翻訳屋に24

<外国人から日本を聞く>
英会話の学校にはちょっと変わった先生が二人いた。一般的ではないという意味で「変わってる」のであって、マイナスのイメージがつきまとう「おかしい」のとは違う。
変わった先生はクラスを持たずに、クラスの担任がお休みのときにでてきて、つなぎの授業をしていた。教科書を先に進めるのは担任の仕事でという規則でもあるのか、教科書を使わずに、フリーディスカッションだった。教科書にそった、型にはまった授業のほうがいいという人もいないことはないだろうが、変わった先生との話には、息抜き以上のものがあった。

自己紹介からして、卑下してというのか型破りだった。担任として、クラスを持たないことから、Classless teacherと自称していた。普通の社会からは外れたものだという自戒ともつかない、Social dropoutだという口ぶりだった。そこに授業があいていた、クラスを持っている親しい先生が入ってきて、二人の掛け合い漫才のような話になった。
「おれは、ちゃんと担任としてクラスをもってる、クラスのある先生だ。お前はクラスのない、Classlessだ。そうわかるか。社会のドロップアウトだ」
「いやいや、それは実に表面的な評価で、教師としての本当の能力は、定型化した授業をきちんきちんとすすめていくことじゃない。どこかのクラスの担任がドタキャンでという話になれば、なんの準備もなしででていって、クライアントである生徒に、この学校にきてよかったという、短い時間だけど実感してもらわなきゃならない。クラスありとクラスなしと、どっちの先生のほうが能力を要求されるか。疑問の余地はない。オレのほうが上だ」
「いやいや、それはお前の言い分で、それほどまでの能力があるのから、きちんとクラス担任にアサインされてるはずじゃないか」
「簡単に定型の授業をすればいいと、どこかのクラスにアサインできるような能力じゃないってことで、Classless teacherってことだ」
「みんな聞いたか、立派なClassless teacherだそうだ、今日はこいつの相手をしてやってくれ。オレはちょっと片付けなければならなのがあるから。オイ後で手伝えよ。もともとはお前の仕事じゃないか」

気の置けないのが出て行って、よそ行きの顔になったと思ったら、唐突に「部落問題」を投げかけられた。この変わった先生の話は、英語の能力が足りなくて、どうにも受けきれない。それにしてもどこでそんなに調べたのか勉強したのか知らないが、なんで「部落問題」にそんなに詳しいのか。おおかた、どこかの大学で博士論文にでもまとめているのだろう。
この先生が出てくるのを楽しみにしていた。話題は社会問題で堅い。それでも話は面白いし、丁々発止のやりとりは小気味いい。ほとんどの生徒は先生がもちだした話題に関する知識も興味もない。生徒からでてくるのは、しばし頓珍漢な、どうでもいい質問だけだった。それを受けて、までまじめに説明しても、そんなことを聞いてくるヤツは帰りの電車に乗るころには忘れてる。それをわかっていても、話さなきゃならない性格なのだろう、いつも熱っぽかった。

もう一人はここまで変わっているのがいるのかという人だった。涼しい顔をして、日本にはもう十何年以上いるから、で自己紹介がはじまった。
「なんで、そんなに長く日本にいるのかって?」
「みんなには申し訳ないけど、英会話の先生をするためにじゃないんだな。いくらオレが変わってるったって、英会話の先生をしたくて日本に十年ってのは、変わってるっていうより、もうおかしいだろう」
「オレはどうしても日本にいなければできないことがあって、はなれられなくなっちゃったんだな」
「みんなもよく知っている楽器の演奏とその楽器が織り成した社会と歴史を勉強したくて日本にきて、気がついたらもう十年すぎちゃった。ということで、それ以外になにがあるかと考えたこともあるんだけど、何といって何もないんだな、これが」
「さて、ここで一つクイズだ。オレが演奏を勉強しつづけている楽器はなんでしょう」
そんなことをいったところで横並びの生徒は誰もなにも言わない。それを分かっててクイズといって自分で答える。こんなことを、もう何回もしてきているのだろう。一呼吸おいて、

「琵琶なんだけど、それに合わせて当然『平家物語』やその社会的、歴史的背景も勉強しなきゃならない。となると日本にいるしかないじゃないか、で日本に住み着いちゃった。住むとなると結構金もかかるじゃないか。それでもう一つのオレの特技?、英語を母国語としない人たちの英語の先生ってわけだ。おかげでこうしてみんなにあって話もできる。なんとも光栄なことだと思ってんだけど、勝手に思ってるだけかもしれないって、いつも不安なんだよな」

あきれるほど間のとりかたが堂に入っている。深呼吸でもしているようなそぶりをして、
「不思議でならないんだけど、なんで日本人は何も話そうとしないのかな。これがフィリピンやタイあたりだったら、我先にと何か言ってくる。それはもうほんとうに、どうでもいいじゃないかということでも言ってくる。ところが日本人は?いろいろ考えてんだろうけど、口が重いというか、重すぎる。もうちょっと、リラックスして、今日は教科書も使わない、自由になんでも言う特別授業だから……」
といっても誰も口を開かない。しょうがないという、散々してきたいつもの?そぶりをしながら、
「琵琶といってもなじみがないだろうけど、『平家物語』なら読んだこと、全部でなくてもかまわない、さわりだけでも読んだことがある人はいるだろう。ある人ちょっと手をあげてみて」
「うーん、そうだようね、じゃあ」っていいながら、

『平家物語』の一説を、よくもまあ、そこまでとあきれる滑らかな、みやびの抑揚までつけた日本語で語りだした。クラスの誰もが、小柄のひげ面の、お世辞にも文化的な風貌とはかけ離れたアメリカ人から、発せられた音、それはもう詩と呼んでいいのか、調べとでいってもいいのが出てきたときには、びっくりして声がなかった。
それに続いて、平家物語の気に入っている箇所を取り出して、軽い解説をして、生徒に何をいわんとしているのか、と軽い質問をした。そんな解説などされても、何を言わんとしているなど分かるわけがない。受験勉強や何やらで日本の古典を知らないわけではないにしても、それは受験のためという限定されたところまでで、それ以上はなんの知識も興味もない。

なんらかの理由で日本で生活しなければならない。ただそのためだけに、安直な英会話学校で先生をしている。それもClassless teacherとして。英語の先生としては、それ以上の責任を持ちたくないというところなのだろう。金払って勉強に来ている生徒からすれば、そりゃないだろうといいたくもなるが、フツーに考えて、東京の英会話の学校の先生を目指して勉強してきたという人がいたら、そっちの方がフツーじゃない。どの先生も何らかの理由(事情?)か目的があって東京にいたい、いなければなから、先生をしているだけだろう。

英会話を教える仕事とのつながりなどあろうはずもなく、ふつうはそれを生徒の前で口に出すのをためらう。さばけているというのか、その変わった先生、そんなためらいや後ろめたさなど、はなからあったとも思えない。目的からすればあまりに些事。気にかけることではない、ということだろう。

よくヨーロッパの支配階級というのか上流階級や政治指導者がゲーテやシラーやなにやらの有名な文言を暗誦して、何かのときに教養の一環として披露するというのを聞いたことがあるが、日本で古典に通じているのは、それを専門として勉強しているか研究している人たち以外にはいない。
後になって考えてみれば、あの茶目っ気の先生、そこまで考えていて、『平家物語』を引っ張り出してきたような気がしてならない。『君たち、英語を勉強しようとするのは国際人としての立場を求めているからだろう?でも、習った英語で意思の疎通ができるだけでは、ネイティブには、よくて出来のいい植民地の木っ端役人程度にしかみえない。日本人が日本を一歩でたときに求められるのは、日本人として教養と良識であって、形ながらに習得した英語使いとしての日本人じゃない』
明治維新以降、得たものも多かったが、失ったものはそれ以上に大きかったような気がしてならない。

ずいぶん経ってからだが、ベルギーにヨーロッパ支社を開設すべくワロン州政府の役人と話をしていた。日本企業の誘致活動の前線に立っていた人なのだが、あまりに達者な日本語に驚いた。日本の大学に十年以上在籍して中世の妖怪の研究をしてきた人だった。いろいろな人に会ってはきたが、ここまで変わったおかしな人はいないと思いながら、なぜ中世の妖怪を研究?と訊いた。
返ってきた答えにゲーテの暗誦に近いものをどすんと落とされたような気がした。妖怪には歴史に培われた庶民から皇族まで含めた日本人の社会観や生死感が反映されている。歴史とは時の権力の趨勢を時系列でならべたものではない。ましてや今の社会を知ろうと思えば、今にいたった歴史を、そこに生きていた人々の日常の思いや考えから理解しなければならない。

自分たちが生み出した欧米に対する憧れと畏敬の念のような感情から抜けきれないでいる。日本の日本のと言う気はさらさらないが、それでも自分たちの文化にあまりに無頓着すぎる。外から見た目で日本を教えられることがある。ありがたいことで、決して悪いことではないが、言われたことが何を言わんとしているのかも分からないとなると、なんとも情けないし、恥ずかしい。
2018/11/18