翻訳屋に5

出会い
有給をとって人材紹介会社に面接にいった。午後早い時間に赤坂で面接が終わって、そのまま帰ってもよかったが、久しぶりに都心で何をするでもない時間がある。田無から我孫子へは乗ってるだけでも一時間半以上かかる。工場の朝は早い。六時前の電車に乗って、始業時間の八時十五分に余裕をもってついて、社員食堂で朝飯を食べていた。残業やら英会話の学校へで、家に着くのは九時過ぎだった。歩く時間を入れれば、片道二時間の遠距離通勤、英会話の予習復習もあるから、自由になる時間は限られていた。せっかくここまで来たのだしと、セイキインターの顔をだした。行けば、特別歓迎されないまでも、顔見知りの女性がお茶ぐらいだしてくれる。

親しかった同僚と世間話をして、秋葉原にでも寄って行くかと丸ビルのドアを出た。出たところで、ニューヨークに赴任する前にマニュアルの翻訳でお世話になった翻訳会社の営業マンにばったり会った。久しぶりだったこともあって、立ち話になった。営業笑いの少ない、どちらかというとぶっきらぼうな話し方をする人だった。
「もう我孫子に移っちゃって、こっちにはめったに来ないんでしょう?」
「めったにじゃなくて、もうくることなんかないですよ」
「今日は会議かなにか?これから我孫子に戻るん?」
「今日はこれで終わりですよ。たまにはいいじゃないですか。せっかくだから秋葉にでもよってみようかと思って……」
秋葉原は、今特別なにをというのがなくても、行けば行ったで何か見るものがある。時間があったら行ってみようかというところだった。
「そうだよねー、ここから秋葉はすぐそこだけど、我孫子から田無に帰る途中でよるってのは大変だしね。方向も違うし……」
「藤澤さんがいなくなっちゃったんで、丸ビルで用事がすまなくなっちゃった。ほらこのあいだも我孫子で会ったじゃない」
「たいした客でもないのに、我孫子まで行きたくないな。丸ビルに誰かいないの……」
流れ仕事の営業マンがいるだけで、もう取説の翻訳や英文カタログを作れるのはいない。いないのを知ってて言ってしまって、なんともばつが悪い。それが世間話から一歩出た話への戸を開いたかたちになった。同僚とは話せないことでも、関係の薄い社外の人なら相談できることがある。
「もう転職って思って、今日は人材紹介会社に面接にいってきたんだけど、何がありそうな感じもなかったな。これからどうしようかと思って」
訊いたものか、訊いてイヤな気持ちになるだけじゃないかと思いながらも、ここまで言ってしまったんだからと恐る恐る訊いた。
「オレみたいな人間、翻訳見習いで雇ってもらえる可能性、ありますかね」
唐突だった。もうちょっとスムーズな流れのなかで訊ければ、と思っても、その類の器用さはない。
可能性など、ありっこないと思ってるから、それまでの世間話とは違って卑屈な小声になってしまった。そんな自分がイヤだった。口にしてしまってから、訊くんじゃなかったと思った。思った自分が恥ずかしかった。
「いいんじゃないかな、一度遊びにおいでよ……。社長と話してみれば……」
耳を疑った。無碍に断るものなんだと思っての、営業トークの返事だと思った。そう思っているのに、もしかしたらという気持ちもあって、明るい顔になっていたと思う。それを気がつかないほど鈍感な人じゃない。一日も早く日立精機を辞めたいとい気持ちから、どうしてもあせりがある。自分の底をみられたようで恥ずかしかった。

営業マンに頼んで翻訳会社の社長に都合をつけてもらって相談にいった。それまで会ったことのないタイプの人だった。ソフトスポークンというのか、話しがなめらかでひっかるようなところがまったくない。営業マンとして磨き上げてきたのだろう。作ったところのない自然としか思えない話しぶりに、かえって怪しいものを感じたが、そんなことを気にしていられる立場ではない。格好をつけたところでなにになるわけでもなし、営業マンに言った言葉をそのまま言った。
「オレみたいな人間、翻訳見習いで雇ってもらえる可能性あるものなのでしょうか?」
ニコニコしながら明るい声で、
「明日からでもいいですよ」
明日から?まさか、あり得ない話と信じられなかった。
「ありがとうございます。でもこんな人間が翻訳者として使い物になるんでしょうか。独りもので、実家から通ってますから、給料なしで、見習いとして使って頂ければいいです。勉強させていただけば、それで十分です」
「そうもいかないでしょう。勉強するためにも、最低限の収入がないと。世間並みには出しますから心配しなくていいですよ」
ますます信じられない。油職工崩れの便利屋で翻訳の経験もなければ、まともな英語の教育も受けていない。なぜ、そんなに安請けできるのか、分からなかったというより怖かった。

それから一年近く経ったが、仕事が見つからない。会社には見切りをつけていたし、技術屋になりそこなった自分にも見切りをつけていた。活動家仲間の身分保全の裁判もあって、一日も早く転職したいが、出て行く先がない。人材紹介会社から、ここはどうでしょうって紹介されても、面接に行く意味のあるところはなかなかない。似たような会社で似たような仕事はしたくないというだけで、決して高望みしていたわけではない。ここならもしかしてと行っては見ても、話を聞いただけで先に進めたいと思うところはなかった。どうしたものかと考えるたびに、一年前の「明日からでもいいですよ」が頭に浮かんできた。

夕方九段下にあった英会話の学校に行き続けていた。勤務地は我孫子、いくら急いで行っても一時間目が終わるころにしかつけない。週二日は授業で残業できない。残業が当たり前のところで、ほとんどの人が毎日きちんと二時間ずつしている。みんなと同じような残業時間でないと気まずい。週三日は三時間残業して辻褄を合わせた。
それにしても田無から我孫子への通勤がきつい。英語の勉強をしようにも通勤だけでへとへとになってしまう。将来のことを考えれば、なんとかして勉強も出来る都心の会社に転職して、英語の勉強を続けなければという思いがつのった。

一年以上前の口約束でもない「明日からでもいいですよ」、まだ生きててくれよと思いながら翻訳会社の社長に会いにいった。一年間も音沙汰なしで戻ってきての話、反古にされていて当たり前、それをなんとかとすがる気持ちだった。
「申し訳ございません。明日からでもという、身に余るお話だけに、一年以上考え込んでしまいました。一年も前の話なのですが、まだ有効でしょうか?」
何をいまさら言いにきたんだと、けんもほろろでもおかしくない。煮え切らないヤツだと叱られるかもしれない。叱られてもかまわない。見習いで雇ってもらえばいい、それだけの気持ちで恐る恐る訊いたら、一年前と何も変わらない明るい口調で言われた。
「ええ、明日からでもいいですよ」
拍子抜けした。なんで雇ってくれるのか分からなかった。一年前と同じことを言った。
「翻訳の仕事ははじめてなので、仕事ができるまでは給料なしで勉強させて頂ければいいです。実家から通ってますから、メシくらいどうにでもなりますし……」
「金もないと勉強もできないでしょう。多くはないでけど、それなりには出しますよ。月二十二万円でどうでしょう」
使い物になるかならないか分からないものに、二十二万円、びっくりした。

社長との話が終ろうかとしていたとき、社長に紹介してくれた営業マンが横目にみながら廊下にでていった。ちょっと話をということだろうと思って廊下にでたら、隣のビルの喫茶店に連れて行かれた。
「よかったね。早く辞めてこっちにきちゃいなよ」
「オレみたいのが勤まるんですかね。経験ゼロですよ」
「心配ないって。誰だって最初から翻訳者なんてのいないんだから」
「でも、英語は素人ですよ」
「そんなもん関係ないんじゃない。技術がわかってれば、後は実践で大丈夫だよ。みんなそうなんだから」
そんなに簡単な世界じゃないと思うのだが、その世界にいる人がそう言うんだからそうかもしれないとしかいえない。
「大丈夫だって。オレが藤澤さんが翻訳しやすい仕事を取ってくるから、他の営業マンだって、藤澤さんがくれば安心して仕事をとりにいけるって思ってんだから。心配ないって」
そんな世界であるはずがないと思いながらも、期待と不安がくるくると回って不安が消えていった。

日立精機は昔ながらの日給月給だった。手取りは、基本給+勤務給+残業手当ー所得税や各種社会保険料―組合関係費―闘争積立金―住宅組合掛け金(社員寮に入るための組合に入らされた)で決まった。年末年始やゴールデンウィークのように祝祭日が続くと勤務給が減る。十年勤めて、八月の手取りは、忘れもしない一二八、〇〇〇円だった。田無でうろちょろしてもそのくらいの金額にはなる。

九月一日の初出社ということで口約束で決めて、新橋まで歩いて日本橋の丸善にいった。時間がないのならいざ知らず、二ヶ月以上の時間があるのに、なにもしないで体一つで出社はできない。せめて工業英語の本の二冊や三冊、目を通しておかなければならないと意気込んで書棚をみていってがっかりした。どこまで使えるのか怪しいノウハウ本のようなものから、アメリカの工業雑誌かなにかの一部を拝借して分かったような解説をしている本や「工業英語」という月刊誌まであった。どれにするかと迷うが、どれがいいからというのではなくて、どれなら捨てることにならないかもしれないというものしかない。書名は忘れてしまったが、これなら使えるかもしれないと、岡地栄の辞書の体裁の本を一冊買った。

辞表を出しても、引継ぎやらなんやらで一ヶ月はかかる。ごちゃごちゃするのもイヤだから六月から七月の一ヶ月半かけて引継ぎも身辺整理もと思った。八月から翻訳会社にいけるが、ちょっとぶらぶらしていたかった。
父親に言われて、ちょうどいい機会だからと中国のパッケージツアーにのって中国を見に行った。海外からの観光旅行を受け入れ始めたばかりで個人ではいけなかった。数十年遅れた観のある中国、予想していた通りだったが、上海から北京に飛んで、桂林をみて香港に抜けたときは、中国とのギャップのせいもあってか目が開かされた気がした。香港の昼と夜を実感するまで、アジアで欧米のような消費文化は日本にしかないものだとばかり思っていた。化粧品や嗜好品をみれば、東京より香港の方が、旅行者の目にみえる上っ面だけにしても、豊かに見えた。日本が特別じゃない。欧米の製造技術と生産管理体系を持ち込めば、どこでもというといいすぎにしても、日本と遜色のない製造業と消費文化がなりたつ。八十二年の夏だった。
日立精機に十年勤めてもらった退職金六十万円をパッケージツアーの三十九万八千円と、土産やらなんやらで全部使ってしまった。思い出もなにもかももすべて、きれいさっぱりそぎ落としてすっきりしたかった。

翻訳屋に?不安はあっても自信などあろうはずがないはずなのに、たいして不安もなかった。生まれながらの能天気、一所懸命やればなんとかなるだろうって、辞表を出した。辞表を出すのがこれほどすっきり、さっぱりした気持ちにさせてくれるのを知った。
十年いたが、思い残すことがなにもない。これには自分でもちょっと驚いた。あまりにさっぱりしすぎていて、もしかしたら精神的な欠陥があるのかもと心配になったほどだった。同じものを食べ過ぎて飽きてしまったというのでもなければ、もうまずくて二度と口にしたくはないというのとも違う。親しくしてくれた先輩や同期もいたが、誰も彼も、どれもこれも刺激という刺激のないぬるま湯のようなもので、あってもなくてもかまわない、というよりなくなっても気がつきもしないというものになっていた。 反省することは多いが、後ろを向いてちゃ前に歩けない。思い出に生きる年でもなし、あるのは先だけとの高揚した気持ちもあって、ぐずぐずした人間関係も含めて過去を切り捨てた。
2018/9/16