翻訳屋に29

<英字新聞と雑誌>
翻訳者志望の人たちが、誰とはなくジャパンタイムズを買ってきた。買ってくるのはきまって月曜日だった。なんで月曜日だけなのか、聞いて驚いた。月曜日の三面記事の下に、二三行の小さな求人広告がずらっとならんでいて、そこにいくつもの翻訳者の求人広告があった。買ってきたのは、記事を読むためではなく求人広告をみるためだった。
もし、ここを首になっても、どこかに行けば、翻訳者への道があるだろうという、翻訳者志望の若い人たちには、ちょっとした精神安定剤だった。いつ首になってもおかしくないということでは、似たような立場なのに、そんなことを考えたこともない自分が不思議だった。将来どうなるか分からない不安をかかえて生きている(はずな)のに、不安を感じない。三十過ぎても若さにまかせた生来の能天気だった。

翻訳者志望の誰もちょっと紙面をなぞるだけで、新聞そのものを読もうとはしない。英字新聞を読むには英語の能力が低すぎて、読めない分けではないにしても、時間はかかるし疲れる。読んだところで、何のニュースがあるわけでもない。仕事で英語で四苦八苦しているのに、新聞を読むのに事務所で辞書をひきひきという気になれない。

当時、少なくとも八十年代の中ごろまでは、英語をそこそこ勉強したことのある人なら、どこかでジャパンタイムズを読んだこと、あるいは読もうとしたことがあると思う。翻訳者を目指す人ならなおさらで、ジャパンタイムズ以外にも、ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポスト、なかにはガーディアンまで、一度は手にとっているだろう。
そういう自分も、英会話学校にいっているとき、ジャパンタイムズを何度か買って読んだ。恥ずかしい話、英字新聞を手にして読んでいる(格好)にあこがれたものだった。英語のレベルが低すぎて、とても電車のなかでは読みきれなかったがが、いくらもしないうちに慣れてくる。使っている単語も、言い回しも日本人の英語で、書かれているのは知識という意味では読んでもしょうがないものだった。海外のニュースにしても英語を勉強する視点からみれば、ジャパンタイムズはそこそこの英語のレベルの人たちが親しめる英字新聞で、記事も英語も面白くない。始めて手に取る英字新聞というまで、たいした勉強にはならない。このレベルはさっさと抜けてしまわなければならない。

このレベルを乗り越えるのにはちょっとしたコツがいる。手に取ったジャパンタイムズを隅から隅まで読もうとしないほうがいい。当たり前の話で、こんなことを一々言うことないともう。たとえば、野球やスポーツに興味のない人だったら、そんなことに時間をかけないほうがいいし、科学技術に関係したことは当面おいておこうというのもありだろう。個人の好みだけからでは決められないかもしれないが、時事ニュースで騒ぎになっている箇所だけを読めば、毎日似たような記事が同じ用語で似たような文体で紙面を賑わせているから、一週間も読めば、用語も言い回しも(ただし日本人の英語でだが)覚えてしまう。日米摩擦がときの話題なら、米中貿易戦争なら、中東の紛争なら、……その時々の話題を集中して、一つひとつ理解できる領域を広げてゆく。

こうして、用語と言い回しを身につけてから、ネイティブの英字新聞に取り掛かるのだが、わかる領域を広げていくということでは同じ方法でいい。読めばすぐに気がつくのだが、一般記事と社説では読むのに必要な英語のレベルが大きく違う。一般記事であれば、単調な文体に基礎単語程度までしか出てこないから、たいした時間もかからないうちに大体読めるようになる。ところが、ニューヨーク・タイムスあたりの社説やニューヨーカーになると、アメリカの大学で英語を専門とする学科の人が一生に何度遭遇するかという、ここにしか使えないという単語がちょくちょく顔をだす。表現もカラフルというのか、英語とはここまで豊かな語彙をもった言語だったんだと、驚かされる。

ここで、めったにお目にかかれない単語やいいまわしなどを覚えようとしない方がいい。そんなもの当面わからなくてもかまわない。勉強してゆく過程で自然と身につくものはついてくる。つかないものはいらないものと割り切ってしまう。
しょっちゅうでてくる単語や言い回しは、何度も遭遇しているうちに嫌でも覚えてしまう。単語帳を作るのは自由だが、お勧めしない。受験勉強でもあるまいし、水を流すように英語を流していって、身につくものは自然と身につくというやりかたの方が、本来のあり方だろう。

朝日イブニングニュースが毎週水曜日か木曜日にニューヨーク・タイムスの社説の抜き刷り八ページの新聞として発行していた。 ニューヨーク・タイムスでも、ハリケーンや山火事のような自然災害から何かの事故などの三面記事は簡単に読めるようになる。ただ社説は内容以上に用語と言い回しが難しい。
英語の週刊誌は、社説を一冊にまとめたものと思えばいい。英字の週刊誌といえば、TIMEやニューズウィークを思い出す人が多いだろう。読みたければ読めばいいが、記事の内容を思うと、特にTIMEは読むに値しない。記事の質と論調をと思うのなら、社会経済ならEconomistの右ででるものはない。科学一般であればScientific Americanなのだが、ずいぶん前に編集方針が一般大衆向けに変わったのだろう、読みやすくはなったが、内容は妥協したものになってしまった。Natureも気になるが読んだことがない。

ここで、もっとも大事なことがある。一体自分が仕事で必要とする知識は何なんだという視点を忘れてはならない。一般社会常識を英語でという人や、英語が趣味なんですという人なら、英字新聞や雑誌が読めればいいが、趣味で英語を勉強しているわけじゃないのなら、自身の業界や領域の雑誌を掘り下げて読まければならない。

よく日本人が読み書きまではいいだけど、聞き取りと話ができないというのを聞くが、一度も読んだこともなければ、辞書も引いたこともない単語が聞き取れる分けがないし、ましてや丁々発止の会話で使えるはずがない。英語での日常生活の環境にいられなければ、まず読んで語彙と言い回しの習得に努めるしかない。理解の能力を階層で表せば、次のようになる。
1) 一度も見たことも聞いたこともない
2) 見たことも聞いたこともあるし、辞書でも引いたことがある
3) 読んで理解できる
4) 書く文章のなかで使える
5) 聞いて理解できる
6) 話のなかで使える

日常生活から社会問題や経済問題、さらに文化や科学や宗教など広範な領域で、レベル5)を目指す必要があるとは思えないし、ネイティブでもそこまでの能力をもっているのは知識人階層の人でもなければほとんどいない。英語で何をできるようになりたいかによって、どの階層までの能力が必要かが決まる。
当然の話で、技術翻訳を目指すのであれば、英語のレベルでは4)までで十分。ただ、英語と日本語でと特定の技術的な知識と思うと、一般の新聞や雑誌に手間暇かけている余裕がなくなる。自分の領域、その領域を広げるためには新聞や雑誌はある程度に抑えて、業界紙を深読みするほうを優先しなければならない。日常会話はたいしたことないのに、特定の領域では日本語でも英語でも妙に詳しい偏った(変な)人になるは避けられない。
確固たる自分の専門領域をもたないと、字面で翻訳するだけの英語使いになってしまう。
2018/12/2