翻訳屋に20

<この英語分かりません>
雇ってもらった翻訳会社では、翻訳の質と生産性を考えて、翻訳者は和文英訳と英文和訳に分かれていた。特定の領域に明るい翻訳者には、できるだけその領域か周辺の仕事を任せたほうが生産性もいいし、品質の心配もない。似たようなことが、どっちの言語に翻訳するかについても言える。翻訳者は個人で用語や用例を蓄積して自分の辞書を作り上げている。日本語に訳すのと英語に訳すのでは辞書が違う。英(和)訳専門の翻訳者は英(和)訳専門で、逆の言葉への翻訳を依頼されても困る。翻訳できないわけではないが、辞書も資料もないから、戸惑いも大きいし時間もかかる。

三年半翻訳で禄を食んだが、英文和訳は何か特殊な事情でもなければ、頼まれなかった。和文英訳は英語でどうのという前に、わけの分からない日本語との格闘になる。何を言わんとしているのか分からない日本語で手を焼いて、英語なら文法がしっかりしているから、日本語ほど荒れた文章はないだろう、と英文和訳をうらやましく思っていた。

ある日、「これ、和訳なんだけど、適任者は藤澤さん、あんたしかいないだろう」と言いながら、営業マンが書類をもってきた。言われるとおりで、一見昼寝していてもできるものだった。製品は使いかた次第で旋盤にもなるし、フライス盤にもなる卓上工作機械だった。機械部品加工工場で使用する工作機械の技術屋を目指したものには、おもちゃにしかみえない。そんな機械に簡易なものにしてもCNC(工作機械専用の制御装置)まで搭載して、なんなんだこの工作機械的玩具は、というのが第一印象だった。バット一振りホームラン間違いなしの棒球(ぼうだま)がど真ん中に入ってきたような感じだった。

パソコンが普及する前だったから、英訳はタイプライターで打っていたが、和訳となるとそれこそ鉛筆なめなめになる。鉛筆と消しゴムの作業は疲れる。ただ誰がどう考えても適任だし、おもちゃのような機械に制御、何があっても分からないなんてことはない。ちょろい仕事、安請けした。
マニュアルを読み始めてあわてた。数ページ読んだが何をいっているのか見当がつかない。でてくる単語は見慣れたものしかないが、工作機械では使わない単語が目に付く。文法もあっていて文章にはなっている。でも書いてあることの意味が分からない。もうちょっと読み進めば分かってくるかもと読んでいったが、まったく分からない。何度も読み返して、添付の図面を見て、かなりの想像をはたらかせても、こんなことをいっているのかもしれないまでにしかならない。そんな状態で翻訳していったら、まともな日本語のマニュアルなんかできっこない。

いったいこの英語はなんだんだ、どこのどいつが書いたんだと思いながら、マニュアルの裏ページを見たら、メーカはオーストリアの会社だった。オリジナルのドイツ語のマニュアルを、技術知識のない人が用語を調べることもなく、字面で英語に翻訳したとしか思えない。
仕事を持ってきた営業マンに、
「軽くホームランって思ったんだけど、オーストリア人の英語がどうにもならない。クライアント、機械持ってないかな?」
「ああ、確かデモ機があったような気がするな。地下鉄で二十分ちょっとでいけるから、電話して聞いてみたら。たしかオリジナルのドイツ語のマニュアルもあったよ。こっちも持っていくかって聞かれたけど、英語があればいいだけで、ドイツ語のマニュアルなんか見てもしょうがないと思って、もらってこなかったんだ。いけば貸してもらえると思う。電話してみなよ」

クライアントは機械商社で、技術的な細かなことを訊いてもわかりっこない。物はおもちゃのような機械、物さえ見せてもらえれば、説明なんか聞くまでのこともない。早速、クライアントに電話して状況を説明した。
「申し訳ないです。マニュアルの英文、いくら読んでもよくわからないで困っています。たぶんオリジナルのドイツ語から字面で英語の翻訳されたものだと思います」
「ええーっ、そんなにわかりにくいですか?」
問い合わせしたときに返ってくるいつもの、見下したような口調だった。
「そうですね。英語としての文章にはなってるんですけど。単語単語も間違いじゃないかもしれませんが、それは日常会話の英語であって、工作機械の説明になってないんです」
「英語はしっかりしてるんでしょう?単語も間違ってない。でも内容がわからないなんてことあるんですか」
本題に入る前にしなければならない前置きのような話になった。何をわからなければならないかがわかっていない。マニュアルをそこまで突っ込んで読まない人に、何を言っているのかわからないということを説明するのは難しい。
「翻訳者から文章の意味がよくわからない」という問い合わせを受けて、マニュアルの記載の問題かもしれないと思うクライアントはまずいない。十人が十人、翻訳者が自分の知識の足りないのを棚に上げてのこととしか思わない。この思い込みを払拭するために自分の経歴をちょっと話さなければならない。油職工になりそこなった機械屋崩れ、自慢できるような仕事はしてこなかったという思いがある。自分の経歴には触れたくないが、前置きの話しでごちゃごちゃやるのが面倒になって、経歴でクライアントの門を押し開いた。

「日立精機で十年以上技術屋としてCNC旋盤の設計もしたこともあるし、アメリカ支社に駐在して据付から修理までしてきた経験があるんですけど、マニュアルに書いてある説明がわからないです。文法はあっています。単語も明確です。でも文章の意味がわからないんです。一度御社にお伺いして、実物を見せて頂けませんでしょうか」
「そういうのあるんですかね?」
あるんですよ。そっちにいって、この行、この行って意味不明の箇所を見せてやるからって思いながら、
「そうですよね。ちょっと想像つきにくいでしょうね。でもあるんです。現に目の前のマニュアル、散々CNC旋盤を使ってきましたけど、何を言わんとしているのかわからないです」
「御社にお伺いして、実物を見せていただけないでしょうか。お伺いしたときにこの文章、この文章と意味のはっきりしないところを見せします」

「見に来ていただけるはいいですけど、うちは商社で技術的な細かいところまで知っているのはいませんけど」
まったく、早々に商社のメンタリティが顔をだした。産業用設備では導入後のアフターサービスかが欠かせない。何年か使えば必ず傷む。分解して部品交換がというケースもある。ところが商社は売ったっきりで何もしない。技術的なサービスが必要なときは、メーカに取り次いで終わりで、それ以上の責任をとろうとしない。
卓上のおもちゃのような機械、そこにオーストリアからサービスマンに来てもらえば、サービスに対する対価より旅費の負担が大きくて、普通の顧客はサービスをあきらめざるをえない。これを承知で、まるで売り逃げするかのように専門商社がビジネスを展開している。当然の結果として海外品に対する評価が地に落ちる。落ちたとろで日本製のコピーが裾野を広げていく。

機械を目の前にして、「忙しいところ、申し訳ないです」といいながら、「おいおい、こんなおもちゃのような機械で手間かけさせるんじゃないよ」、といいたくなった。半日もあれば、全部分解して、組み立てて、細かな調整までしてもお釣りがくる。クライアントに頼んで、機能に関係する部分を分解して動作を確認した。
オリジナルのドイツ語のマニュアルを参照しながら英語のマニュアルを読解する作業になってしまった。ドイツ語はやったことはあるというだけ、それも十年以上前のことで忘れちゃいないが使い物になるレベルじゃない。

ドイツ語の辞書を引きながら、何を言わんとしているのかを一つひとつ確認にして、日本で業界標準となっている用語を使える範囲はつかってマニュアルを書き上げた。この使える範囲をどこまでにするかで苦慮した。読者は機械加工のプロではなく、日曜工作のアマチュアだろう。となると業界標準になっているからわかるはずだろうが通用しない。ときには分かりにくい(であろう)業界標準を使わずに、専門用語や言い回しを避けて平易な日本語に心がけた。こうなると、もうそれは翻訳という作業ではなく、マニュアルの書き起こしになる。これを翻訳だと思われちゃ困る。べつ料金よこせといいたくなる。

工作機械では、工場で何を気にすることもなく原点復帰という言葉が使われる。英語ではそれがReference point returnなのか、Zero returnなのかHomingなのか、どれも間違いでないこともあれば間違いのこともある。どのような作業をしようとしているかでどの言葉を使うかが決まる。なかには一般的な用語を意識的にさけて、わざわざ違う用語を使う面倒なメーカもある。いずれにしても何をしようとしているのか、作業の目的を理解しないと、適切な用語を選べない。
翻訳の際に英語でも日本語でもその他の言語でも言えるが、正しい正しくないというだけでなく、業界で一般的に使われている用語を使わないと、それだけで読んでもよく分からないマニュアルになってしまう。工作機械でspindleといえば主軸だが、主軸がspindleとは限らない。main shaftのこともある。主軸台といえば旋盤で、英語ではheadstockになる。主軸頭はフライス盤(マシニングセンター)で、英語ではspindle headになる。どこに使われているか、何を目的としているものなのかで名称が違う。こんなことはどこにいってもあることで、Operationなど、あまりに汎用でどこで使われるかで適切な日本語が違う。翻訳を数行読めば、知識のない翻訳者の仕事なのか、用語を調べる習慣のある翻訳者なのかわかる。

数ヶ月してクライアントから展示会の招待状が届いた。東京ビッグサイトについて、クライアントの小間に歩いていったら、派手なのぼり旗がみえた。ちょっと恥ずかしい。そののぼり旗、黄色地に赤い大きな字で「分かりやすいマニュアル」と書いてあった。そりゃそうだ。俺が書いたんだから、……。訪問したときに機械の説明をしてくれた人が、「ちょっと待ってください」といって、ストックルームから豪華なスイスアーミーナイフの粗品をもってきてくれた。あとは機械が売れれば、翻訳屋冥利ということなのだが、慈善事業でもあるまいし、そこまで丁寧な仕事をしていたら、飯の食い上げになってしまう。

必要最低限の知識もなく、調べる気持ちもない翻訳者に任せて、ドイツ語から英語、英語から日本語への二段階の翻訳を経た書類など何が書いてあるのか分かったもんじゃない。後年、イタリア語のマニュアルから英語に訳されたものを日本語に翻訳する羽目になったが、何が書いてあるのかいくら読んでもわからなかった。製品はCNC、その制御対象の工作機械も素人じゃない。そんなマニュアル、誰が読んでもわかりっこない「紙ごみ」以外のなにものでもない。その「紙ごみ」をマニュアルとしているメーカ、そんな翻訳をしている翻訳者、事故でもおきたら、どうするんだろう。
2018/11/11