翻訳屋に4

夢のきっかけ
親父が引退したら住もうと思って買ったマンションが我が家の物置になっていた。ニューヨークに赴任するとき、独身寮を引き払って、持っていけない荷物をそこに置いていった。帰任してそこに一人で住み始めた。といっても夕飯は実家に立ち寄ってだったし、洗濯物はお袋が勝手にもっていってだったから、実家の離れに住んでいるようなものだった。実家もマンションも田無の駅から歩いて五分ほど、実家からマンションまでも五分ぐらいだった。マザコンというらしいが、面倒なことはすべて実家まかせで、銀行にもいかずにお袋から小遣いをもらっていた。もうすぐ三十というのに、いくら収入があって、いくら使っているのか考えたこともなかった。

銭勘定をしたことはないが、安月給にかわりはない。趣味はオーディオシステムを組み上げることと英語の勉強くらいだった。生来の下戸で忘年会など飲むことはあっても、自分から行くことはなかった。遊びに行くといっても吉祥寺か高円寺のジャズ喫茶で高専の同級生と一緒にだらだらしているくらいだった。

たいした額ではないが冬のボーナスをもらって、ちょっとリッチな気分になった。年末だし友人と二人して一端のサラリーマンらしく忘年会でもしよう、羽目をはずして遊びに行こうと吉祥寺で待ち合わせた。年末の街はそれでなくても人が多い。二人とも下戸で、人混みのなかを歩いても、どこにいったらいいのか見当がつかない。吉祥寺は勝手知ったる青春の街で、見て知っているだけにしても、どのあたりにゆけばどんな店があるのかわかってる。二人であの辺りにしようと歩いていくのはいいが、いったところでどの店にするかが決まらない。居酒屋でも焼き鳥屋でもスナックでもなんでもいいが、入ったことがない店はドアを開けるのが怖い。どこにいっても、度胸というほどのものでもないにしても、最後のここにしようがない。あっちにしようか、こっちはどうだろうかと、店の前までいってはみても、どのドアも開けられない。

それは、決めかねてというとはちょっと違う。決めかねてというのはいくつかの選択肢があって、どれにするかを迷っている状態をいう。どれにするかというどれという候補を決められない――決めかねての前の段階から先に進めない。何も決められない不甲斐なさに、歩き疲れて腹も減った。そこに前に一度入ったことのあるとんかつ屋「紋」が目に入った。南口を出て直ぐ右、三鷹に向かって歩いたところにあった。なんでこんな狭い道にバスが走っているんだという道に面した引き戸を開ければカウンター席がならんでいる。たいした金額ではないしにしても、使っちゃえという金をもって、とんかつ屋。そりゃないだろうという気持ちを、まずは腹ごしらえしなきゃといういい訳でおして入った。
安いとんかつ屋で、出てくるのは生活が透けて見える薄いカツ。それでも二人には十分なご馳走だった。普通だったら、飯の前にのどを潤してになるのだろうが、そこでビールの一本も頼めない。コップ一杯も飲めば真っ赤になってしまう下戸には、普通の自然な流れが分からない。定食がでてくれば、ガツガツ食べてすぐ終わってしまう。お茶をもらっても早々に出てゆかなければならない。

腹がいっぱいで落ち着いたはいいが、もう歩くのが面倒になった。北口に抜けてダイヤ街から一歩北に入ってコンパにいった。何もない、数年前に一度先輩に連れられてきたというだけで、開けるドアが軽い。席について、水割りを頼んではみたが、二人とも数杯飲めば出来上がってしまう。弱いなら弱いなりに時間をかけて飲む工夫もありそうなものなのだが、飲む機会のほとんどないものにはそんな知恵もない。

よっぱらって表に出て時計をみたら、まだ九時前。一万円札を四、五枚握り締めて遊びにと繰り出したが、どうすることもできない。どうすることもできないといっても、道で立ち尽くしているわけにも行かない。しょうがないからいつものジャズ喫茶にでもと思いながら、二人ともそれを口に出すのをためらった。せっかく忘年会と思ってでてきたのに、それじゃいつもとかわらないじゃないかって。人が行き来するところで立っていられないからというだけで歩いていているうちに、また南口にでてしまった。南口を出て道の向こうの右手に週刊誌や雑多な本しかおいていない立地だけでくってる本屋があった。どちらがということもなく、二人して時間つぶしのような感じで本屋に入った。あちこち見たが、手にとって見るような本はなにもない。

だらだらみていたら、英語のプロになるという、見るからに内容のなさそうな本が目にはいった。何気なく手にとって見ていったら、検定試験の解説があった。そこにTOIECで八〇〇点もとれば英語の黒帯と書いてあった。
斜め読みしながら、十日ほど前にクラス会で聞いた話を思い出した。何年か前に出たクラス会でイヤになって、二度と出ないと決めていたのに同級生の一人に会いたくて出かけた。社会にでて数年もすれば、キャリア組みの学卒の下で使いまわされる要員に過ぎない立場を実感する。就職してもうすぐ十年。半分近くは転職していた。若さにまかせた暴れん坊で、どうしようもないヤツまでが去勢された犬のような口ぶりになっていた。それが社会人になった証ということなのだろうが、そんなのが二十人も集まったところに何があるわけでもない。一緒にいるだけで生気を失うような気さえしてくる。

みんなそれなりに希望の欠片ぐらいもって就職したはずなのに、もう溶けてなくなってしまったのだろう。あっちでもこっちでも、せいぜい転職した先でどうのという、どんぐりの背比べのような話で盛り上がっていた。平和といえば平和なのだが、いくら聞いても誰と話をしても最後は、愚痴とも諦めともつかない話しかでてこない。聞いているだけも気がめいる。こっちが違和感を思えば、周りにも同じように違和感がある。集団のなかでの異物だった。自力で将来を切り拓かなければと思っているのが一人いる。それを感じれば、うっとうしいと思う。思って、思われて当然なのだが、場をたもっているだけでも疲れる。

高専では毎年二三人留年していなくなった。そこに上からも二三人留年して落ちてくる。留年の直ぐ先には中退がある。定員四十人のクラスなのに、卒業したときは二十六人にまで減っていた。そのなかで、三人が大学に進学した。入試のための勉強などしないから進学はきつい。もともと優秀なヤツしか進学など考えない。三人のうちの一人がキリスト教大学に進んで、その後アメリカに西海岸に留学までして、英語の研究者の道を歩もうとしていた。

こなきゃよかったと思いながら、うるさいのを適当にあしらって、英語の先生になった(と思っていた)のに話した。
「おい、康夫、どうした、元気でやってるか」
クラスには佐藤が二人いて、佐藤じゃどっちだかわからないから、下の名前で呼んでいた。どうみても元気があるようには見えないが、忘年会もかねたクラス会で、まさか「どっか具合でも悪いのか」とも切りだせない。
「いやー、何もないな。元気かって訊かれたら、元気じゃないな」
「なんだよ。康夫、どこの女子大で教えてんだ」
俯いていたところに声をかけられて、上げた顔がまた沈んでしまった。小さなしゃがれ声で、
「おれ、まだ仕事ないんだ」
誰が言い出したのか、羨望の念が半分、冷やかしが半分だろうが、どこかの女子大で英語を教えてるって話しになっていた。
「つくばにいさしてもらってるけど、いさしてもらっているだけで、ポジションがないんだ」
「そんなんでも学生からみると講師には見えるんだろうな。先生って呼ばれるけど、先生じゃないともいえないし、年からすりゃ学生ってのもないし……。ポジションを狙える位置にまだついていないんだ。いつになったら仕事につけるのかわからないまま宙ぶらりん……」
「なんだ、お前。留学までして、ポジションがないって、そりゃないだろう。そんなに難しいんか」
「いさしてもらってるって、毎日なにやってんだ」
「比較言語学だから、毎日じっと構文みてる」
「おいおい、もうすぐ三十だぜ」
「高望みしないで、どっかの女子大でもなんでもいいじゃねぇか」
「いや、そうはいかない、どうしても国立に残る」
いつも穏やかなというより、聞きようによっては芯のない話し方なのに、言葉が強いのに驚いた。優秀なヤツだっただけに、妥協できない苦しさもあるんだろう。
「英語の試験なんだけどさ。留学するとき、受けたんだろう?」
「ああ、留学だとTOFELというのがあるけど、社会人だったらTOIECだろうな」
「俺、一応英語が専門だけど……、TOIECは知らないけど、千点満点でせいぜい六〇〇点台じゃないかと思う」
「そんなに難しいんか?」
「英語が専門といっても、オレは比較言語学だから、よく知らない。オレはその程度だと思ってる」

他の同級生とは話が合わないで、ぼんやりしているところに自分の専門に近い話がうれしかったのだろう。いろいろ聞かせてもらった。
驚いたことにあれほど優秀でスポーツ万能だった佐藤が、神経痛の持病を抱えていた。
「俺、一日中座りっぱなしで構文見てるだろう。冬なんか着込んではいるんだけど、同じ姿勢でいるのは体によくないな。たまに動かさなきゃって思うんだけど、昔のようにはいかないな、もう」
「そりゃ、三十にもなれば誰でもよくないところの一つや二つはあるって。オレだって、ほら見えるか、バセドウ病で切った」
シャツを押し下げて、首の傷跡をみせた。
「みんな仕事で忙しいけど、だましだまし壊さないように無理してってしかないよ」
お互いの心配ごとを話していたら、周りの騒ぎから二人だけ離れて沈んでいた。せっかくの忘年会なのに、
「康夫、あっちの馬鹿話、行こうぜ。なにもないだろうけど、なにもないのがいいんだ。あればあったで面倒だし……」

英語の検定試験といえば英検しか思い浮かばない時代だった。TOFELだとかTOEICは海外に行ったか、海外となんらかの接点をもっている人たちしか知らなかったと思う。まして川を渡れば茨城県というところに本社を構えた工作機械屋、そんなもの聞いたこともなかった。
どんな試験なのかを知るためにもと受けてみた。一月か二月か忘れたが、寒い日だった。トイレにつかえるのが怖くて、着ていたダウンジャケットをひざ掛けにして、上半身が寒かったのを覚えている。

二ヶ月ほどたって成績通知がきた。準備という準備もなしで受けて七九〇点。都立を滑り止めにして高専を受験したが、落ちっこないとなんの準備もしなかった。まともに勉強をしてこなかったから、文法で点を落としたが、聞き取りで間違えたのは一問だけだった。五〇〇点もとれれば御の字と思っていたから、こんなテストだったのかとがっかりした。ぺらぺらしゃべっていても、英語に自信など微塵もない。それがほとんど黒帯?そりゃないだろう。そんなに天井が低いわけがない。帰国して英会話の学校に通い始めていたが、これから先どうするのかわからなかった。

この七九〇点が英語でなんとかという、ぼんやりと転職を考えるきっかけになった。
後になって、いろいろ分かってきたとき、自分がいかに何も知らないできたのか、そしてその知らないことが変な言い方になるが力になったのだろうと思うことがある。なんにしても、知っているに越したことはないが、知っているがゆえに一歩を踏み出せないことも多い。知らないということが、無謀かもしれないにしても、現状を変えてゆく力に、そしてそれが将来を切り拓くことがある。何をするにも、全て準備万端整ってからというのはありえないだろうし、知らないこともあながち悪いことではないかもしれない。夢があるからがんばれる。たとえそれが雲を掴むような話であったとしても。
2018/9/16