翻訳屋に19

<その名前、どうにかなりませんか>
たまに仕様書とでも呼んでいいのか、なんだかわからないのがまわってくることもあるが、翻訳のほとんどは取扱説明書か保守説明書だった。どちらも簡単明瞭な文章で、わかりやすいのは当たり前。それ以上に誤読の可能性を極力排除した内容でなければならない。誰が何をいうまでもなく技術文書の常識なのだが、巷の翻訳屋の体験からは、日本の製造業の多くにそんな常識があるとは思えない。

たかが三行の文章に「が」が五回も六回もでてくるのが特別ではない。それは「読解」というレベルをこえて、「解読」に近い。一つのものをいくつもの名前で呼んでいるなど、いつものことで驚きゃしない。三相誘導電動機を駆動するインバータ(ACドライブ)の「瞬停再始動」と「フライングスタート」、それぞれの機能を実現している制御を知らなければ、誰も同じ機能とは思わない。日常生活でも名前が違えは、違うものと考えるのが普通だろう。その普通が通用しない。翻訳を進めていって、それに気づくと、おいおい、よしてくれって言いたくなる。気がついたからいいようなものの、日本語に引きずられて訳してしまったらと思うと怖くなる。

あるページではローダーAとローダーBと呼んでいるものが、別のページではコンベア1とコンベア2、さらに別のページには搬送ユニット。機械装置がどういう構成でどのような動きをしているかを知っている人にしてみれば、物として知っているから、それがローダーと呼ばれようがコンベアだろうがどっちでもかまいやしない。
似たようなことがいくつもでてきて、早々に統一して置かないと、後で変更が面倒になると考えて、クライアントに電話で確認した。
「同じものに三つの名称が使われているんですけど、どれにしますか」
予想どおりの返事が返ってきた。
「どっちでもいいんですけど」
そういう話じゃないんだよねと思っても、言ってもしょうがない。勝手に無難な名前を使った。

同僚に「まいた」というのが二人いた。一人は「真板」もう一人は「米田」、そこにもう一人「米田」、こっちは「よねだ」だった。三人が社員食堂で昼飯食ってるときに、誰かが、「おーい、まいた」と声をかければ、二人とも、「なに、オレ?」と思う。書類のあて先が「米田」になっていたら、「まいたの米田」なのか「よねだの米田」なのかという話になる。なにも特別なことじゃないない。ところが、なぜか取扱説明書になったとたん、この普通に注意しなければならないことを忘れてしまう。勝って知ったる身内との仕事に終始して、社外との仕事の経験がないからなのだろうが、第三者に意思を伝える心構えがない。それが個人の問題であるうちはいいが、外にでれば社としての問題になる。

書いた人も含めた関係者以外の人が、機械装置を前にして説明書を読んで、すっと分かる文章はめったにない。似たような機械装置を散々使ってきた人なら、なんとも意味の通らない文章でも、何が書いてある「はず」なのか順当に想像できる。翻訳する立場でみれば、取扱説明書や保守説明書とは、書いてなければならないことのヒントのようなことが書いてある、そしてその書いてあることを、誤読を恐れながら、一つひとつ解き明かしてゆくようにして読解する書類ということになる。
残念ながら、日本(しばしヨーロッパも)の多くの製造業ではマニュアルも含めた製品のQA(Quality Assurance)の考えがない。誤解されてもおかしくないマニュアルを読んで、製品を使って事故にでもなったらと考えることがないのか、不思議でならない。

その分かりにくさ、たとえていうなら非常にできのいい、あきれるほどまでに難解な入試の長文読解に似ている。なんど読み返しても、もしかしたらこうかもしれない、でもああかもしれないというところまでにしかならない。翻訳者の能力の過半が実は英語の能力ではなく、この悪文を解読するだけの技術知識があるかにかかっている。まずまともな日本語に変換して、それから、書かれていなければならないことを英語で書く。それは書くのであって、とても翻訳という範疇では収まらない。
翻訳とは日本語で書かれた原文を忠実に英語に変換するとこであって、意訳すべきではないという翻訳者が多いだろう。その意見は尊重するが、目的は英語に訳された取扱説明書や保守説明書が、伝えなければならないことを、できる限り読み間違えない内容になっていることにある。この目的を考えもしないで何が翻訳なのかという議論に価値や意味があるとは思えない。

翻訳の枠をここまで乗り出て、まともな英文をと思っても、どうにも翻訳しようのない日本語に遭遇することがある。名前をつけ間違えられるとどうにも翻訳しきれない。
ある日曜衛生用品メーカが「ゴキブリキャッチ」という商品名の英文カタログを作りたいという。日本語のカタログは英文カタログのソースには使えない。浮ついた語感がいいだけのキャッチワードの氾濫で消費者に何を訴求したいのか分からない。「タンスにゴン」を英語に訳して、アメリカでイギリスで、誰が何がわかる?
何を訴えたいのか確認しようと、書いたご本人に電話した。何を訊いても、書いてある言葉をオオムのように繰り返すだけで、使っている言葉や句が意味していることの説明がない。

カタログを作成するには、類似製品が消費者にどのような訴求をしているかも調べなければならない。そのためにも、まず「ゴキブリキャッチ」なる製品の仕様書を読んで基本的な機能を把握することから始めた。カタログに限らずCommercial messageを考える際の常識だと思うのだが、日本語のカタログにはそんな考えがあるようにはみえない。

仕様書を読んで、たまげた。 「ゴキブリキャッチ」は簡便な家電製品なのだが、ゴキブリが嫌う超音波を発生してゴキブリを追い払うものだった。商品名は、ゴキブリをキャッチ=捉えるものなのだが、モノとしてはゴキブリを追い払う。どうしたものかと考えたが妙案が浮かばない。取扱説明書の類なら、多少はダラダラ書いて「名が体を表わさない」のをごまかすことも可能だが、カタログは消費者に一目で利点を訴える簡潔な文言が求められる。製品の機能から「ゴキブリキャッチ」の「キャッチ」を日本語で、まず追い払うという意味の言葉に換えて、それに合わせて英語の名称も考えた方がいいのではとクライアントに伝えた。

返ってきた返事は予想はしていたが、さもあらんだった。「『キャッチ』はカタカナでキャッチなんでキャッチでいいんです」と言う。カタカナになれば、もとの英語の意味にもカタカナの意味も関係ないという、ただの響きだけ?理解できないこっちがおかしいわけではないと思うのだが。
「もう、ゴキブリキャッチで登録商標までとってしまってます」商品名は変えられないと言う。ただ登録商標といっても日本国内だけの話のはずなので、英文名は和名の「ゴキブリキャッチ」から離れて、「名は体を表す」英語での商品名にしたらどうかと提案したが、「キャッチ」でいいんだという一点張りで、受け入れられなかった。何を話してもしょうがない。ゴキブリを追い払うゴキブリ捕捉器という訳の分からない製品のカタログを書き上げた。

高度成長期以降、日本が世界に近くなった。当然のこととして外国語を使う機会も増えつづけている。一昔前だったら無理してでも日本語に翻訳したろうが、使いだした英語やその他の外国語があまりに多くなりすぎたし、面倒だということなのだろう、外国語の発音をカタカナ表記してすませることが多くなった。元々はきちんとした日本語なのに、アクセントでもつける目的からか、わざわざカタカナ表記にしたものもある。なかには出自を想像し得ないほど日本語を捩ってカタカナにしたり英語にしたり、日本語と外国語をごった煮のようにしてカタカナで表記したものまである。カタカナの名前を聞いても読んでも、言語としてのルーツというか語源の痕跡の見当もつかない。

そのため、名前が何を意味しているのか想像もできない。名が体を表したのは多少なりとも歴史上のことで、今や、体を表した名を見つけるのに苦労する時代になった。知っている人に聞いて、なるほどと思うこともないわけではないが、命名した人の知性や教養を疑わせるものが多い。とんだ言葉でキャッチワードのつもりだろうが、聞いてピンとこない、体からあまりにも遊離した名前はキャッチワードの用をなさないと思うのだが。もっとも流行り言葉のじゃれあいのような業界で録を食んでいる人たち、その禄を提供している人たちやそこに生活の重心がある人たちにはそれはそれでいいのだろう。ただ、名付けされたモノが物のうちはいいが、それが人や文化を背負った組織となると、それでいいのだろういうわけにもゆかなくなる。

言葉は文化の基本。基本にある言葉の定義があやふやになれば、またその使い方が雑になれば、必然として文化そのものが荒れて怪しくなる。「名は体を表わさない」時代になってしまったが、多少でも「名は体を表す」に戻さないと日本という国の文化までが軽薄になって空洞化してゆく。文化が傷んでゆくということは、その今の文化を構成し、後世に伝えてゆく今の人たちの精神生活が傷んでいる、傷んでゆくことに他ならない。

<笑えない話>
1) 犬と猫
随分前のことでうろ覚えだが、名と体のひっくり返りのエピソードを新聞かなにかで読んだ。東京に赴任したある外国人夫婦が犬猫好きで、ペットとして買ってきた。ペットの犬には「ネコ」という名前を、猫には「イヌ」という名前をつけた。いたずら半分だったのだろうが、その名前のせいで、まだ幼児だった子供が犬と猫、「イヌ」と「ネコ」の関係を理解できない。家で犬を「ネコ」と呼び、猫を「イヌ」と呼んでいるから、街で犬を見れば、それを「ネコ」と呼ぶ。猫を見れば「イヌ」になる。子供にとっては大変な混乱だったろうが、ことは、一人の子供の犬と猫の種としての名称とペットの名前の間の混乱でしかない。
機械装置のように事故につながる可能性はない。

2)カルピス
七十八年だったと思うが、アメリカでカルピスが名前を変えてカルピコになった。日本人がカルピスと言うと、アメリカ人にはCow piss(牛の小便)に聞こえる。客はほぼ百パーセント日本人で、アメリカ人の客など、日本に住んでよほどの日本びいきになった人ぐらいだから、カルピスのままでもいいじゃないかと思うのだが、いやだったのだろう。

3) アスプローバ(生産スケジューラ・パッケージソフトウェア)
アスプローバと聞いたとたんに、同僚のアメリカ人が変な顔をした。会議が終わってなにかと思って聞いたら、
「それ、アメリカ人にはAss prober(肛門の探査)に聞える。アメリカ市場でも販売したいのなら、商品名を変えたほうがいい」
部外者の余計な心配。社名もアスプローバだった。

4) AI (人工知能) 新聞を読んでいて、何これという記事を目にする。近頃でいえば、なんでもAI(人工知能)になってきた。従来からのデータ処 理となんら変わらないのに、AIと言えば聞こえがいいとでも考えているのだろう。搭載されたソフトウェアが学習を通じて、新たな処理アルゴリズムを自ら生成するのならAIだが、そんなものいつになったら実現できるのか、予想の予想でしかない。
ところが、大学などの研究機関でさえ、研究予算ほしさもあってのことだろうが、ままごとのような処理システムをAIだと称していることもある。プレスリリーを受けたマスコミが何がAIなのかという定義に踏み込むとなく、プレスリリースに書いてあるようにAIとして記事に書く。巷の素人が何をいうかとお叱りを受けかねないが、まるで電車の中吊りのキャッチのようにはやり言葉を使って、それが一人歩きして巷の常識になっていく。ことは翻訳以前の問題なのだが、請負家業の翻訳屋としては扱いに困る。
2018/11/4