翻訳屋に16

<ビデオゲームにはまる>
一年半ほどして、三浦さんという同年輩の翻訳志望者が入ってきた。線の細い人で、口数も少ない。どことなく、何をしてきたかという話は避けているような感じだった。それでも、ちょっとした言葉から電気工事かなにからしいと見当はつく。それ以上は、知ったところでなにになるわけでもなし、自分から言い出すのならいざしらず、聞きだすようなことでもない。
事務所ではこれといった存在感がないのに、ビデオゲームのこととなると熱い。なんでそこまでというほど詳しかった。仕事を終えて、よく二人で御成門の事務所から新橋まで歩いていった。三十過ぎた男二人が新橋で、ふつうだったら、ちょっと一杯という話しになるのだが、三浦さんも下戸で、飯も食わずにニュー新橋ビル二階のゲームセンターに直行した。

当時はまだスペースインベーダーの数世代後のゲームまでで、画面も簡素なつくりで単純なゲームだったが、それにしても三浦さんは主だったゲームの画面の流れを暗記していた。毎晩布団に入ってから、それぞれのゲームの流れを反芻して、同じミスをしないようにしていると言っていた。名古屋打ちというテクニックを見せられたときには、そこまでやるのかとびっくりした。
三浦さんが師匠と仰ぐ人がスペースインベーダーのコンテストに出て、最後はトイレにつかえてゲームオーバーになってしまったといっていた。トレイにつかえでもしなければ、体力の続く限りゲームを続けられる人たちとはいったいどういう人たちなのか、想像もつかない。
二人でいくつかの定番のゲームを楽しむのだが、初心者がミスをしないようにと、三浦さんが後ろに立って、注意をしてくれた。小一時間遊んで、どこに寄ることもなく、それじゃといいながら分かれた。
翻訳室という同じ部屋で仕事をしていても、日常的に話すことはめったにない。お互いにどのような人なのかも知らない。ビデオゲームという共通の関心からの付き合いで、仕事帰りのビデオゲーム友達だった。

毎晩実家に寄って夕飯を食べて、住まいのマンションに帰っていた。実家は田無駅から北に五分、マンションは北東に五分、実家からマンションまで五分ちょっとの距離だった。実家からマンションまでの歩いて帰るのだが、途中に小さなゲームセンターがあって、素通りするが難しい。毎晩のように立ち寄っては、同じゲームをやって、最高点を出して自分のイニシャルを残すのが日課になってしまった。

誰だか知らないが、上手な人が何人かいて、何度やっても最高点を更新できずに悔しい思いをしたこともある。集中してやっていると、汗が眼鏡のレンズにたれて、画面がみにくい。顔を斜めにしてたれた汗をレンズのふちに流すのだが、画面はぼやけたままでよく見えない。でも手を休めるわけには行かない。トイレにつかえてとは違うが、眼鏡にたれた汗には泣かされた。
レバーを上下左右に動かすのだが、急に動かさなければならないことも多い。どうしてもレバーを操作する手に力がはいりすぎる。そのせいで、両足でゲームのテーブルが動かないように押さえていないとテーブルが動いてしまう。毎晩同じゲームを三十分以上やっていたら、右手の親指に血豆ができて皮がむけてしまった。

毎晩のように立ち寄った田無のビデオゲーム屋に最初に入ったとき、店のオヤジさんと顔を合わせて、お互いにびっくりした。日立精機を七月末に辞めて、九月に翻訳屋に入社した。十年働いて、せめて一月ぐらいはぶらぶらしていたかった。知り合いが永福町に住んでいて、永福町のすし屋(もどきの店)に何度かいった。素人のような夫婦二人でやっているすし屋が店じまいしたのは知っていたが、まさか田無に引っ越してビデオゲーム屋とは思いもよらなかった。永福町で会って一年ちょっと、なんの縁か、出会いはわからない。

中学生のとき、月になんどかパチンコにいっていたが、高専に通いだしてからは忙しくてパチンコという気にはならなかった。工作機械メーカに就職してからも、夜は勉強の時間で、遊びにゆくことはほとんどなかった。それが三浦さんと会ってから、ビデオゲームにはまってしまった。三十すぎてビデオゲーム、それまでの自分からもその後の自分からも想像できない。なぜはまったのか、いったいどんな精神状態だったのか考えると興味深い。
何か特別なことでもなければ、事務所で翻訳者同士が話しをすることはない。和文原稿を前にして孤独な作業を一日中していると、なにか気を抜く機会がほしくなる。それが居酒屋という人もいるだろうが、下戸にはビデオゲームがちょうどよかった。ビデオゲームを始めれば集中して、仕事も含めたいろいろなことを、一時的にせよ忘れさせてくれる。

よく仕事を忘れて温泉にでもいってゆったりしたり、近くの公園にいって芝生の上でリラックスという話を聞くが、とてもそんな気にはなれなかった。気分転換にと何度か愛宕山にいってはみたが、せわしない生活がしみついてしまったのだろう、何をするわけでもない時間が過ぎていくのに耐えられなかった。子供のころからいつも何かでバタバタしていたが、翻訳を始めるまでは、映画にもいったし、旅行にもいった。それが仕事と勉強で精神的な余裕がなくなって、息抜きにしても、ゆったりという気になれなくない。ゆったりしたときにひたろうとすれば、仕事に集中しているときより、漠然としてにしても仕事のことを考えてしまうし、勉強しなければという焦りがつのってくる。ビデオゲームをしていて気がついた。仕事と似たような緊張―ビデオゲームでえられる緊張でしか気晴らしができない。緊張でしか緊張をほぐせない。若さにまかせて走っているからいいようなものの、こんな状態をいつまで続けられるのか、気にすることはあっても緊張が忘れさせてしまう。

三十過ぎて、曲がりなりにも一部上場の会社で十年働いていたのが、ある日突然、身分保障もなにもない、なれないかもしれない翻訳者を目指して会社を辞めてしまった。親にしてみれば不肖の息子が心配だったのだろう。実家に立ち寄って夕飯を食っていると、一人で飲んでいる親父に「結婚する気はあるのか」と訊かれた。結婚すれば多少は落ち着くと思っていたのだろう。「あるのか」と訊かれて、「ない」ともいえない。訊かれるたびに「あるよ」と答えていた。
親父のつてで、こんなどうしようもないものにも見合い話がころがってくる。週に一つ二つの話を聞かされて、飯を食いながら写真をみて、「よそうよ」といって断っていた。何度も断っていると、また「結婚する気はあるのか」と訊かれた。会ったところで断るつもりなのだから失礼な話だが、何度かに一度会わざるを得なくなった。

「親の心子知らず」の見本のような息子だった。あるとき、新宿のホテルで両親も同席した見合いに連れて行かれた。軽い昼飯で気をつかって疲れたあげくに、「後は、若い人同士で」ということで両親と別れて二人きりにされた。彼女などいたことなかったし、デートなどしたこともない。二人きりにされても、若い女性をお連れするようなところは知らない。雨のなか傘さして、どこか適当な喫茶店でもと入って、あれこれ話題をふったところで共通の話題なんかみつからない。いつまでも喫茶店にいるわけにもいかずに表にでたら、ゲームセンターの看板が目に入った。雨の中を歩き続けるも嫌だしと言い訳のようなことをいって、ゲームセンターに入った。いつものゲームを見つけて、見合い相手を前にしてゲーム始めた。始めれば人のことなんかかまっていられない。見合いで、かたちながらもデートのはずなのにゲームに夢中になっていた。「ゲームお上手なんですね」といわれた。嫌味だったのだろうが、そんなこと気にしたらゲームオーバーになってしまう。当たり前だろう、毎日やってんだからともいえない。

所帯をもたせればという、どこにでもある親のおせっかいも、ここまでになると笑い話に近い。出てくる見合い話を断り続けるのに業を煮やしてか、結婚紹介所に登録されてしまった。どこまで本当なのか知りもしないが、親父がいうには、第一勧銀と野村證券が後ろだてだから間違いない。飯田橋に事務所があるから挨拶にいって来いとうるさい。
なんどもせかされて、いやいやながら出かけた。年配の女性が紹介所のシステムを丁寧に説明してくれた。
そんなもの聞かされてもピンとこない。そもそも興味もないから何を聞いても上の空だった。それを察してか、
「紹介させていただいているお嬢様をちょっとご覧いただいたほうがいいかしら……」 といいながら、ファイルを持ってきた。このお嬢様はといいながら、経歴書と写真を見せられた。
どこかの写真屋でこのために撮ってもらったものだろう。晴れ着のきれいなプロの写真だった。旅行にいったときに撮ったスナップ写真は一目でこれはパリで、これはローマ……。経歴書には、「趣味はスキーとテニス、ピアノとバイオリン、海外旅行に、とってつけたような料理」。額面通りとも思わないが、とてもじゃないが安月給では支えきれない。
「きれいなお嬢様でしょう。こちらのお嬢様は」
といいながら、二人目のファイルを開き始めた。
「いえ、お一人で十分です。みんなきれいないいお嬢様なんでしょうね。愚生にはもったいないですよ」
こんなところまできて、まさか結婚する気なんてないんですよともいえない。ただ、早々においとましたかった。
「いーえ、そんなことありませんですのよ。これは縁というのか、お二人のことですから……」
聞きなれない丁寧な言葉がうっとうしい。息が詰まってしょうがない。工場のオヤジの怒鳴り声のほうがよっぽどすっきりしている。人のことを言える立場ではないが、こんなところに登録してまで結婚相手をというのは、こう言っては失礼だが何か難しいことを抱えている人たちとしか思えなかった。

二週間ほどして、紹介したいお嬢様がいるので、早々に事務所にという連絡がきた。会ったところで断るだけなのだが、会いもせずには断れない。
最初に紹介されたのは、第一勧銀に勤めている二十五歳の女性だった。可もなく不可もない第一印象から半日後にはなんでそこまであけすけなといいたくなった。よくいえば、一緒にいて疲れない感じということなのだろう。
「まだ、二十五でしょう。なんでそんなに急ぐんですか」
「実家が北海道で、一人娘だから、早めに手を打たないと……。年いったらどんどん条件悪くなるじゃない……」
へー、それが世間の常識というのか知恵なのかねーと思いながら、
「条件ってことじゃ、オレ、かなり悪いと思うんだけど、学校出てないし……」
「ようそね、それにしても、年収本当に少ないですよねー」
他人のふんどしで相撲をとっているような都銀といっしょにされちゃ迷惑だと思いながらも、返す言葉がない。さらっと受け流す顔をつくって、つい言ってしまった。
「お会いしてびっくりしちゃったんですけど、おきれいですね」
ちっともそう思ってないのに、思いもしない世辞がでて、自分でも何をやってんだと思ったら、世辞とわかっていても嬉しいんだろう。若さにまかせた笑顔はいいが、そこに罪を感じて、
「今日は、いつもより化粧のプロセス多かったんですか?」
挨拶を交わしたときから気にしていたことが口からでてしまった。紹介所がアレンジしたお見合いにしても、この質問は失礼すぎる。ごめんともいえないで顔であやまったら、涼しい顔で、
「うーん、四つ?いつもより五工程多いかな。ほらこのまつげいいでしょう」
結婚紹介所で紹介されて、はじめて会っての、あきれた会話、まるで居酒屋の二次会のようだった。
昼飯食ってお茶飲んで、しばし棘の話で夕飯にまでなったあげくが、最寄り駅から暗い道、イヤですよねーでタクシー代までもたされた。

二人目の人はいい人だった。神奈川県のちょっと奥まったところの実家で、三人姉妹の長女。きちんと横浜国大をでた中学校の先生だった。容姿はべつとして、あまたの回転は速いし、ユーモアもある。こんな人がオレにと信じられなかった。ところがよくよく聞いてみれば、こんな条件なかなかないだろうというのがついていた。婿養子で、実家で両親と同居まではないことはない。でも資産家でもない家では難しい。そこで紹介所がこれだとでも思ったのだろう。女性の苗字も「藤澤」だった。女房の実家に同居して近所となりに「いや、わたしはもともと藤澤で、結婚する前から藤澤だったんで、婿養子って感じじゃないんですよ」って言い訳がましく説明でもするのか。
誰と会っても、話題もなければ行くあてもない。新宿で昼飯食ってお茶飲んで、ゲームセンターというコースだった。親父にもお袋にも喫茶店までで、とてもゲームセンターで時間をつぶしたとは言えない。

翻訳の仕事を辞めるまで、仕事と勉強で一所懸命だった。何があっても最後は独り。プロの仕事をしなければという思いから余裕というものがなくなって、ただひとつ、ビデオゲームだけが息抜きだった。
電車のなかでゲームをやっている人をみると、ああ、この人も息抜きが必要な毎日をおくっているんだろうなと思う。人それぞれにしても、そうでもなければ、いい年してゲームに夢中になれるとは思わない。でも混んだ電車のなかでちょっと多すぎる。もしかしたら、その人たち、疲れる日本を映しだしている鏡なのかもしれない。
2018/10/28