翻訳屋に22

<勉強しなければ、あせる気持ち>
翻訳屋を夢見て入社したはいいが、出社しても仕事がない。何もしないでのんびりしていられるような性質じゃない。書棚を見ては参考になりそうな本と持ってきて、机にすわって読んではいいが、間が持たない。こんな言い回しがあったのかと、辞書をつくりはじめたが、時間つぶしにもならない。時間から時間への仕事でもないから、仕事がなければ事務所にいなければならない理由はない。でも、それは一人前の翻訳者ができることで、新米はいつどんな声がかかるかもしれないと期待して待機しているしかない。たまに数行の半端仕事をもらっては、わけもわからずに一所懸命翻訳してが続いていた。

こんなことやっていて翻訳者になれるものかと心配したが、何ヶ月もしないうちに数百ページの書類一冊の翻訳を任せてもらえるようになった。まとまった仕事をさせてもらえるようになったのはいいが、こんどはいくらやっても仕事が途切れない。自分で切らない限り、土日もなれれば祝祭日もない。それこそ朝も晩もなく、やればやるだけ仕事が流れてくる。ろくにやることもないのんびりした溜池から、忙しさの滝つぼに落ちたような感じだった。

このまま実戦で経験を積んでゆけば翻訳屋にはなれそうな気になってきたが、バタバタやっていればどうにかなると思ってしまうのが怖かった。仕事をとおして勉強できることから得られる知識や能力だけでは、将来何をしてゆくにも十分でないことを日立精機の十年で経験していた。日立精機なら定年まで一従業員というのもありかもしれないが、そこは翻訳屋。最後は独りの自由業、頼れるのは自分の知識と能力しかない。
社会人になって何が変わったとも思えないが、ニューヨークに駐在して一人でサービスに走り回った経験が大きかった。自分はいったいなんなんだ、何ができるのか、何ができるようにならなければ、それも独りでという恐れに近い気持ちがあった。独り家業の翻訳屋に転職して、その意識が鮮明になった。自己超克などと大それたことではないが、三ヶ月、半年経ったときには、ささやかなものにしても、それまでの自分と何か違わなければならない。自分の時間で将来にむけた何か、たとえそれが無駄なことであったとしても、していないと落ち着かなくなっていた。

日立精機にいたときは、英語の勉強といっても、何をなんのためにという目的もなく、ほかにやれることがないから、英語でもやっておこうかという程度だった。それが翻訳屋に転職したとたん、何を何のためにという目的がおぼろげながらもはっきりしてきた。
翻訳屋になっても、まだ「おぼろげ」かよと思うのだが、先に進めば進むほど分野が枝分かれしてきて、漠然と英語ということでも技術ということでもなくなって、英語のどこを、技術の何をという、当たり前のことがぼんやりにせよみえてきた。いつまでたっても、目標をここという一点には絞り込めない。それどころかあっちの一点、こっちの一点といくつもある一点のどれもこれもが、かなりの面積を持っていて、近づけば近づくほど焦点を絞り込めない。終わりのない、いくつものマラソンをしているようなものだった。
それは、人生のなかでもっとも大きな転換点だったと思う。趣味や教養でも海外旅行やお遊びの英語でもなければ、サラリーマンとしての技術知識でもない、技術翻訳のプロとしてメシを食ってゆくための勉強だった。

何を何のためにまでは、大まかにせよはっきりしてきたが、どうやってが分からなかった。日立精機にいたときは、相談できる人がいなかったが、そこは翻訳会社、技術的なことを聞ける人はいないが、英語の勉強ということでは、誰もがそれなりにしても考えを持っている。誰もいないのも困るが、誰もがというのも困りもので、誰に聞けばいいのか悩ましい。誰がいいかは聞いてみなければわからない。いきおい聞きやすさや親切そうに見えるからということで、聞いてしまうのだが、聞く側の能力や志向に合わせてアドバイスをできる人はいるようでいない。アドバイスはありがたいが、個人の特異な経験とそこから生まれた偏った考えを押しつけがましくいってくる人もいる。

聞いてしまって、失敗したと気がついたときはもう遅い。仕事の上では先輩。一般教養としての英語のレベルも明らかに上、何を言われても反論しにくい。極端にいえば、新米を子分にでもしたいのかといいたくなるのが二人いた。
一人はコンピュータのマニュアル専門の翻訳者で、クライアント(コンピュータメーカ)が規定した文体と用語に従って、機械的に日本語から英語に置き換えていた。それを翻訳と呼ぶ気はしないが、安い単価でもページ数で稼いで、売り上げでみればトップ翻訳者だった。何年も似たようなマニュアルを翻訳してきているからだろうが、まるでパブロフの条件反射のような仕事ぶりで、タイプライターの付属品のような人だった。
入社したてのころは、そんなことに気がつくもわけもなく、まるで機関銃のようなタイプライターの音に、こんなすごい翻訳者がいるのだと感動した。

できる翻訳者として、度を過ぎた自信もあってか、技術翻訳という名のついた月刊誌に連載記事まで書いて恥をさらしていた。月刊誌で知遇を得たのだろう、某有名私立大学の教授を高く評価していた。薦められるままに月刊誌を何冊か買って、教授が書いた技術翻訳の本を買ってきたが、ちょっと技術的な文章を拾ってきて、定型化した文法の紹介をしているだけの本だった。タイプライターの付属品といい大学の先生といい、技術翻訳の世界にはこの類しかいないのか暗然とした。あれから三十余年、東大出版会が発行している月刊誌に科学用語の英訳の記事があった。参考にはなるが、東大でこの程度。知らないだけであってほしいが、今でも技術翻訳と銘打った本の類も先生方も使えないと思っている。

もう一人は付属品よりたちが悪かった。技術翻訳の本を書いた先生が教鞭をとっている大学の出なのだが、英文科で手に職というものがない。あとになってみれば、技術知識には興味もない、ただの英語使いにすぎなかった。女性蔑視などさらさらないが、翻訳の仕事でお会いした女性の多くが、なにもそこまで肩肘張って生きることもないだろうに、と思う人たちだった。
肩肘張るまでなら、距離を保てばいいだけなのだが、技術には関係のないところで生きてきた人の経験がそのまま生きるわけでもないのに、なんにしても自分がしてきたことを押し付けがましい。

英語に限らず、勉強というものは、この電車(学校や教科書……)に乗ってしまえば、目的地に着くという類のものではないことに気がついた。有意なアドバイスはありがたいが、それをそのままで十分なことはなかなかない。人さまざま、ある人のある条件のときにうまくいったやり方が、違う人の違う条件のときにもうまくいく保障はない、というよりうまくいかないことのほうが多い。血圧の高い人にも低い人にも効果のある薬がないのと同じように、自分のその時々の状態と状況にあっていなければ、思わぬ副作用でなやまされることすらある。誰に、それがたとえ高名な先生であったとしても、お聞きできるのは参考意見までとして、自分で工夫をし続けるしかない。自分であれこれ試して、今はどの類のことをどのように勉強してゆけばいいのか、試行錯誤を繰り返しながら、自分のやり方を工夫してゆくものだろう。その工夫の過程で学ぶことも多い。

エライ人たちや、成功者であると思っている人たちにはここのところが理解しにくいのだろう。ご自身の成功体験から、ご自身がしてきたやり方が、普遍的にもっともいいと思っている。その思いの強い、面倒見のいい立派な方から目をかけられると、うれしからぬことになる。言う通りにしないだけで問題になりかねない。無視するわけにもいかないし、それは先生の時代の先生の状況にあったというだけでしょうと口に出すのはむずかしい。「労多くして功少なし」どころか、「労多くして災難多し」に近い。成功体験は次への進歩への足かせになる。

へたに輝いている人たちの話を聞くより、反面教師を観察したほうがいいかもしれない。最低限これはやっちゃというのを、頼みもしないのに目の前でやって見せてくれる。見せてくれたことの反対のことをすればいいというほど単純ではないにしても、消去法でこれはやっちゃというのを消していけば、これならという案が出てくるここともある。「失敗は成功の母」は、ときにはということでしかないが、他人の失敗から学べるのなら学んだほうがいい。学んではならないのは、他人の成功で、「成功は失敗の母」はときにはではなく、真理に近い。
三十過ぎて、こんな当たり前のことに気がついた。
2018/11/18