翻訳屋に18

<工場まで行ってはみたけれど>
日本語が多少荒れていても、原稿を読めば機械装置の構造から動作や操作など大まかな見当はつく。ところがなかには、いくら読んでもわからないのがある。元は機械屋、制御もそこそこ勉強してきたし、知識の広さということでは、不安もあるがそれなりの自信もある。書かれていることから、装置の構造を大雑把にしてもスケッチぐらい描けるし、制御システムの概略のブロック図も描ける。それでも、原稿をみると何をいっているのか分からない。想像を働かせて、こういうことを言いたいんだろうなというところまでいっても、それが合っているのという自信がない。

そんな原稿でも力任せに翻訳しろというのなら、できないことはないが、そんなもの英語のマニュアルとして通用するわけがない。いくら読んでも何をいっているのかわからない原稿に疲れて、字面で英語に置き換えるだけの翻訳者に任せたほうがいいんじゃないか?と営業に相談した。もし、多少なりともまともな翻訳をというのなら、機械装置を見せてもらいたい。実物をみれば、わけの分からない原文を、何が書かれていなければならないかを示したヒントのようにして、使える英語のマニュアルを書き上げることもできる、と伝えて作業を中断した。字面で翻訳する器用さはないし、そんな器用さを目指すつもりはない。

そこまで言われても営業が他の翻訳者に回すことはめったにない。そもそも回していい仕事だったら、こっちに持ってこない。大事な客か、うるさい客で、原稿が怪しそうだから、こっちに持ってきたいきさつがある。受注した段階で、たぶんのふだんの翻訳料金の二倍以上はふっかけている。

クライアント(大手通信機器メーカ)と話がついて、機械装置(チップマウンター)の見学に行った。都内にショールームをもっていて、そこに行けば機械装置を前に営業係長が説明してくれるという。早速でかけて、チップマウンターとPCボードのローダー/アンローダーを動かして見せてもらった。
係長、技術的な知識がたりない翻訳者が、書類を読んでも分からないと、因縁でもつけてきたのではないかと思っていたのだろう。ちょっと話をして、出てきた翻訳者が自分よりよっぽど機械にも制御にも詳しいことがわかって、口ぶりが変わった。

動きを確認してから、機械のカバーをはずして内部を見ていった。配電盤も開けてざっとみて、制御回路図をかりて、大まかな制御構造を確認した。コスト意識が低いのではないかと思うほど、機械としては基本に忠実な手堅い設計から組立てまでしっかりしたものだった。ところが産業機械の制御系は畑違いなのだろう。ほぼ世界共通といってもいい規格に準拠していない。技術コンサルでもないのが、ケーブル被覆の標準色や引き回しからはじまって、カバーに取付けられた銘版まで、もしアメリカに輸出するのならと前置きして、規格を確認したほうがいいとアドバイスまでしてしまった。

外せるのはカバーまでで、機構部品を外すわけにはいかない。見えるところまでが見えるだけで、内部の詳細はわからない。あとは係長に訊くしかない。気になるところを一つひとつ係長に訊いていった。技術屋でもない係長が答えきれないことも多く、技術に確認して後日返事をもらえることで終えた。ショールームで確認できるのはそこまでだった。

たかが翻訳、そんなに詳細までわからなくても、機械装置も見れたのだし、「百聞は一見にしかず」で、これで翻訳にかかると思う人が多いだろうが、ことはそんなに簡単じゃない。機械装置の機械的な構造も、大まか動作や機能も制御システムもわかった。ところが原稿の一行一行が何を言っているのか分からないことではなにも変わらない。

「実機を見せていただいて、機械としてはかなりわかりました。ありがとうございます」
とかたちながらも、お礼をいって、ページを開きながら、なにがなんでもこの日本語はないだろうというところを、指差しながら、
「問題は文章なんですけど、ここ何を言わんとしているんですかね?」
機械装置を操作して簡単な動きを見せて、おおまかな説明までして得意顔だった係長、指摘されたこの箇所、この箇所……と読んでいって、顔つきが変わった。翻訳者が分からないといっている箇所、ほとんど説明書の全編に渡ってなのだが、いくら読んでも分からない。機械装置を知っていると思っていて、操作までした係長が、説明書になんと書いてあるのか見当もつかない。

うるさい翻訳者が難癖をつけてきたと思われちゃ困る。丁寧に説明した。
「この原稿からでも英語に訳せる翻訳者はいくらでもいます。字面で直訳していくだけですから、内容を理解しての翻訳より簡単で時間もかからない。ただ出来上がった英文マニュアルが使いものになる可能性はまずないと思います。分かりにくいマニュアルを読んで機械装置を使って、人身事故にでもなったら、訴訟大国アメリカでどんなことになるか、想像できますよね」

テレビや新聞でも何度も取り上げられていたから、アメリカの訴訟については、一面的に過ぎないにしても知っている。「アメリカでは、何かあれば、すぐ裁判になる」「そして賠償金は、日本の感覚からは桁外れの金額になる」
そこまでの知識しかないにしても、「想像できますよね」は十分だったのだろう。工場からもらった説明書を巷の翻訳屋になげて、あがってきた翻訳を工場に送れば、英文のマニュアルができると思っていたのが、ことはそう簡単なことではないことに気がついた。

「アメリカは陪審員制度で、陪審員は工場で働いている人たちと似たような社会層の人たちです。事故で作業者が怪我でもしようものなら、なにがあっても被害者は陪審員の同情をかいます。事故がたとえ作業者の不注意から起きたことでも、不注意は誰でもあることだからという視点で、不注意で怪我をするような機械装置を導入した会社側の責任が問われます。よくいうフェールセーフという考え方です。万が一、小指の先を切り落としちゃったなんてことにでもなれば、おそらく数千万ではすまないでしょう」

「前の会社でニューヨークに駐在していたときに、客が取り付けた装置の不良で人身事事故が起きて、裁判に関係したことがありました。夜勤で事故が起きて、朝六時前にメンテナンストレーニングにと客に入ったんですけど、もうそれどこじゃなくなってました。客の問題でこっちに責任がないといっても、イヤなもんですよ」

英訳がだらしなかったとしても、それを良しとして受け取って支払いを済ませてしまったら、その時点で翻訳屋は部外者になる。英文も含めてマニュアルの内容に関する責任は、クライアントのマニュアル担当部署、多くの場合は設計か工場にある。東京の一営業係長は翻訳の手配をしただけで、責任を問われることはない。問われないなら、かまいやしないじゃないかという人は、表面的だけにしてもそうはいない。まだまだまじめなモノ造りの文化が残っている。

実体験からの話しで、係長を脅かすつもりはない。当初はただうるさい翻訳者がと思っていたのだろうが、問題の根幹――日本語原稿の品質をなんとかしなければと考えだした。ちょっと時間をおいて、
「藤澤さん、お願いなんですけど、一緒に水戸の工場まで行ってもらえないでしょうか。ここではお見せできることも説明できることも、もうないです。工場に行けば機械設計もいるし、制御設計もいます。工場で組み立て中の装置やモジュールも見れますから……」
助かった。係長が和文原稿のだらしなさに腹を立てているのがわかる。クライアントの中に係長のような人が一人でもいれば心強い。

「申し訳ないです、あなたが書かれたこの英文、よくわからないのですが」、と不明瞭な文章に言及しても、それは英語が苦手なんでという言い訳(?)が成り立つ。ところが、「この文章(日本語)の意味がわからない」というと、書いた人の知性に疑問符をつけることになりかねない。人は言葉で考える。考えた末に、口語か文語で意思や考えを表示する。その表示されたものが、要を得ない、あるいは意味不明ということは、話した、書いた人の知性が足りない、俗な言い方をすれば、馬鹿だということになる。
たかが巷の翻訳者、腹の中では、「こんな文章を書いた馬鹿は誰だ」と思っても、口にはだせない。それどころか、「よくわからないんですが、ちょっとご説明を」と遠まわしというのか、へりくだった口調でしか聞けない。

「ちょっと工場の担当者に日程を確認させてください」といいながら、工場の担当者に電話をかけた。
さっきまでの穏やかな話し方からは想像できない強い言い方で、
「取扱説明書と保守説明書の日本語がだらしなくて、おれが読んでも何をいっているのか分からない。これをそのまま翻訳してアメリカに送ったら、分けのわからないマニュアルとしてクレームがつく。そればかりか、もし事故にでもなったら、営業としては責任とれない。すべての責任は設計部と製造部にとってもらうことになる」

担当者の声がもれ聞こえてくるが、何を言っているのかわからない。係長が一方的に続けた。
「来週の早いうちがいいな。外注の翻訳者をお連れするから、一日時間を空けてくれ。お前だけじゃたよりなから、係長も同席してもらって、取扱説明書を保守説明書の原稿の品質について確認しなきゃだめだろうな。今のままじゃ、英語に訳しようがないっていうのか、そもそも日本語になってない」
「現場の班長の都合も合わせておいてくれ。そこまでいったら、当然工場も見てもらう。マウンターの総組もモジュールアッセンブリも見たいし。ああ、それから制御の担当者も同席するよう依頼を出しておいてくれ。お前、この日本語でどうやって仕事をしてきたんだ。こんなもの誰が読んだってわかりゃしないだろうが。お前だけじゃなくて、係長、その上、品質保証まで関係してくるぞ。わかったか」

朝早く、上野をでて水戸駅で係長と待ち合わせて、タクシーで工場についた。いかにも工場のというそっけない会議室に通された。マニュアルを書いた設計担当者、いってても二十代後半にしか見えない。上司の係長に寄り添うように席についた。挨拶も早々に、営業係長が、
「先週問い合わせておいた質問からかたづけちゃおうか」
担当者が説明を始めたが、何を言っているのかわからない。それは部外者の外注の翻訳者だからなのかと不安になって、営業係長の課をそっとみたら、わからないで困っているというより、もう怒っていた。
「お前、それで説明になってるつもりなのか?これがわからないって訊いてるのに、おまえが言ってるのは、そのわからないってことと同じことを言ってるだけじゃないか。わかんないって言ってるのに、わかんないことを説明として繰り返すか?それで説明になってると思ってるのか」

「もういい、そっちに座ってちゃわからないから、机の角のそっちとこっちで、取説を見ながらにしよう」
机の角の向こう側に担当者、その左隣に設計の係長、角のこっちに営業係長、その右隣に座った。あらためて営業係長が取説のページを開いて、意味不明の文章を指差して、
「これはどういう意味なんだ」
担当者が何かいっているが、何をいっているのかよくわからない。係長がページをめくっては、
「ここは」、「ここは」、「ここは」
担当者が口ごもりながら、何かいっているがわからない。
係長の口調がだんだん厳しくなって、設計係長に向かって、
「おい、どうする」
設計係長、口ごもりながら、
「どうするって言われてもなー、全部書き直しってわけにもいかないし……」
「こんな、オレたちが読んだって、わからないのを外注の翻訳者にわかれって、そんな話じゃないだろう。うちの社としての立場ってもんがあるだろう。なんだかよくわからない取説読んで、こうかもしれない、ああかもしれないって……。昨日今日でてきた町工場じゃない、戦前からの一部上場企業の取説だぞ。客先で事故でも起きてみろ、どうする?」

いくら営業係長が言っても、言われていることを理解はできても、担当者にも担当部署にも、まともな説明書を書く能力がない。何の解決策もないまま、しょうがないから、工場で組み立て中の機械と個々のモジュールの見ながら、機械の説明をという話になった。

四人で工場にいって、班長に頼んで、モジュールや部品をみせてもらって、おぼろげながらも機械の詳細がわかってきた。あとはこっちでやっつけるしない。会議室に戻って、御礼を言って、営業係長に世辞もあって、
「やっぱり工場にきて、物見せていただいて、説明をしていただいたおかげでずいぶんみえてきました。あとはこっちでなんとかしますが、もしまた、これなんでしょうというのがでてきたら、どなたにお聞きすればよろしいでしょうか」
「それは私を介してにしてください。工場に確認してできるだけはやく回答させていただきますから……」

行きは水戸駅で待ち合わせたからよかったが、係長と一緒に帰りはいやだった。どうしたものかと思っていたら、
「ここまで来たんで、私は今日はこっちに残ります。藤澤さん、駅までタクシー呼びますから、お願いできますか」
工場まできて、これじゃという現場を見て、あとはこっちでなんとかするしかない。
一日つぶして来てみても、見れたまでが見れたまで、だらしのない日本語を補えるようなものがあるわけじゃない。工場の食堂でランチをご馳走?になって、水戸駅までのタクシー代はだしてくれたが、行き帰りの旅費はこっちもち、出張手当などあるわけもない。それでも物をみれれば、そこからなにかを拾える。

別の仕事でも、クライアントの工場まで足をはこんだが、製品としてのものがどうのこうのではなく、マニュアルを書いている人の日本語に問題がある。読み書きが不自由ということではないが、日本の学校教育では漢字が書けるの読めるの、不明瞭きわまりない文学書の読解が主体になっていて、事実を事実として伝える国語教育がないがしろされてきた。それは機械装置のマニュアルだからということではない。考えるという精神活動の根幹の母国語がしっかりしなければ、英語にかぎらず、社会であろうが哲学だろうが、なにをしたところでお遊びで終わる。

グローバリゼーションなどといっている人たち、それが何を意味しているのか考えたことがあるとも思えない。新聞やテレビのマスメディアからして、使っている言葉を定義して使っているようには見えない。日本文化の劣化が進んでいるのか、もともとその程度でやり過ごしてきただけなのかわからないが、言葉がしっかりしなければ、思考などしっかりしようがない。思考がしっかりしないということは……。

もっともその日本語のはっきりしない人たちのおかげで、英会話学校も翻訳屋も飯を食っていけるということで、学校教育も含めて、しっかりしてもらっちゃ困る、という事情もある。
こうして文章を書いていると、なんともはっきりしない、よくいえばどうとでもなる日本語に悩ませながら、できるだけ楽しむようにしている。近代日本語は明治以降のことだと思うが、いまだに句読点の使い方すら、これといった決まりがない。日本語は難しい。
2018/11/4