翻訳屋に1

<潮時>
一九七二年に日立精機に入社して、技術研究所で新型旋盤の設計をしていた。試作ということもあって、チャレンジの連続で充実していた。一日も早く一人前の設計者になろうと、寮に帰っても勉強の毎日だった。そんなある日、所長に呼び出された。何のことかと思って所長室に入ったら、所長の横に課長も座っていた。こういうことは事務的にということなのだろうが、なんの前置きもなく言われた。
「藤澤君をセイキインターに推薦しておいたから……」
あまりにも唐突で、何を言われているのか分からなかった。
セイキインター(正式にはセイキ・インターナショナル)は日立精機の輸出業務を担当していた子会社で旧丸ビルにあった。名前は聞いたことがあるというだけで、何をしているところなのか、知らなかったというより興味もなかった。
所長の「推薦しておいたから」が何を意味しているのかわかるまでに、ちょっと時間がかかった。親切に指導してくれていた課長の顔を見てしまった。うつむいたまま何も言わないが、「そういうことだ。オレにもどうしようもない」という顔だった。
工作機械の技術屋になろうと思って就職したが、三年半で商社のような子会社に放り出された。これで技術屋としての道が閉ざされた。

三週間ほど前に課長に呼ばれて訊かれていた。
「藤澤君も、もう二年すぎてるけど、将来どういう仕事をしたいと考えているのかな。希望を聞かせてもらっても、希望通りということにならないこともあるけど……」
定型のアンケート調査だったのだろう。このまま勉強させてもらって一日も早くいっぱしの設計者になろうと、技術書を買いこんでは寮で読んでいた。何も迷うことはない。なんの気負いもなく答えた。
「このまま開発設計で鍛えて頂ければと思っています」
「そうだよな、藤澤君、がんばってるし、このまま行けば貴重な戦力になってもらえると思うんだ……」
「思うんだ」のトーンにひっかかりを感じたが、気にもしなかった。

春闘の最中に入社して、労務政策と御用組合の馴れ合いというのか茶番を目の当たりにした。それは新聞やテレビで見聞きしていたものとは違っていた。公の場ではお互いに公の立場をということなのだろうが、時と場合の立場からの本音と建前があるだけで、どちらにも口にしているような公共の視点はない。組合委員長のダラ話を聞くたびに、労組の人たちや活動家といわれる人たちは、いったい社会のどこをどうみて、何を考えているのか知りたいと思った。いくら聞いても、会社の敷地の片隅までの話で、彼らのいう社会改革などありえようがない。言っていることとやっていることの整合性など、あることの方がめずらしい。集会で労働歌「がんばろう」に続けて「同期の桜」が歌われたときは、驚きを通りこして呆れ返った。
七十年代の学園紛争を抜けてきたといっても、二十歳をちょっとでたばかりの高専出、多少社会問題に関心があったにせよ、しっかりした社会観や考えなどあるわけもない。素朴な好奇心にかられて、定時後に組合事務所に顔をだしていたが、それが旧態依然とした労務管理の視点からは組合活動に見えたのだろう。

転属になった子会社で技術課に配属されたが、技術とは名ばかりで海外から届くクレーム処理に明け暮れていた。子会社は、これから海外支社に赴任する人たちの研修(一通りの経験)の場でもあって、赴任前の営業マンが二人いた。一人は出向予定の海外支社の不振で、半年後には親会社に戻った。駐在にでるかでないかは状況次第で誰にもわからない。たとえ出たとしても一年かそこらで帰任ということもある。似たようなことの繰り返しでたいした刺激はなかったが、駐在にでるかもしれないということでは落ち着かない職場だった。
一年も経った頃から、ベテラン営業マンから昼飯のときや飲みの席で、
「藤澤君もそろそろどこかに行ってこなきゃな。このままいても……」
という話はあったが、まさか海外駐在なんてことになるとは夢にも思っていなかった。
ある日、課長から世間話がてらに、
「今ビザを申請してるけど、アメリカも不景気でビザが下りるかどうかわからない。でも下りたら行ってもらうから、そのつもりだけはしといて」
「はい」、とは言ったものの、そんなもの、どこか別の世界の話だろうと思っていた。それから半年も経って、そんな話があったことも忘れかかっていたある日、課長から、明日ニューヨークに駐在に行けといわれて、一週間で荷物をまとめて出て行った。

クレーム処理に明け暮れているより駐在の方がましだろうと出てはいったが、仕事がどうにもならない。工場で働いたこともなければ、機械に触ったこともないのが、ある日突然、顧客にいって見たこともない機械の修理や新しい機械の据付に試運転と顧客トレーニング、いくらがんばってもできるわけがない。英語もままならないのが、毎週のように、西はミネソタからネブラスカあたりまで飛んで、事故にならないほうが不思議なぐらいだった。なんとかしなければと必死でやってたら、三年後には甲状腺機能亢進(バセドウ病)で仕事どころではなくなった。薬で症状を抑えて帰国して、手術して四週間で駐在に出る前の職場に戻った。

駐在に出る前と何も変わることなく、海外拠点や顧客から入ってくる障害報告をもって、解決すべく工場中を走り回っていた。一年ちょっと経ったときに組織変更があって、丸ビルから我孫子の本社に勤務地が変わった。机のある場所が我孫子になっただけで、仕事はなにも変わらない。典型的な雑用係りで十年やったところで、何が残るという仕事でもない。旧態依然とした組織で、指示系統などあってないようなものだった。おかげでどこまでしかやれない、しちゃいけないという制限もなかった。ノンキャリアの絵に描いたような裏方仕事だが、それはそれで面白い。ただ何をどうしたところで日陰の存在でしかない。

ニューヨーク支社に駐在している間に、活動家仲間の一人がデュッセルドルフ駐在の辞令を拒否して解雇された。赴任する前からくすぶり始めていたが、駐在を終えて帰国したときは、東京高裁で身分保全の裁判が終盤にさしかかっていた。
活動家仲間には駐在員の仕事や生活がどのようなものなのか知っているのがいない。それをいいことに、裁判では会社側が真っ赤な嘘の言いたい放題だった。話が大きくなったり、小さくなったりはどこにでもあるが、そこには良識という自己規制がある。組織を挙げての真っ赤な嘘は、社会規範の許容限度を超える。事実は事実、好き嫌いではない。経験してきた駐在員の仕事や生活をありのままに証言した。駐在員上がりの証言で裁判の趨勢がひっくり返ってしまった。半分居眠りしていた副裁判官も、会社の主張「駐在員は将来の幹部候補である」は虚像だと認めざるをえなくなった。受け手のなくなった会社が示談を言い出して裁判が終わった。

事実とはいえ、会社に不利な証言してただで済むとは思っていなかったが、何も起きる様子がなかった。下手な左遷をすれば、また裁判になるかもと恐れていたのかもしれない。これ以上どんな左遷があるのか興味はあったが、そうそうに転職するしかない。
八十年代の初頭、古色蒼然とした業界の会社に身をおいていたからでもないと思うが、まだまだ終身雇用が常識で、中途採用はどことなくはみ出し者のイメージが付きまとっていた。職探しをしようにも、今のようにインターネットなどという便利なものはない。どうしていいのか分からないなか、イエローページで見つけて人材紹介会社数社に登録した。

面接で訊かれるままに職歴を伝えたら、「エンジニアではなく、チェンジニアですね」って言われた。確かに油職工になりそこなったチェンジニアでしかない。それでも、持っていても邪魔になるだけのプライドの欠片が残っていた。人材紹介会社からでてくる話は、職務経験を活かしてということなのだろうが、海外の機械メーカの日本支社のフィールドサービスだった。
運よく採用されたところで、うまくいくかどうかは、やってみなければ分からない。仮に、うまくいったところで、従業員二三十人の名前も聞いたことのない外資でニューヨークに駐在していたときと似たような仕事。なんのための転職なのか?
残っていたところでろくなことはないが、首になる可能性は少なくとも当面はない。それでも思い切って、チャレンジする価値や意味があるのか?いくら考えても、結論は同じだった。そんな転職ならしない方がいい。

構造不況の工作機械業界で、新しい技術の取り込みに遅れをとって、朽ちた名門と言われていた会社だが、未練がなかったといえば嘘になる。ただこの先、どう頑張ったところで、気の利いた便利屋にしかなれない。どうせ便利屋なら便利屋を本業とした業界に転進した方がいい。
技術屋を目指してなりそこなった技術屋崩れ、いまさら技術屋に固執する気はない。そう割り切ってしまえば、気持ちの整理もつく。転職してまで製造業にいたくはないし、技術屋(もどき)の仕事につく気もない。まだまだ製造業が輝いていた(ようにみえた)時代だったが、いつまでも製造業でもあるまいし、行き先はサービス産業しかないと漠然と思っていた。将来性ない会社に渡す引導が半分、機械屋になれなかった自分に渡す引導が半分だった。三十歳になろうかとしていた。
2018/8/26