翻訳屋に3

馬鹿にされながら
工作機械の技術屋をめざして入社しても、三年も過ぎた頃には、地方の営業所で営業マンとしての道を歩んでいるのもいれば子会社に飛ばされているのもいる。おぼろげながらも自分の立場を先輩や同期と比べて、就職したときに思い描いていたものとは違う景色が見えてくる。それが五年にもなると、個人の思いや努力にかかわりなく将来のありようがかなり鮮明になってくる。二十代半ばにして鮮明になってきた景色と折り合いをつけながらが高専出には苦しくなる。どうあがいたところで大卒のキャリア組の下働きのノンキャリアでしかないのが見えてしまう。二十年頑張っても技術の基幹に残れる可能性はほとんどない。十一人いた同期の大卒以上では実家の都合で名古屋に帰ったのが一人いたが、十六人いた高専出は半分近くが辞めていた。

入社丸八年、海外からのクレーム処理に走り回りながら、英語が関係したときの便利屋になっていた。八年間で何を得たのか、このまま続けて何を習得できるのか、いくら考えても何があるとも思えなかった。今風の言い方でいれば、大きくはずれたキャリアパス、そこから十年二十年、なにがどう転がったところで、気の利いた便利屋以外にはなれそうもない。忙しく日々バタバタしているのはいいが、将来を思うと、どうしたものかと考えざるをえない。
陸上の長距離選手でたとえてみればわかり易い。同期の何人もが日常業務をとおして技術屋として実力を培っているのをトラックの横で見ているようなものだった。それは周回遅れとは違う。周回遅れなら、なんとか追いつけないかとがんばりようもあるが、四年前に選手生命を絶たれて、トラックを走ることがなくなってしまっていた。

仕事を通して培えるものがなければ、自分の時間と金で将来に向けて能力を身につけるしかない。そこまではいい。問題はその先で、じゃあ、具体的に何をするのか、できるのかがわからなかった。勉強して技術に関係する資格をとったところで、仕事で技術に関係することに携われなければ技術屋にはなれない。マイコンが実用化され始めた時代で、コンピュータの勉強をしたかったが、したところで仕事で生かす機会がなければ、趣味のレベルで終わる。それでも勉強したかったが、安月給でコンピュータは高すぎて手がでなかった。

夜英会話の学校に通うぐらいしか思いつかなかった。世間知らずで他になんの案も思い浮かばなかった。ただ英語を勉強すればするほど、英語になったときの便利屋という深みにはまっていく。英語は嫌いだった。英語の勉強といってもたかが巷の英会話、要は暗記というのか慣れでしかない。そんなものに時間をかければかけるほど、論理的な思考能力を培うには邪魔になるとしか思えなかった。それでもやっておけば、いつか役に立つときがくるかもしれない、とでも思うしかなかった。それはかもしれないという、可能性のその先の可能性という程度ことでしかない。それでも他にこれといってやることが思いつかない。嫌いな英語を勉強せざるをえない自分がいやだったし情けなった。でもやるだけやってみるしかないじゃなか、できることはそれだけだろうと自分に言い聞かせていた。

我孫子の本社工場で働いている人たちのほとんどが、都心とは反対方向に住んでいた。我孫子駅から工場まで歩いて十分もかからないが兼業農家も多く、公共の交通機関を使えずにマイカー通勤しかない人たちや、我孫子まででてくるのがやっとという人たちだった。
我孫子から常磐線に乗ってしまえば、三十分かそこらで上野に着く。大利根を越えて取手やその先に住んでいる人たちでも、小一時間もあれば都心に出れる。通勤の便はいいから出れる人は出てしまう。この便のよさが、工場で働いている人たちの文化というのか関心や志向と都心で働いている人たちと生活感覚との違いを大きなものにしていた。

両親とも東京で十代目かそこらの根っからの下町の人間。東京しか知らないのが七十年代の学園紛争の洗礼をあびて、都心からたかが三十分と思ってきてみれば、そこには育った文化とはまったく違う社会があった。何が違うと訊かれても、表面的に見えること以上に志向も嗜好も違うし、なんとも言葉では説明しきれない。文化というのか人々の思考が違うということなのだが、それは実際に遭遇してみないとわからない。入社して数ヶ月も経たないうちに、周囲の人たちとの違いから、大げさではなくカルチャーショックにみまわれて精神的にまいってしまった。眠れなくなって開業医だった父親から睡眠薬をもらっていた。

七十三年のオイルショック以降、国内市場の停滞がはっきりして、海外市場の仕事が増えていた。もう現場の作業者が展示会や機械の据付で海外に出張することが一騒ぎだった時代ではなくなっていた。それでも時代が人々の意識、そして行動の違いを生み出すには時間がかかるのだろう、千人以上が働いていた本社工場なのに、夕方英会話の学校にという人はいなかった。
各駅停車の千代田線でも二駅先の柏に行けば、英会話学校の一つや二つあったろうが、多少なりともしっかりした学校と思えば都心まで出なければならない。マイカー通勤の人たちにも、もっと奥の在から通勤している人たちにとっても、仕事を終えてから都心までは苦しい。女性社員のなかには名の知れた女子大の英文科出の人たちもいたが、就職してからも勉強しようとしている人たちはいなかった。通い始めても、気持ちをしっかりもたないと続かない。

技術研究所で開発した試作機をシカゴショー(工作機械の展示会)に出展するために、試作課の三十半ばすぎの班長がアメリカに出張した。展示会が終わったあと、ひと月ほどニューヨーク支社で現地の状況をつぶさに見てきた。アメリカ出張がいい意味でのカルチャーショックだったらしく、研究所内のあちこちで土産話でもちきりだった。
それから一年ほどして、毎月発行されている社内報の片隅に、係長が英検の三級に合格したという記事が載っていた。工業高校出のノンキャリアが、残業つづきの毎日なかで独習した成果だった。それを社員の意識向上を目的として会社がプロパガンダに使った。係長の人柄からして、社内報には本人が望んだことでではない。ただ、それにしても三級。英語を一所懸命にと思ってる子供なら、中学校で二級というのもいる。
上野まで三十分かそこらなのに、海外が遠いという以上に都心が遠いい本社工場。そんなところから、週に二日都心の英会話学校に通い続けている駐在員崩れがいた。

英語に限らず、何かを習得しようとしても習得できないかもしれない。向上しそうな気配を実感できないと、継続する気持ちがなえて続けられない。なんどか似たような経験をすると、したほうがいいと思っても、また途中で終わるのではないかという負の記憶が顔をだす。やってもどうせだめなのだからと、始めてみようという気持ちにさえなれなくなってしまう。

そんな気持ちが沈殿して煉られて発酵して、こりもせずに習得しようとしている人の姿勢をやっかみの気持ちでしかみれなくなってしまう人たちがいる。なにをしてんだと口に出すのもいれば、口には出さないまでも、俗ないいかたでいえば、がんばっている人を馬鹿にしてみている。同じような気持ちのが何人か集まると、集団の文化のようになって、実らないかもしれない努力を続けている人を集団で見下して、ときには残業せざるを得ない状況をつくって邪魔までするようになる。

クレーム処理は定時後にしか手をつけないのも結構いて、定時近くなって説明してやるからちょっと来いと言ってくる。今日は時間がないから明日にしてもらえないかなどと言おうものなら、じゃあ来週にするか、来月でもいいぞといいだす。定型書式で問い合わせたのだから、書面で回答が常識なのだが、その常識が通用しない。きちんと書くのが面倒だから、口頭で済ませてしまおうという横着のしわ寄せがくる。
書面でもしばし何をいっているのかわからないのが口頭でとなると、聞いたことを一つひとつ確認しなければならないことが多い。ときには英語に訳さなければならないこともあって、くどくなる。それは言っていることがはっきりしないからであって、くどくしたくてしてるわけではない。こっちがわからなければ、海外からみたら日立精機のサポートはだらしなさ過ぎるという評価を受けることになるなど考えたこともないのだろう。説明を聞いているのか叱られているのか、うんざりしながらも放り投げるわけにもいかない。客先や駐在員に一度でわかる報告をしなければと、何があっても我慢するしかない。

英会話の学校に行かなければならない日の定時ちょっと前、早く机に戻ってと工場を急ぎ足で歩いていたら、一期上の大卒の先輩から声をかけられた。時間がないというのに、面倒なのにつかまってしまった。人事課教育係りの小間使い、工場内を巡回しては活動家の動きに目を光らせていた。
「おい、藤澤、いつまでそんな学校にいってんだ。少しはできるようになったんか、お前」
うるさい、余計なお世話だともいえない。
「なかなかですね。英語はどうしても時間がかかりますよ」
「お前が残業しないんで、みんなに迷惑かかってんじゃねぇのか」
「授業がない日には三時間残業して処理してますから、大丈夫ですよ」
残業しようがしまいが、業務そのものにはたいした影響がない。ただ毎日二時間残業するのが習慣のようになっていた。それが当たり前としか考えられない人たちが作る組織と文化、と残業代という生活費もあってのことだろうが、みんなだらだらと残っていた。
「そりゃ、お前の言い分だろうが……」
「いやー、そりゃないですよ。課長にもしっかり勉強してこいって言われてますから。海外の仕事はまだまだ増えるでしょうし、会社として支援するぐらいの気持ちがあってもいいんじゃないですか。オレは身銭を切ってますけど……。教育係りの先輩の仕事じゃないんですか」
日長一日何をするわけでもない。田舎の駐在所のおまわりさんの方がよっぽど忙しい。暇つぶしに、立場の弱い人をみつけてはどうでもいいことを言い出す。そんなのに付き合ってるほど暇じゃない。下手に出てるとつけ上がる。ここは話を切るためにもと押し返した。
「お前、そりゃ会社の方針で……」
うるさい、さえぎって言った。
「その方針を立てるのが先輩、教育係りの仕事じゃないんですか」
「安い給料から身銭を切って、オレは実家から通ってるからいいけど……」
返す言葉がでてこない。ろくに何も考えることもないから、世間話かいやみったらしいことしかいえない。馬鹿野郎って思って続けた。
「国際化の時代なんていってんだったら、先輩も英会話学校にでも通って、みんなに見本を見せたらいいじゃないですか。寮にいるんだから、小遣いはあるでしょう……」
こんなのが工場でも寮でも監視の目だからやってられない。教育係りということで新入社員だけは相手にしてくれるが、国立大といっても地方の体育学部かなにかの出、労務管理の使い走りしかできない。そんなのにつき合ってるほど暇じゃない。
「オレ、ちょっと急ぐんで、失礼します」

将来のことをいくら考えても、準備できることは限られている。それでも自分なりに将来を考えて、努力する以外にできることはない。日常生活に埋没して、何をしたところで、どうせだめだろうし、金も時間ももったいないと何もしなかったらどうなるか。五年十年経って、あのとき、もししていれば、続けていればという悔いだけは残したくない。たとえやり続けても、ものにならなかったにしても、やるだけやったのだからと諦めもつく。何もしないで後になってでは、諦めるにも諦められない。残るのは悔いだけ。悔のない人生などありっこないにしても、やるだけやったじゃないかという人生にしたかった。

悔いの少ない人生にしたいとは思うが、少ないということにさしたる意味があるとは思わない。チャレンジすれば、うまくいかずに悔いが残る。チャレンジはすればするだけ失敗して悔いが残る。チャレンジとは本来そういうもので、十回チャレンジして十回成功するようなものではない。そんなもの、できて当たり前のことをチャレンジと言っているにすぎない。失敗を恐れて、悔いのない人生をと、まともにチャレンジせずにいたら、長い人生でせざるを得ない状況に追い込まれたときに、チャレンジする能力を培ってこなかったことに気づかされる。悔いを乗り越えていくのが人生なのに、この気づかされる悔いは乗り越えらない。この悔いだけは避けたい。
2018/9/9