翻訳屋に25

<行く英会話の学校がなくなった>
どういうわけか工場の朝は早い。事務所は九時からだが、工場は八時から始まる。田無から我孫子へは、朝六時前の電車に乗らなければ間に合わない。定時でさっと切り上げても、九段下の英会話の学校には一時間目が終わるころにしか着けない。転職して、通勤が新橋になって通学も楽になった。

技術の勉強からは開放された?(と思っていた)が、英語をなんとかしなければと焦る。それでも英会話の学校にも余裕で行けるし、英語の勉強に集中できるようになったと喜んでいた。このままいけばと思っていたが、長くは続かなかった。問題になることは転職する前から分かっていたことなのに、そのときにならないと真剣にならない。通っていた英会話の学校にもう行くクラスがなくなった。クラス三から始めて六も終わって、上に特殊クラスとして二つあったが、どちらも終わってしまった。学校に行く必要がないところまで、力がついたのならいいのだが、英語に不安はあっても自信の「じ」の字もない。

英会話の学校はいくらもあるが、ここというところは数えるほどしかない。ブリティッシュ・カウンシルが後ろ盾になっているのだし、ここなら間違いないだろうと、神保町の駅の上にある会話学校に行って相談した。まずはペーパーテストを受けてといわれて、その結果をもって先生と面接した。ペーパーテストはいまいちなのに、面接は丁々発止の世間話のようになってしまった。「どのクラスでも好きなところに入ればいい」と言われた。そうは言われてもと思いながら、アドバイスされたクラスに通った。九段下の会話学校の特殊クラスと似たような感じで教科書なしの授業だったが、上達しそうな気がしない。ブリティッシュイングリッシュの違和感もあって、半年でやめた。

英会話の学校で行くところが見つからない。ものは試しにと、新聞社の名前がついたカルチャーセンターに「ニューヨークタイムズを読む」というクラスを見つけて通ってみた。先生について、新聞の読み合わせのようなことをやった。英会話の学校以上に女性がお上品ぶっているとでもいうのか、物理的に声が小さくて聞こえない。まるで「午後ティー」のような文化というのか雰囲気に生理的な嫌悪感まである。教養の英語でもないし、格好をつけるためでもない、ましてやお上品ぶるためにツールでもない。飯の種としての英語を追い求めているものは場違いだった。三ヶ月でやめた。

たとえ少人数のクラスであっても、クラスの勉強ではこれ以上の上達が難しくなっているのだろうと考えて、個人教授を売り物にして世界に展開している英会話学校に行きだした。一対一の授業料は高い。毎月十万円以上かかる。それでも生活を切り詰めて通った。そこでも期待した上達が望めないことが分かった。一対一はいいが、行くたびに先生が違う。一人に固定してしまうと担任の個性というのか癖がでる欠点があるが、行くたびに違うと、授業の内容が違っても、自己紹介のようなこともあるから、レコードの針が飛んで前に戻ったような気がしてくる。コストに見合った向上があるとは思えなかった。

英語を使うことも限られているから、英会話の学校に行かなければ、それでなくても低い英語の能力が落ちてゆく。どうにかならないかと思って、エリックとセアーに世間話がてらに相談した。セアーの知り合いに外国人に英語を教える資格?をもったアレックスがいるというので会いにいった。よさそうな人だったが、もうスケジュールがいっぱいでこれ以上は生徒を増やせない。アレックスにデニスというのを紹介してもらって、相談にいった。デニスのところに数回行って、これではと止めた。プロ意識が足りないと言うのか、行くたびに彼女が遊びにきていて、世間話にしかならない。それでも一回行けば一万円になる。セアーに事の次第を話したら、いつもだらだらしているセアーらしくもなくかなり熱くなって、デニスを紹介したアレックスに対して怒っていた。人のことを言えるのかと思うのだが、セアーに言わせると、デニスは不良外人の中でも最悪の不良で、面も見たくないと剣幕だった。

どうにもいい方法がみつからない。ある晩、新橋で三人で飲んでいるときに、セアーが冗談交じりに、
「もう英会話の学校っていうレベルじゃないってことなんだ」
「方法は一つしかないな。アメリカ人の彼女をみつけることだ。これしかない」
それまでもセアーが似たようなことを何度か言っていた。何をありえないことをと相手にしなかった。エリックも話しに乗らなかったのに、どういうわけか、その晩にかぎって、
「そうだ、もう、それしかない」
「いいか、ここでちょっと整理してみよう、なあセアー」
「まず一つはっきりしていることがある。もう日本人が集まっている英会話の学校にいっても勉強にならない。英会話の学校なんか、もともと行く価値なんかないんだけど、まあ行っちまったんだからしょうがない。じゃあ、可能性のある手段としては何がある」
「学校は終わった。社会にでて実践しかないじゃなか、違うかセアー」
酒のせいもあるんだろうが、エリックが得意満面で話している。
「なんだ、実践って、ここで三人で飲んで話してるのを言ってるのか?」
「そりゃそうだ、俺たちとこうして話してるのは、実に合理的な選択肢じゃないか。アドバンストイングリッシュだ」
「それはそうだが、ここはやっぱり一所懸命になる条件が必要だろう。俺たち二人じゃなんという話にもならないし、やっぱアメリカ人の彼女が必要なんだ」
「なんだ、エリック、お前の彼女、日本人だけど、日本語の勉強、ちっとも一所懸命にならないじゃないか」
「それはエリックの彼女が、エリックから英語をということでくっついただけだから、エリックには日本語をどうのという、たいしたインセンティブがないんだよな、エリック」
「俺のことはいい。フジサワの英語の勉強をどうしようかって話だろう。答えはこれしかない。アメリカ人の彼女だ」
「アメリカ人の彼女たって、紹介するあてでもあるのか」
セアーがいつもの自信満々の口ぶりで、
「そんあのいりゃ、とっくに紹介してる」
「エリック、誰かいるか」
「贅沢は言わないけど、お前の彼女の仲間はよしてくれ。アマゾネスを相手にする体力はないからな」
「前にも言ったろう、マクドナルドにいきゃいい。あそこなら、いくらでもアメリカ人の女の子がくる」
それを聞いたエリックが、
「そうだ、六本木でも新宿でもいい。マックなら、待ってりゃ、必ず来る」
「そうは言っても、どう見ても、若い女の子のに好かれる顔でもなけりゃスタイルでもないぜ。アメリカ人の方が脚も長いし、胸板もごついし、かっこいっこないじゃないか」
「それがそもそもの間違いだ。アメリカ人の男は、日本にまできて、わざわざアメリカ人の彼女なんか、冗談じゃないと思ってる。馬鹿だから、日本の女の子はおしとやかで、やさしいと信じ込んでる。なあ、エリックそうだろう?」
セアーのビーンボールをまともにくらって、エリックがあわくって、
「オレのことは関係ないだろう。フジサワの彼女がって話じゃないか」
「そんなやつらがだ、主張の強いアメリカ人の彼女を、日本で?ありえない。わかるか、ここはがんばりどころだ、マックに行け。行けば、必ずアメリカ人の男には相手にされないのが残ってる」
そう言うセアーも彼女がいたことがないのを知っているから、
「じゃあ、セアー、一緒にマックにいって、おれはアメリカ人、お前は日本人の彼女を探すか?」
似たような話しは何度もあったが、じゃあ、行くかにはならかい。二人とも、ある意味典型的な横着ものだった。

困った、適当な学校もないし、個人教授は高すぎるし、いい先生が見つからない。このまま半年一年も放っておけば、間違いなく英語の能力が落ちる。どうしたものかと考えていて、毎週土曜に勉強会を開いている同僚の言葉を思い出した。
「あんたなにやってんの」の口癖のあとに、「あんた何になりたいの?翻訳なのそれとも通訳なの?」
そうは言われても、そこまで考えたことがなかった。情けないかな、素人の理解では、どっちも英語で、英語の能力の使い方でしかない。なにを言ってもはっきりしない新米に、「あんたなにやってんの」。この言葉がありがたかった。ここから身の程知らずの同時通訳の勉強が始まった。

工作機械メーカにいれば、英語のできる人材でも、巷にでれば、英語に自信のない翻訳見習いでしかない。まさか通訳なんて世界が自分の視野に入ってくるとは考えたこともなかった。まさかのうえにもう一つ二つまさかがつく。それでも行く学校がないよりはいいしで、麹町にある同時通訳の学校に行きだした。そこは学校というより、同時通訳派遣会社の養成機関で、先生は現役の同時通訳者だった。まず逐次通訳の入門クラスに入った。
2018/11/25