さんの部屋で宮本さんの貸し出しを頼んだが、なかなかいい返事がもらえない。福田さんの立場になってみれば、村田さんの次に使える技術屋でそうそう手放せないのもわかる。わかりはするが、こっちも引き下がれない。パーソンズから福田さんを動かすのもありだが、最後の手段で使いたくない。妥協でしかないにしてもご自身の判断で貸し出してもらいたかった。
なんとも変な話で、組織上は福田さんの配下なのに、まるで自分の配下にいるかのように村田さんを切り札にだした。

「福田さん、お願いしますよ。オレはもともとコマーシャルマーケティングですよ。マーケティングにはプロダクトマーケティングがなくてアプリケーションエンジニアリングが兼任してきたじゃないですか。でもここにきて村田さんからオレにプロダクトマーケティングのお鉢が回ってきて、村田さんはその分、本来の仕事にまわせるようになったじゃないですか」
自分のカードを勝手に切り札に使われて、福田さんがあわてて、つなぎの言葉もでてこない。なにか言いたそうにもごもご言っているうちに、落としどころに引いた。
「今までだって、事業部とのやりとり、じゃずいぶんお手伝いしてきたじゃないですか。どうしても必要なときは宮本さんを抜いてもいいですから、主にプロジェクトチームの仕事で、必要に応じてアプリケーションエンジニアリングに戻るのもありでいきましょうよ」
福田さん、なんかだまされたような気がしてならないのだろうが、これで決まりだ。
宮本は村田と似たところがあって、自己主張がない。エンジニアリングの仕事を黙々とやってれば、心穏やかな毎日というタイプだから、福田さんさえ了承してくれれば、折をみて話しにいけばいい。やったことがないと言うだろうが、みんなと一緒にやればいいじゃないかと言えば事足りる。

夕方、片岡と蔦谷が言ってきた。
「いっぱい行きましょうか」
あれと思ったら原田さんまででてきた。四人で話のいっぱいに違いない。
飲み始めてすぐに気がついた。原田さんが説得して二人の背中を押していた。
「オレは日本で教育を受けてないからよくわからない。でも教育の結果は毎日見てる。田所さんと村田さんは日本の国語教育の犠牲者だと思う。二人から余計なことの書いてない意味の通る日本語がでてきたことがない。意味のない飾りが邪魔で言いたいことが見つからない……」
三人とも原田さんの話だけはいつも傾聴していた。
「ユーザーズマニュアルの作成は、学校の日本語教育の欠陥を補えるまたとない機会だから、チームに入れる人はそれだけでも幸せと思ったほうがいい」
「原田さん、ちょっと待ってよ。いい機会はいいけど、先生がいないんですけど」
「なに言ってんの藤澤さん。いつも言ってるじゃないの。英語に翻訳されることを前提に日本語を書きゃいいだけでしょう。日本語だから主語がないし目的語もない。そして読む人が主語だけど、書かれた日本語を英語に訳そうとしたら、伝えなければならない情報がきちんと入っているかどうかはみえるでしょう。そうやって書いていけば、何ヶ月もしないうちに、しっかりした日本語になってきますよ」
まあ、言っていることはわかるが、それは英語がそこそこできての話じゃないか、と思いはするのだが、二人の手前なんともいえないでいたら、
「このチームに村田さんが入ってないことが……。もったいないな、せっかくの機会なのに」
原田さんの一言は大きい。もう、チームに入るかどうかという段階は過ぎて、抱えている仕事をどう片付けてという話になっていった。

四人目をどうしようかと考えたが、もう経験者はいない。最後の一人のメンバーを入社二年目の技術屋から選ぶことにした。また福田さんにお願いしなければならないが、大阪と名古屋から一人ずつ借りているし、滞在コストを考えると最後の一人は東京からしかなかった。

書くのはマニュアル。内容はドライ。小説やエッセーの類ではないから、誰でも書けると思う人も多いだろうが、事実を事実として、誤読の可能性を極力排した簡潔な日本語を書ける人は意外と少ない。文章だけの説明では分かり難いから、表や図にまとめなければならないことも多い。簡明な文章を書けても表や図にまとめるとなると、説明しなければならないことを鳥瞰する能力までが要求される。

周囲の人たちからの話から、候補として去年の新卒が数人いた。同期のなかでは優秀なはずなのに、日常業務で話すも書類も要を得ないものが多い。マニュアル作成の即戦力として期待し得ないのではないかと心配だった。数人のなかから、これと一人を選ぶのにどう評価したものか思案した末に、人事に頼んで入社早々に書かされた作文を見せてもらった。ざっと読んで驚いた。どれも視野は限られているが論旨ははっきりしているし、言葉の使い方も普通でベテラン社員よりはるかにいい。なかには抱負を語る勢いが溢れていて、読まされたものすらあった。

一年前の入社したての彼らの文章と一年間の社会経験を積んだ彼らの文章の違いは一体どこからきたのか?何が彼らをして要を得ない文章を書かせるようにしたのか?入社したての頃は、実業の世界のだらしのない日本語に毒されていなかったとしか考えられない。大学教育までの日本語、決して誇れるとも思わないが、それでも巷の日本語に比べれば、まだまともなのだろう。社会人としての経験も知識もない人たちの方が、実務経験者より日本語できちんと意思表示できる。そこには、実務経験の過程で入り込んでくる意味のない常套句も言い回しもない。裸で真っ直に近い日本語があった。
社会経験を積んで、要らぬ知識や習慣を拾って、その知識や習慣で自分があると思っている人たちの多くが、極端に辛い味で味覚が麻痺したかのように、裸の真っ直ぐな日本語は無味無臭で、簡潔な日本語を受け入れられなくなっている。

入社して実務に携わる。これを人は実務経験と呼ぶ。そこで先輩諸氏のだらしのない日本語――偉そうにビジネスライティングなどという輩すらいる――を新卒が真似る。先輩諸氏と上手くやってゆくには、彼らの流儀に染まらなければならい。だらしのない日本語を習得することが巷で言う社会人として求められる。
まともに言葉を定義して使えない上司や先輩諸氏から、だらしのない日本語を拾って、入社したての頃はまともだった日本語がおかしくなってゆく。入社したての若い人たちには、学ぶべきものと学んではならないものを分別する能力がない。学んではならないものを学んで、それが常識となって、萌芽としてあったかもしれない分別する能力さえ失う。失った人たちのだらしのない日本語が実務の世界の共通語となっている。その共通語、できれば読みたくもないし耳にもしたくない。ましてやマニュアルに入ってこられちゃ困る。

チームメンバーは揃った。そろいはしたが、全員「入ってこられちゃ困る」を抱えていた。パーソンズが何かの時に日本人の日本語を評価したのが耳に残っていた。「日本人のエンジニアの日本語は、小学校五六年生レベルで、何を言いたいのか想像しなければならない」村田さんを指してのことなのだが、それは村田さんにもエンジニアにも限ったことではなくて、サラリーマンすべてに言えることだろう。

いざ書き始めれば、一ページを待たずに「入ってもらっちゃ困る」が浮き出てきた。そのたびに、英語への翻訳をしようとしたらという状況を、みんなで考えることにした。何度も何度も、しばしほとんど喧嘩に近い言いあいをしたあげくに、テクニカルライティングの心得を決めた。
「自社の独自な用語を避けて、できるだけ日本で標準的に使用されている用語を使う」
「できるだけ表や図にまとめて、文章を減らす。文章が減れば翻訳も減る。翻訳がなければ誤訳もない」
「誤訳を最小限に抑えるためにも、日本語版はスラっと読める、翻訳し易い平易な文章でなければならない」
「オリジナルの日本語がだらしなければ、翻訳はそれ以上にだらしのないものになる」
2019/4/28