翻訳屋に13

<いい加減が丁度いい?>
まじめに仕事をしているように見えるエリックに、いつ見てもだらだらしているようにしか見えないセアー、たとえ同じ仕事をしていても、同じようには評価されない。とっつき悪さもあって、セアーに相談にいく人はほとんどいない。そこにネイティブスピーカーが三人入ってきて、セアーが浮き上がった感じになった。
多少金も貯まって、ちょうどいいタイミングだったのだろう、セアーが本来の生活?に戻った。一年くらい世界を回ってくると言っていなくなった。エリックがオレも昔よく行ってたけど、帰ってきたとき、またアパートと仕事探しが大変なので、もうする気はないと言っていた。セアーの自由さへの羨ましさが半分、三十過ぎても流れ者の気持ちが抜けないセアーに対する、どことなく哀れみの響きがあった。

入ってきた三人がエリックやセアーに負けず劣らず個性的だった。
まず、昨日除隊してきましたという感じの、筋肉の塊のようなターナーが来た。海兵隊で体を鍛えてきたのはいいが、一昔前のアメ車のように燃費が悪い。一緒に昼飯に行くたびに呆れた。大盛りを二人前食べても収まらない。店からでてみんなが事務所に戻るのに、独りでマクドナルドによっていた。確かに日本の飯屋の一人前はアメリカの半人前にもならない。そんなので、食った気にならないのはわかるが、毎日こんなに食っていたら食費だけでもと、いらぬ心配までしてしまう。
生まれも育ちもテキサスで、絵に描いたような雲ひとつ感じさせない底抜けに快活なアメリカ人だった。体は大きいし、声も野太くてよく通る。どうみても強面にしか見えないし、話を聞いてもデリカシーなどいう気の利いたものがあるとは思えない。ろころが、人は見かけによらないという見本のようなヤツで、病的に細かな神経の持ち主だった。こんなやわな神経でよく軍隊でもったもんだと不思議でならなかった。

いつも字面で訳した意味不明の英文を前に固まっていた。真面目なだけに、わけのわからない英語をそのままにしておくことが出来ない。原稿と取っ組み合いながら翻訳していて、ほっと顔をあげると、数メートル先に助けを求めているターナーの顔が目に入る。なんだまたかと思いながら、翻訳室を出て行くと、ちょっと遅れてターナーが翻訳を持ってでてくる。二人して製作部に行って井上さんに和文原稿を借りて、翻訳をみていく。

リライトもなんどもしていれば、誰が翻訳したのか聞かなくても想像がつくようになる。外注の翻訳者なら翻訳室でチェックもできるが、内勤となるとそうはいかない。すぐそこに意味の通らない文章を書いた翻訳者がいる。当初、そんな可能性など考えることもなく、ターナーが相談にきた。あわてて、ターナーを抑えて、製作部に行って井上さんに相談した。
和文原稿をざっとみて、図を描いてターナーに概要を説明して、あとはターナーに任せるしかない。翻訳をやり直す余裕はない。ターナーも馬鹿でもなし、こんなことをしていれば、こっちの仕事に支障がでることぐらいはわかる。相談するのを控えなければと思っても、わけのわからない翻訳を抱えては、助けを求めてくる。ターナーが、独りでわけのわからない英文を見ていても、どうすることもできない。
なんどかこんなことを繰り返して、ターナーの複雑な性格がわかってきた。軍のように体を動かすことでは脳の一部が主役で陽気なアメリカ人なのに、こと文章や人間関係になると脳の別の部分が主役になって、人がかわってしまったかのように繊細なターナーになってしまう。陽気なアメリカ人のままで、こんな翻訳のチェックなどしようがないじゃないかと言えばいいじゃないかと思うのだが、繊細な人の気持ちを気にするターナーにはできない。
誰の目にも明るくて声も大きいターナーしか見えない。それが災いして、英文を前にして精神的に追い込まれているのを、追い込んでいる翻訳者の誰も気がつかない。そんな仕事、いつまでも続かない。

エリックもセアーもある意味悪ずれしていて、翻訳を見ながら、適当に赤を入れていく。英文をみて意味がわからなくても、日本語の原文を読めないから、まともな書き直しなどしようがない。もし、原文が読めたら、そしてまじめに書き直したら、全部書き直しになりかねない。英語の字面でこのくらい赤を入れれば、リライトした格好がつくというころで切り上げる。赤を一つも入れないとリライトしたことにならない。よくも悪くも適当にというのがリライトの原則だった。それをなんとも思わないルーズさがなければ勤まらない。

キャシーというハーヴァード大学を卒業してジャーナリズムの世界にいたのが入ってきた。セアーの話では結婚問題でトラぶって日本に逃げてきたらしい。キャシーの両親はナチスに追われてアメリカに亡命したユダヤ人で、結婚相手はユダヤ人でないと問題になると言っていた。セアーはマンハッタンで、キャシーはボストンで生まれて育ったユダヤ人だった。
エリックの話しでは、セアーは裕福な家庭に生まれて、両親の離婚でスイスの寄宿舎つきの学校に追い出されて、あんな性格になっちゃたんだと、なにがあっても同情的だった。もう母親の遺産が転がり込んでくるのを待っているようなもので、自分から何かをしよう、しなければという気持ちには、オレだってなれっこないよ、と羨ましさ半分で面倒なセアーと付き合っていた。

キャシーは典型的なアメリカの知識人階級のユダヤ人だった。社会問題でも経済の問題でも何を話しても小気味いい。それでもエンジニアリングはおろか算数になると、もう忘れてしまっていた。技術的なことはわからないし、興味もない。それでも集中力の違いなのだろう、仕事の質もさることながら、なにをさせても信じられないくらい速い。タイプライターが追いつけないで壊れてしまうのではないかというほど速かった。ターナーよりはるかに言葉には敏感なはずなのに、いい加減な翻訳に合わせる器用さも兼ね備えていた。今になって思えば、その器用さ、限られた情報から適当に文章にまとめるジャーナリズムの世界で培ったものではないかと思う。一緒にするなと叱られそうだが、やりましたというだけのリライトの上っ面のいい加減さ、わかった範囲でまとめ上げなければならないジャーナリズムに通じるところがある。誰もすべてを知ってるわけでもないし、完璧などありえようがない、できるまでで、できたころまでいいじゃないかと先に進めるしかない。

そんなゆるいところに、ブエノスアイレスで生まれてロンドンで育ったアルゼンチン人女性のリディアさんが入ってきた。日本にも長くて日本語も流暢で聞いている限りでは何人なのか分からない。米軍基地で軍と軍属向けの新聞『Stars & Stripes』の編集をしている人だった。スペイン語と英語の母国語に加えフランス語もドイツ語も流暢だった。
内勤の翻訳者に言語学者のような人たちがいた。インド人と日本人でどちらも日本語と英語だけでなくドイツ語もフランス語も流暢にあやつった。リディアさんが入ってくるまで、そんな二人の言語能力を知る機会もなかった。翻訳者やチェックにつかれて三人が世間話を始めると信じられない言葉の遊びが始まる。話の途中で誰かが言葉を替える、たとえば英語からドイツ語に替えて話をしていて、また誰かが違う言語に替える。なにを話しているのか、たまに日本語か英語になったときにはわかるだけで、周りのだれにもわからない。冗談かなにかで三人で笑っていても、周りにはただの音としての言葉でしかない。転職してあちこち歩いてきたが、このときほど何ヶ国語にも精通した人たちには会ったことがない。

リディアさんのものすごい言語能力と言葉に対する真摯な気もちは、だらしのない翻訳のチェックには困りものだった。几帳面すぎてターナー以上にいい加減な仕事ができない。自分がチェックして訂正した英文を自分で読んで何だから分からないのを許せない。筋の通った、英字新聞に載せてもおかしくない英文に書き換えなければ気がすまない。
何を言っているのか分からない英訳の意味を翻訳者に訊いても、翻訳者も自分自身何を書いているのか分かってないから、まともに答えられない。何日もしないうちに、日本語の原稿を渡せば、図を書いて何が書かれているのかを、つたない英語にしても説明してくるのが一人いることに気がついた。いい加減な翻訳をした翻訳者が直ぐそこにいるのに、訊かれても困る。ターナーとの時と同じように製作部にいってになった。

リディアさんの手にかかると、取材メモから記事を書き起こすかのように翻訳した英文が影も形もなくなってしまう。英語を勉強したいものには厳しいいい先生だが、字面で翻訳している、それでいいと思っている翻訳者にはうっとうしいではすまない、いちゃ困る人だった。内勤の翻訳者がリディアさんのチェックを断りだした。リディアさんのチェックは外注の翻訳者の仕事と内勤の一人に限定された。

一年ほどロボットをはじめとするファクトリーオートメーションの月刊誌のコラムの翻訳をしていた。メーカの技術屋の文章とは違って、文章はこなれている。するっと読めるのだが、いざ翻訳しようとすると、どう読んでもつじつまが合わないところがあちこちにある。装置のことを言っているのか、使い方なのか、それとも?というのが多すぎて、まとめて問い合わせするのだが、ライターもどこかで取材してきたものをまとめただけで、書いてあること以上のことが聞けることはほとんどない。ざっと目を通すにはいい記事でも、技術屋の視点でということでもないだろうが、内容を吟味すればするほど、読む価値のあるものなどほとんどない。それはまるで電車の中吊り広告をみて、買ってみればという週刊誌に似ている。

取材先に確認してもよろしいでしょうかと訊いたら言下に断られた。それは記事の問題ではなく、あんたの知識が足りないからだと、まくし立てられたことがある。まあ、立場はわかるが、あんたよりはよっぽどわかってて訊いているんだけどと言っても始まらない。英語でよくわからないというのは、英語が不得意でということで済むが、日本語でわからないとなると、書いた人の知識と知能に疑問符を突きつけるようなことになりかねない。そんなつもりは毛頭ないのだが、日本語で書いたものの不明瞭な点を問い合わされて、平常心で受けられる人はことのほか少ない。翻訳者がわからなければ、英語でのコラムがいい加減なものになってしまうことぐらい想像はつきそうなものなのだが、難しいらしい。

ある記事に「一、二台売れたようだ」というのがあった。どこにでもある普通の日本語、普通の人がさっと読んで何も感じることがないだろうが、翻訳というプロセスに入ると、この日本語からでは英語に訳しきれない。「一台」かそれとも「二台」かということで引っかかる。十数台とか百何十台というのならまだしも、一台か二台ははっきりさせないと記事にならない。その上「売れたようだ」というのも「売れた」のか、それとも受注に向けた商談の最終段階に入っているのか、せめてその程度ぐらいまで書かなければ、記事の信頼性が問われる。そのまま訳したら、予想通りリディアさんにしかられた。しかられて当然だと思うが、当然とは思わないマスメディアが驚くほど多い。それは業界紙だからということではない。毎日目にする全国紙にもこの類のあいまいな記述が呆れるほどある。

厳しい先生で、原文に引きずられた翻訳をしては、その都度「馬鹿!、このあいだ教えたじゃない」としかられた。リディアの「馬鹿!」で鍛えられた。英語でそこそこまともな文章が書けるようになったのはリディアさんのおかげだった。いつもどこかに「ちょうどいい」でいいじゃないかという自分がいる。それでもときには「ちょうどいい」でいいわけないだろうと冷ややかな自分もいる。
2017/10/14