翻訳屋に21

<工場見学と展示会と業界紙>
不明瞭な原稿は何が書かれなければならないのかを示しているヒントに過ぎないと考えて、そこからできるだけ誤読の可能性の少ない英語でマニュアルを書き上げなければならない。それが翻訳と言われている仕事の現実だと分かってはいても、悪文が続くと気がめいる。目も疲れて、立ちくらみどころか座っていて、くらっとすることさえある。

いくら読んでもわからないが続くと、ないものねだりだとわかっていても、物を見せてもらえないかと思い出す。営業にクライアントに聞いてもらえないかといっても、いい顔をしない。翻訳会社は、クライアントに翻訳者を引き合わせたくない。
翻訳者のなかには、クライアントに面通ししてもらえれば、後々翻訳会社抜きで直接仕事にできないかと思っている人もいる。
クライアントにしても翻訳者に直接発注できれば、間違いなく安くなるだろうと思っている。一般的には、クライアントから翻訳会社への支払いの約半分が翻訳者の手取りになる。翻訳会社を中抜きすれば、クライアントはコストを二割や三割節約できるし、翻訳者は二割三割実入りがよくなる。
こんな事情があるからだろうが、営業についてクライアントに行っても、翻訳者は名刺をださないことも多い。それが翻訳会社への礼儀なのか、翻訳会社からの縛りなのかわからない。名刺なんて出そうがだすまいが、両者が翻訳会社を外そうと思えば簡単で、いつでもできる。翻訳会社が仕事をもってくるから翻訳で飯を食っていける翻訳者なのだが、翻訳会社はいつも中抜きの危険にさらされている。

直接クライアントと思っている翻訳者が多いなかで、翻訳者によっては、クライアントから無償雑翻訳がくるのを恐れて、クライアントには会いたくないという人もいる。クライアントによっては、電話で翻訳者に「これ、なんていうんでしょうか」といってくるがいる。一語だけ言われても辞書でもあるいまいし、訳すに訳せないこともある。日本語は名詞でも英語では動詞にということもあれば、そんな言葉、訳さずに捨ててしまえというのもある。一語や一文ですめばいいが、ときにはその言葉が使われている前後の文章まで訳すはめになる。この類の飛び込みがあっちからこっちからくるようになると、本来の仕事ができなくなる。クライアントは翻訳者の善意からの無償サービスだと(思いたくて)思っていて、料金という話しにはならない。
クライアントとの直接の関係は痛し痒しなのだが、いい翻訳をと思えば、直接話をできるようにならなければならない。

クライアントの善意で、工場を見学させてもらえるのならとよろこんで行っても、期待していたようには物を見せてもらえないことも多い。できるだけ物も見せてもらって説明をと思っても、工場は見学者のために動いているわけではない。組み立て途中のものが多くて、装置の全体像は見れない。すべて組みあがって機能検査中であれば、装置として出来上がっているが、検査作業の邪魔はできない。工場見学から得られる知識は多いのだが限界がある。そこは生産現場であって、ショールームではない。

実はそこにショールームの意味がある。多少機種は違っても似たような製品であれば、ショールームに設置されている機械装置を動かして説明してもらえれば、説明書の読み方がわかる。後日細かなところで疑問がでてきても、ちょっと確認の問い合わせをすれば、とんでもない間違いのない英文マニュアルを書き上げられる。
工場見学やショールームの見学には、ものを理解するのとは別の意味もある。見学してまで翻訳しようとしている翻訳者をクライアントは高く評価する。一度でも会って話をしたことのあるクライアントとは後々話がし易い。知識は吸収できるし、仕事もしやすくなる。かかるコストは一日分の仕事と交通費。安いもんだと思うのだが、工場で技術屋として働いたことのない、文字の世界で生きている人文系出身の翻訳者には考えられないことらしい。
その気持ち、わからないわけではない。基礎知識があまりにも足りないと、目には見えても、ただの景色のようなもので終わってしまって、理解にも解釈にもならない。クライアントにしても何の知識も興味ももたない市民団体に形ながらの紹介をしているような気になる。お互いにとって時間の無駄でしかない。

完動品を人に見てもらえるようにセットアップして、説明する担当はまで用意しているのはショールームだけでなない。展示会に行けばショールームの規模をはるかに超えたものを見れる。クライアントが出展していれば、挨拶に顔をだすのは担当営業だけの礼儀でもないはずで、翻訳した機械装置が出展されていれば、仕事を中断してでも挨拶に行くべきだと思う。挨拶に行けば翻訳した機械装置の上流や下流に位置する関連製品の紹介もしてもらえるし、いいことばかりだと思うのだが、展示会場にまで足を伸ばす翻訳者はほとんどいない。

東京で仕事をしているということがどれほど恵まれているのかを考えたことがあるのかと訊きたくなることがある。大学を始めとする学術研究団体もあれば、さまざまな業界団体や業界紙のほとんどが千代田区や文京区、中央区や品川区あたりに事務所をかまえている。工業会や業界団体は会報や参考文献を出版しているところもあるし、資料室や図書館までもっているところもある。
業界紙には新聞の体をなしているものもあれば、月刊誌、なかには季刊誌もある。月刊誌や季刊誌は特集号を組んでいるから、これといった領域の特集号があればバックナンバーを購入できる。業界団体や業界新聞社は、これこれを知りたいという目的さえ伝えられれば、親切に教えてくれるところが多い。特に業界新聞社は社会の公器の意識があるのか、過去の特集記事まで探してきて、いろいろ教えてくれる。

展示会はもう東京一極集中になってしまった。インテックス大阪はかつての勢いがなくなって、一地方展示会場のようにあれこれの業界の雑然とした展示会しか開かれなくなってしまった。名古屋やさすがにトヨタのお膝元で自動車関係の展示会が開催されてはいるが、それ以外ではこれといった展示会はない。
東京の展示会場はビッグサイトに幕張メッセに、かなり手狭の東京フォーラムになるが、日本の展示会は極端に言ってしまえば、前者の二つしかない。ちょっと想像してみればいい。もし、首都圏以外、たとえば、金沢とか福岡、仙台で仕事をしていたら、実物を見たいと思っても、交通費を考えると、ちょっと展示会でという話にならない。
展示会は春と秋に集中している。そのため多い月には五回も六回も展示会場に行くとこになる。毎年開かれる展示会でも見損なえば一年待たなければならない。なかには二年に一回しか開催されないものもあって、展示会は「百聞は一見にしかず」を確認する場だった。
2018/11/11