翻訳屋に26

<同時通訳の学校へ>
子供のころは親父に診断書を書いてもらって、学校を休んで釣りにいったりしていたのが、高専で詰め込み教育の型にはめられた。学校教育からはみ出しているつもりだったが、型にはまった後遺症が思っていたより重かった。無意識のうちに、勉強とはカリキュラムに従って、先生についてするものだとばかり思っていた。
とくに英語となると、独習できるものとは思えなかった。英会話学校に行かずに独習の可能性を考えても、何をどう独習すればいいのかの見当もつかない。そう思って英会話の学校に通ってはみたが、いっこうに力がついてゆくような感じがしない。それでも型にはまった勉強はできるし、その型の周辺なら独習もできる。
ところが行く英会話の学校がなくなってしまった。英語の能力がそんな段階にまできてしまったとは思えない。勉強しなければという一心で、同時通訳の学校に行きだした。これが文学部あたりで英語なりなんなりを学んできた人なら、漠然と英語の勉強をにはならないだろし、違う選択肢も思いつくのだろうが、高専出の機械屋には分からなかった。

同時通訳をめざして?、あまりに違う世界で、いったところでどうなるかは分からない。それでも、できることならやっておこうという気持ちで、麹町にある同時通訳の学校に通いだした。
何年も通った英会話学校は、会社のなかで使えないと困る人たちが、使えるようになるための学校で、それはいってみれば、仕事をするのに必要なさまざまな能力のささやかな一つでしかない。通ってくる人たちが学んだことをどう生かすのかについては、個々人の問題で学校は何も気にしない。
同時通訳派遣会社の養成機関としての学校は、いってみればその企業の将来がかかっている。当時大手といわれる同時通訳派遣会社は四社しかなかった。どこもありあまる同時通訳者を抱えているわけではないし、できる人は同業他社からの引き抜きもある。外部からリクルートするだけでは市場の成長に追いつけない。どうしても養成機関までもって社内で同時通訳の半玉にまで育成して、ベテランとペアにして一人前に仕上げたい。
あとで考えれば、翻訳見習いがそんなところに、絵に描いたようなお門違いだった。

高専では、大卒に劣らない専門知識をということで、八時間授業の詰め込み教育をしていた。なんでこんな勉強をと思うことが多かったが、それでもこの同時通訳養成校ほど厳しい授業はなかった。一日三時間の授業が週三日。英会話の学校でも仕事をしながら週三日はきついが、養成校の授業を一回でも受ければ、そんなもの昼寝でもしているのとなにも変わらないと思えるようになる。

二十五六人の生徒を前にして、先生が机に座ってなんの前置きもなく、通訳した仕事を録音してきたカセットテープを再生する。ディクテーションしてA4にタイプアウトしたら半ページから一ページ程度のところで止めて、「そこの、あなた」と生徒の誰かを指す。指された生徒は、即聞いた英語を日本語で言わなければならない。日本語でなら覚えていられるが、英語ではじめて聞く話、誰もほいほいと日本語で言えない。そんなことがスラスラできるのだったら、こんな学校にきやしない。英語を母国語としている数人以外は誰もがそう思っていた。
いきなり指された生徒がしばし「えっ」と声にだしてしまう。日常生活ではふつうの反応なのだが、「あなた、仕事の場で、えっなんていえないんだからね」、「右の人」と次の人が指される。指された人がまた泡を食って、すらっと日本語がでてこないで、口ごもる。口ごもって、失敗したと日本語を口からだそうとするのだが、先生はそんなもの待ってはくれない。「後ろの人」と何人かを指しても、誰からも日本語が出てこない。「あんたたち、なにやってんの」「もう一回」といいながら、カセットテープを巻き戻して、再生する。今度はさすがにちょっと短い。A4の三分の一程度で止めて。「はい、あなた」と別の生徒を当てる。
これが授業というものなのかと思うのだが、ただただ当てられないようにと祈りながら一時間が終わる。「あなたたち、しょうがないから、事務にいってこのテープをコピーして、もって帰って予習してきなさい」っていって、さっさと部屋を出てゆく。

コピーしたカセットテープを持ち帰って、ラジカセで再生して聞くのだが、聞き取れないところは何度巻き戻し、再生を繰り返しても聞き取れない。たとえば、「wherewithal」という単語を一度も聞いたことも、見たこともなければ、聞き取れたとしても「where」、「with」と「all」の三つの単語にしか聞こえない。その逆もありで「get rid off」が三語に分けては聞き取れない。文章の前後関係からこれかもしれない、「l」なのか「r」なのか、それとも「ll」なのか「rr」なのか、可能性のある綴りをあれこれ想像して辞書を引いても、運よく見つかることはなかなかない。

地下鉄に乗っていて、次の駅名が聞こえてきたとして、「しぶや」なのか「ひびや」なのかは、分かっているから、「渋谷」聞けて、「日比谷」に聞けるのであって、純粋に聞こえた音からでは電車の雑音はあるし、スピーカの音質もあって聞き取れない。
ラジカセの音質がよくなければ、音そのものが聞き取れる状態でないこともある。もっと音質のいいラジカセはないかと秋葉原にいって、何度も何度も聞き比べてこれしかないと買ってはきたが、所詮ラジカセの音でしかない。ラジカセの操作ボタンは頻繁に巻き戻し、再生をするようには作られていない。一語巻き戻したいのだが、巻き戻しボタンを押せば、ボタンがしずんで、数文字どころか数行戻ってしまう。頻繁な巻き戻しをすれば、たいした時間もかからずにラジカセが壊れる。
テープ起し専用のDictaphoneがソニーから販売さていることを知って、ラジカセ二台三台買える値段だが即買った。両手をタイプライターにつかって、足踏みのペダル操作で巻き戻し、再生ができる。頻繁な巻き戻し、再生を前提に設計されていて、丈夫でちょっとやそっとのことでは壊れない。
毎晩コピーしたカセットテープのテープお越しをした。三時間の授業にでるために、八時間から十時間の予習復習をしなければならなくなって、しばしバナナと餅だけの夕食ですませた。

ドイツ人の先生の授業も基本的には同じやり方なのだが、最初の十五分ほど通訳の基本能力を習得する作業にあてていた。同時通訳の授業は、生徒が日本語と英語のどちらもネイティブに近い言語能力を持っていることを前提としている。ただ二ヶ国語に堪能というだけでは、同時通訳はできない。同時通訳に必須の基本能力として二つの技能を身につけなければならない。1)頭に小さなレジスター(メモリ)機能をつくる、2)耳と口を独立して使う能力をつくる。
テープから関係のない単語、たとえば、「Apple、Train、Doctor、Moon、Game、……」が聞こえてくる。「Apple」と聞いて「りんご」と覚えておく(メモリ機能)。「Train」と聞こえたときに、「りんご」と言う(次の言葉を聞きながら、先に聞いて覚えておいたことを言う)。次に「Doctor」と聞こえたら、「列車」……。これが一語遅れで、二語遅れになると、「Doctor」と聞こえたときに、「りんご」と言う。そして三語遅れ。こんなことを十五分もやると嫌になってしまう。毎日欠かさずに十五分以上やることを習慣づけることが要求されていた。

毎晩英語の鍛錬、鍛錬、また鍛錬の日が続いた。それはまるで、ジャッキー・チェンの映画で師匠の敵討ちのために鍛錬、鍛錬、鍛錬のようだった。こんなこと毎日していたら、馬鹿になってしまうのではないかと心配になった。
なんとかかんとか入門クラスを終えて、半分自動的ではあるが、逐次通訳のクラスにあがった。やることは同じなのだが、授業はますます容赦のないものになっていった。アメリカ英語に離れていてもブリティッシュイングリッシュはちょっとなどという甘ったれた言い訳など通用するわけもなく、しばし、インドの外交官の演説だったり、どの国の人なのか想像もつかいないテープをA4にして二ページか三ページ聞かされて、「そこのあたな」って指される。入門クラスですら精一杯だった人たちが根をあげた。それを見て、「あなたち、現場にでたら、いつもネイティブの英語だということなんかないんだから……」
授業にでるのが怖くなって、何人もがいなくなった。それでもしぶとくなんとか授業についていったはいいが、いつギブアップするかというところまで追い込まれた。

学期の最後の日に先生も交えて近くのカフェで懇親会があった。授業を離れてまで先生のプレッシャーはごめんだという人たちも多かったが、ここで怯んでいてはと尻をたたいて、できる人たちに混じって参加した。
先生はできる生徒と話しこんでいて、落ちこぼれには目もくれない。そこは学校ではなく、通訳派遣会社の養成機関。目的は半玉になりそうな生徒をみつけて、一日も早く現場にアシスタントとして連れて行けるように鍛えあげることだった。生徒は授業料を払ってくのだから、二十人いても三十人いてもいいが、半玉を一人もつくりだせなかったら、なんのための養成機関なのかわからない。やっと先生をつかまえて、正直に話した。
「先生、もうへとへとなんですけど」
「えぇっ、あなたビジネスで使うためにきてるんでしょう?」
それは、「あなた、まさかあなたのレベルで同時通訳を目指しているわけじゃないですよね」という口ぶりだった。そうだよな、オレのレベルでとは思っても、「はい、そうなんですけど」とはいえない。しゃくにさわるが、言われていることはその通りで、なんとも反論できない。なんとかやり続ければ、そのうちそれなりにという淡い期待もあって、逐次通訳のコースに一年半しがみついたが、そこで止めた。

通訳は時間が限られているから、それなりの正確さしか求められない。パブロフの条件反射に似ていて、考える余裕がない。言葉は音として流れていってしまう。ところが、翻訳はそれこそ一語、一文になんでと思うほど時間をかけて、正確な言語の置き換えが求められる。翻訳と通訳、日本語と英語の間の掛け渡しということでは同じだが、そこに求められるものが違いすぎる。平行して進めていた、英語で技術の勉強に集中することにした。
2018/11/25